10月8日の礼拝説教

使徒言行禄27:17~30

「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」(28:28)

キリストの使徒パウロは、ついに福音の使者としてローマに着きました。福音の使者でありながら、ローマ皇帝の前での裁判に出頭する囚人としてローマに来ています。16節を見ると、「パウロには番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを赦された」とあります。見張られながらも、かなりの自由が許されていたようです。

使徒言行禄は、パウロが自分の裁判が開かれるのを待ちながら、自分の家を訪ねてくる人にイエス・キリストを証ししつづけた、というところで終わっています。不思議に思わされるのは、パウロがローマに来たところまで描かれてきたのに、その裁判がどうなったのか書かれていないことです。

使徒言行禄は中途半端なところで終わっています。私たちが興味があるのは、パウロの裁判はどうなったのか、パウロの使徒としての人生はどのように終わったのか、ローマで福音はどのように広がり新たにキリスト者が起こされて行ったのか、ということではないでしょうか。

それなのに聖書にはその後のことが何も書かれず、パウロがローマで異邦人に向けて福音を語り続けた、というところで突然終わっています。なぜこのような終わり方なのでしょうか。使徒言行禄は、この場面で私たちに何を見せようとしているのでしょうか。考えたいと思います。

パウロがローマに着き、まずしたことは、ローマの主だったユダヤ人たちを招き、イエス・キリストを伝える、ということでした。

23節には「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした」とあります。

ローマに来たパウロが一番一番会いたいと願っていたのは、実はローマ皇帝ではありませんでした。ローマにいたユダヤ人たちでした。律法と預言書を知り、イスラエルのメシアの到来を待っていた、パウロと同じ信仰をもっていた人たちです。

紀元49年にはクラウディウス帝によってローマからユダヤ人追放令が出され、その後、戻って来たユダヤ人たちは、それぞれが信仰の苦しみを経ていました。彼らはそのような苦難にあっても聖書の信仰を捨てることなく、メシア到来の預言に希望を持っていました。パウロは、その人たちとメシアの到来を共に喜びたいと願っていたのです。

パウロは、イスラエルの希望のために自分はこのように鎖でつながれているのだ、と言いました。たとえ自分が鎖につながれても、イスラエルに与えられた希望までも鎖につながれることはないことを言いました。

しかしローマにいたユダヤ人たちは、パウロが伝える福音を受け入れず、皆パウロの下から去って行きました。ある人は福音を受け入れたようですが、その人もパウロのもとには残りませんでした。

パウロは自分の下から去って行くユダヤ人たちに、預言者イザヤの言葉を引用し、自分は神を求める人たちにこれから福音を語る、と告げました。

パウロは新たに福音を伝えるべき相手を搾りました。ローマにいたユダヤ人以外の人たち、異邦人です。

使徒言行禄の最後の場面は、キリストの宣教の初めとよく似ています。ルカ福音書の初めを読むと、キリストははじめイザヤ書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」とおっしゃいました。つまり、御自分が神のメシアであることをおっしゃいました。

しかし人々は信じられませんでした。

「あれは私たちがよく知っているイエスではないか。ヨセフの子ではないか」

キリストは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とおっしゃり、福音を受け入れるのはむしろ異邦人であることを預言して、そこを立ち去られました。キリストの福音宣教の旅はそこから始まります。

キリストも、パウロも、福音を受け入れない人たちに向かって、イザヤ預言の言葉を告げています。福音に背を向けて去って行くユダヤ人たちにパウロが26節以下で引用して語ったイザヤ預言は、イザヤが神に召された時に、神から言われた言葉です。

神に背を向けるイスラエルの民に「立ち返るな」と伝える内容です。「イスラエルの人々を私の下に連れ戻しなさい」ではなく、「イスラエルの人たちが私の下に帰ってこないようにしなさい」と神はお告げになりました。イスラエルが、偶像礼拝の裁きを受けるためです。

神はイザヤを始め、預言者たちを遣わして何度もご自分から離れたイスラエルに、戻ってくるようにと繰り返し御告げになりました。しかし、人々は聞かなかったのです。迫って来る巨大な帝国の支配の中でどう生き延びるべきか、いつもイスラエルは悩んでいました。そしてアッシリア帝国の支配に入り、アッシリアの神を取り入れることを決めてしまいます。

真の神から離れたらどうなってしまうのか、神の言葉を聞かず偶像礼拝に生きるとどうなってしまうのか、イスラエルは身をもって体験しなくてはならなくなったのです。それが、イザヤに託された神の言葉でした。

しかし神は、神の元に戻ってこようとしない人たちの中にあって、それでも神を求める少数の人たちがいることをイザヤにおっしゃいました。「残りの者」と呼ばれる人たちです。やがて滅びるイスラエルの中から、その人たちが、切り株から芽生えるひこばえのように、新しく神の民として成長していくだろう、という預言です。

パウロは、そのイザヤの言葉を、自分から去っていくユダヤ人たちに、つまり、イエス・キリストの下から去っていく人たちに伝えたのです。「あなたたちは今キリストの福音から去って行くが、やがて、あなたがたとは別のところから信仰者の群れが起こされて来るだろう」

パウロが告げた福音を受け入れず立ち去ったユダヤ人たちはこのあとどうなるのでしょうか。もうユダヤ人はイエス・キリストを知ることができなくなってしまった・・・神・キリストから見捨てられた、ということなのでしょうか。

そうではありません。

パウロはロマ書の9章で書いている。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとせず、むしろ、異邦人の方がキリストを受け入れていました。これがパウロの痛みでした。

