12月10日の礼拝説教

創世記3:1~13

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」

聖書の初めに記されているこの創造物語は、天地が創造され、人が楽園に住むようになって理想郷ができて終わり、という話ではありませんでした。神が言葉をもって天地の秩序を創造され、人が楽園に生きるようになってからすぐに、人が神から与えられた楽園から追放されてしまう、という悲劇が起こるのです。

天地創造も、楽園からの追放も、私たちにとっては昔話でもなくおとぎ話でもありません。聖書は、私たち一人一人が今置かれている現実を生々しく描き出し、警告を発しています。「ここに、あなたの姿がある。あなたはこの楽園の登場人物なのだ」と突きつけるのです。

聖書は、ここに書かれている出来事を他人事として私たちが読むことを許しません。私たちの目を何度も、この世界の根源にあるもの・我々人間の根源にあるものへと向けさせます。そのことを踏まえなければ、私達がイエス・キリストの言葉を聞いても、キリストの御業を見ても、本当にはわからないのです。

なぜキリストは「私は真のブドウの木、私につながっていなさい」とおっしゃったのでしょうか。

なぜキリストは「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったのでしょうか。

キリストは私達をどこへと連れ戻そうとしてくださったのか。

なぜキリストは十字架で殺されるために、この世に生まれてくださったのか。

全ては、人が神の言葉を捨てて罪の誘惑に身を委ねた、ここから始まっているのです。ここから人間をご自分の下に取り戻そうとなさる神の招きの御業が始まるのです。その神の招き・救いの御業の歴史を記したのが、聖書です。

私たちは創世記を読んで「太古の昔に、アダムとエバが罪を犯した」という風に、他人事のような言い方をしてしまいます。しかしそうではないのです。天地創造を読むたびに、楽園からの追放を読むたびに、私たちは今自分が置かれている現実を見せられることになるのです。

今日私たちは創世記3章の初めを読みました。天地と生き物の創造が1章2章と描かれてきて、3章に入って、聖書で初めての会話が記録されています。

聖書に出てくる初めての会話は、神と人間の会話ではありませんでした。神と人間が言葉を交わす前に、誘惑がやって来ました。

神と人間が初めて互いに言葉を交わすのは、蛇の言葉を聞いた男と女が善悪の知識の木の実を食べてしまった後です。神は楽園の中で、人に呼びかけられます。

「どこにいるのか。」

それに対して人の答えは「あなたを恐れて隠れております」というものでした。

「あなたはどこにいるのか」 「私はあなたから隠れている」

これが神と人間との間に交わされた最初の会話の内容です。いなくなった人間を追い求めていらっしゃる神と、神から隠れようとする人間の会話です。楽園で交わされた会話とは思えない内容です。

豊かに実を結ぶ木が茂り、その間を美しい川が流れる園で神と人が語りあう、という光景であれば、まさに楽園・パラダイスと呼べたでしょう。しかし、蛇の誘惑の声を聞き、自分が神のようになろうとした人間は、神との間に何か大切なものを失ってしまいました。蛇と女の間に交わされたのは、誘惑する者と、誘惑される者との会話でした。

人間に忍び寄ってくる誘惑の声がどれほど狡猾なのか、そして誘惑にさらされる人間がどれほど弱いのか・・・創世記が私たちに見せようとしているのは、まさにこのことなのです。

救いとは何でしょうか。神から離れていた者がもう一度神の恵みの支配に戻ることです。神の元へと連れ戻すために迎えに来てくださった方を、私たちは「救い主」と呼んでいます。「救い主・キリスト」という言葉の意味を知るためにも、私達は今日特に、蛇の誘惑の言葉をよく見つめたいと思います。

「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は、人を神から引き離そうとする力、罪の象徴としてここに登場します。その「賢さ」は人を誤った方向に導こうとする賢さであり、神がいらっしゃるのとは反対の方向に行きたくさせる「賢さ」でした。

蛇は女に言いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」

蛇が女に直接質問しているような言葉です。しかし、元のヘブライ語では蛇が独り言をつぶやいたような言い方をしています。

「そうか、神はどの木からも食べてはいけないなどとおっしゃったのか・・・」

わざと人に聞こえる所で独り言をぼそっとつぶやいたような言い方です。その言葉が聞こえた女は、蛇の誤解を訂正します。

「食べてはいけないと言われている木は一本だけです。食べると死んでしまうと言われています」

何も知らないかのようにふるまっていた蛇は、今度は何でも知っているかのように振舞います。「その木を食べても死にはません。食べると神のようになれるのです」

蛇がしたことは、それだけだった。誘惑の恐ろしいところは、それが誘惑だと分からないことです。蛇の賢さは、一度も「その実を食べてごらんなさい」と言っていないことです。

「そうですか、神はあの木の実を食べてはいけないなどとおっしゃったのですか。神はあなたが賢くなることを、強くなることを怖がっているのですね」・・・こうつぶやいただけなのです。

蛇の言葉を聞いた後、女がその木を見ると「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなれるようにそそのかしていた」と6節に書かれています。蛇の誘惑の言葉を聞くまでは、その木の実を「美味しそう」とは思わなかったはずです。「食べると死んでしまう」と神から言われている「おそろしいもの」だったはずです。しかし、蛇の言葉を聞くと、その木の実が、突然美味しそうに見え始めた、というのです。

蛇ではなく、今度はその木の実そのものが女をそそのかすようになりました。女は、蛇に無理矢理食べさせられたのではありません。蛇の言葉を聞いて、自分の意志で手を伸ばし、実を食べ、それを一緒にいた男に渡したのです。

どうでしょうか。私たちは、この蛇の言葉は自分には無縁だと言えるでしょうか。木の実を食べてしまう女と男は、自分よりも弱い、と言えるでしょうか。

使徒パウロが、手紙の中でこんなことを書いています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです」

確かにそうでしょう。サタンがサタンの姿でやってきたら、誰だって警戒します。女にとって、この時の蛇は光の天使に見えていたかもしれません。「知らないのであれば、教えてあげましょう」という思いやりに満ちた親切な姿で近寄ってきています。

教会の中にいれば誘惑とは無縁になるなんてことはありません。逆です。教会の中にいて神の言葉を聞いている信仰者にこそ、誘惑は来ます。私たちはここに自分たちの今を、そして将来を見ます。

使徒パウロは、手紙の中でイスラエルの偶像礼拝の歴史を振り返り、教会にこう言っています。

「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」

イスラエルは何度も神から離れました。そのたびに、イスラエルは滅びを体験しました。私たちは、この創世記の出来事を、信仰の失敗事例・繰り返してはならない過ちとしてここから学ばなければならないのです。

創世記の初めに描かれている天地創造の物語、それに続くアダムとエバの物語はとても有名です。聖書を読んだことがない人でも、知っている人は多いでしょう。しかし改めて、私たちは、この創世記の物語にどう向き合っているでしょうか。

不思議な物語なので、素朴な疑問がいろいろと湧いてくるでしょう。

なぜ、神は、食べてはならない善悪の知識の木をわざわざ楽園に造られたのか。

「善悪の知識の木の実を食べると必ず死んでしまう」と神はおっしゃったが、それを食べても男も女も実際には死にませんでした。別に毒があった、というわけではないようです。では、神がおっしゃった「死んでしまう」とはどういう意味だったのだろうか。

どうして、神ご自身が、実を食べようとする女を、男を止めてくださらなかったのだろうか。

神がそんな木を造られたのが間違いではなかったのか。

蛇などお創りにならなければよかったのに。

そのように考えて行くと、「全て神が悪いじゃないか」、ということになってくる。しかし、そのような読み方をしても、聖書が私たちに伝えようとすることを受け取ることはできません。

女がまず蛇の誘惑に負け、そのせいで男が実を食べることになったのを見て、「女の方に責任があるのではないか」と読む人もいるかもしれません。

しかし、聖書の原文を見ると、この場面で蛇が女に向かって「あなたたち」という複数形の言葉で呼びかけています。そして女も「わたしたち」という言葉で答えています。更に女は「一緒にいた男に」実を渡した、とあります。つまり、男もその場にいて、女と一緒に蛇の言葉を聞いていたということです。

これは、「全部神が悪い」という話でも、「男と女、どちらに罪の責任があるか」という、話でもないのです。罪の力が、誘惑の力が、どのように人間を取り込むのか、どのように神から私たちを引き離すのかを伝える警告の物語なのです。

そもそも、人は誘惑に負けたいのです。目の前にある快楽だけが大きく見え、その向こうにある破滅は見て見ぬふりをしていたいのです。女は実を食べ、自分が食べたのを見せた上で、次に男に実を渡しました。その道に一歩踏み込んだ人は、次に、別の人をその道へと誘うことになります。

この蛇のささやき声は、決して昔話ではありません。創世記に書かれていることは、実は今、私たちに現在進行形で起こっていることなのです。私達の周りにどれだけ誘惑があるか、一体どれだけの蛇がいるか。神を見えなくさせる声、神の存在を否定する声、神への信頼の無意味を主張する声は、日々私たちに向けられています。人を神から引き離す賢さ・信仰を壊すための被造物の賢さに、私たちはこの世で取り囲まれているのです。

私たちには、食べてはならない木の実がある。超えてはならない一線があります。ではどのように誘惑に立ち向かえばいいのでしょうか。

イエス・キリストがガリラヤで福音宣教をなさった際、弟子達を派遣されたことがあります。その際、「汚れた霊に対する権能を授け」その他何も持たせずに送り出された、と書かれています。汚れた霊に対する権能とは、「誘惑に勝つ力」ということでしょう。

そしてキリストは弟子達を二人一組で派遣されました。一人一人、ではなく、二人一組です。2人が共に助け合って誘惑に立ち向かいながら、福音を伝えることができるように、ということではないでしょうか。キリストが弟子達を二人一組という小さな信仰共同体として派遣されました。信仰の業は決して孤独ではないのです。

なぜ私達は、キリスト教会という信仰共同体として生きるのでしょうか。家の中で一人で、聖書の読みたいところだけを読んで完結するような信仰生活だってやろうと思えばできるでしょう。

しかし、あのペンテコステの日、聖霊は祈りの「群れ」の上に注がれました。1人の立派な信仰者に注がれたのではありません。一緒に祈る人たち、互いのために祈って支えあう人たちの上に注がれました。キリストは共同体として教会をお創りになったのです。一人が誘惑にさらされても、隣にいる誰かがその人を支えるのです。信仰の友を、信仰の家族が備えられているのです。

キリストはおっしゃいました。

「私は良い羊飼いである。・・・私は羊のために命を捨てる・・・私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は独りの羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

私たちは信仰の群れとして生きます。大牧者イエス・キリストを求めていれば、群れからはぐれることはありません。今私たちは、この方の導きによって誘惑から救い出され、インマヌエルの恵みの内に一つとされているのです。

イエス・キリストは、ご自分の命をもって、神の国へと続く道を切り開いてくださいました。

「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」

私達には、立ち返る場所があります。そこへと導いて下さる大牧者・救い主がいらっしゃいます。大牧者イエス・キリストの声を聞きながら、私たちは、楽園へと、神の国へと、天の故郷へと向かっているのです。

アドベントの時、創世記の蛇の誘惑を通して、改めて自分自身の姿勢を省みたいと思います。