しかしパウロはローマの信徒への手紙の中でこのように書いています。神はユダヤ人をお見捨てになったのではない、いずれユダヤ人と異邦人、全ての人がキリストの下に一つとされる、と。今は不従順なユダヤ人も、キリストに立ち返る異邦人の姿を見て、やがて立ち返るべきキリストの姿を見出すことになる、と言います。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、全ての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求める全ての人を豊かにお恵みになる。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」 今はそこに至る途中なのだ、と。

私たちは覚えたいと思います。神は全ての人が、自分の意思でご自分の下に戻ってくることを忍耐して待っていらっしゃるのです。今、私たちはそこへの途上を歩んでいます。

キリストの一番弟子のペトロは「神は忍耐していらっしゃるのだ」と言っています。

「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」

私達は、すぐに自分の目に見えることで全てを判断してしまいます。自分の教会生活、礼拝生活がどれほど実を結んでいるか、自分の信仰生活がどれほど他の人たちへの証しになっているか、自分の周りを見てもよくわからないでしょう。

預言者が伝えて来た主の日、キリストがおっしゃった神の裁きの日は、来ないではないか、自分の信仰生活は無駄ではないか、と思ってしまうようなこともあるでしょう。自分の目の前や周囲を見回して、自分の信仰生活が成功しているのか失敗しているのか不安になることもあるでしょう。

しかし、自分が今どのように神によって用いられているのかは、自分の知識や見えるものだけではとらえきることは出来ません。神は間違いなく、今の私たちをご覧になっています。そして私たちと一緒に、一人も滅びないで皆が神の元へと立ち返る時が来るのを忍耐して待っていらっしゃるのです。

パウロはコリント教会にこう書いています。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」

主の日が来るまで、私たちは福音の種を蒔き、少し水をやればいいのです。あとは神に委ねればいい。成長させてくださるのは神だからです。

私達の祈りで、私達が語る小さな信仰の言葉で誰かをいきなり劇的に変えることはできません。いきなり誰かをキリスト者に変えることは出来ません。キリストの証をしても、ほとんどの人は私たちの前から立ち去ってしまいます。そのようなことはキリスト者であれば誰でも経験があるでしょう。

私達はすぐに、あの人はキリストを信じそうだ、とか、あの人はキリストを信じることはないだろう、とか、勝手に決めつけてしまいます。しかし、神のご計画は、私達に極めつくすことが出来ないのです。

旧約聖書の出エジプト記を見えると、奴隷とされていたエジプトから脱出したイスラエルの民は、荒れ野で皆死んでしまったことが書かれています。約束の地にたどり着いたのは、荒れ野で生まれ、歩き続けた第二世代でした。

出エジプトの第一世代は、皆荒れ野で死んでしまいました。せっかくエジプトでの奴隷生活から解放されたのに、荒れ野を歩くことになり、皆荒れ野で死ぬことになった・・・エジプトを脱出した人たちの信仰の歩み・荒れ野での歩みは無駄だったのでしょうか。

そうではありません。次の世代に、信仰の歩みはつながって行きます。第一世代の出エジプトがあったからこそ、第二世代は約束の地に着いたのです。

ペトロは手紙で書いています。

「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」

私たちのこの世での生活は仮住まいなのです。天の故郷へと帰って行く旅人です。私たちが歩んだ後に残る足跡は、次の世代の信仰者に受け継がれていきます。私たちの信仰の歩みは決して無駄ではないのです。

ヨハネ黙示録には主の日、最後の日に起こることが書かれています。

最初の天と最初の地は去って行く。

「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」

私たちは、神の国へと続く信仰の道を一歩、一歩進んでいきます。その一歩は、自分一人で、自分一世代だけで完結するものではありません。

神の救いの完成への道の途上を上手く進めないこともあります。しかし、私たちは確かに神の救いの完成へと向かっているのです。世の終わりに、全ての人がキリストの下に一つになる時に向けて。そして、その時には全ての涙がぬぐわれます。讃美に包まれるのです。

キリストはおっしゃいました。

「私はブドウの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」

私たちは、イエス・キリストにつながっていればいいのです。自力で何ができるだろうか、ということにばかり心を向けなくてもいいのです。私たちが心を向けるのは、ぶどうの実が枝につながり、枝は木につながっているように、私たちがイエス・キリストにつながっているかどうか、ということです。

初めに、使徒言行禄は中途半端なところで終わっている、ということを話しました。実は、使徒言行禄に完結はありません。使徒言行禄はここで途切れていますが、その続きの物語は私たちなのです。この続きの物語を、今私たちは生きています。

キリストにつながっていきましょう。キリストにつながっていれば、実りが与えられます。命を懸けて私たちにつながっていてくださった方が、私たちを求めていらっしゃいます。私たちは、その方の招きに応じて生きるのです。それが、キリスト者の生き方です。

私たちは偶像礼拝の裁きによる滅びの中から生え出たひこばえとして今も成長させていただいています。私たちは確かに小さな礼拝の群れです。無力さを感じることもあります。他の教会から支えていただかなければ活動を続けていくこともできない、微力な群れです。

しかし、私につながっていなさいとキリストはおっしゃいます。その言葉を聞き続けて行きましょう。

パウロはローマで、自分の裁判が開かれるのを待つことになりました。その間、大胆に福音を自由に語り続けました。聖書は、パウロの裁判がどうなるか、ということ以上に、このようにして神の福音は世界へと広がって行った、ということを伝えています。

キリスト者が鎖でつながれようが神の国の実現を止めることはできません。使徒言行禄の続きを、今私たちは生きているのです。