12月17日の礼拝説教

創世記3:1~13

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り・・・」(3:7)

エデンの園で土に仕え土を守る生き方を与えられた夫婦は、蛇の誘惑に負けてしまいました。神から「食べると死んでしまう。食べてはならない」と命じられていた木の実を、二人はあっけなく食べてしまったのです。

夫婦で相談することなく、神の言葉を思い出して互いに戒めあうことなく、二人は順番に実を食べました。本当はこのような時にこそ、神の言葉のうちに留まるよう夫婦で励ましあうことが求められていたはずなのに、です。

この場面を読むと、誰もが「なぜ二人はこんなにも簡単に誘惑に負けてしまったのか」と思うのではないでしょうか。私たちは、ここに人間のもろさを見ます。

イエス・キリストは十字架に上げられる直前、弟子達に「あなたたちは私を見捨てるだろう」とおっしゃいました。弟子達は言い返します。「あなたを見捨てることなど決してありません」。

しかし主イエスがゲツセマネの園で、「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃった通り、「死ぬことになってもあなたを知らないなどと言いません」と言った弟子達は、わずか数時間の内にキリストを見捨てて散り散りに逃げて去りました。

人が心の中でどんなに強く「自分は神の言葉から離れない」と思っていたとしても、誘惑の言葉を聞いて崩れるのは一瞬なのです。だからこそ創世記はこの夫婦の罪の姿を通して私たちに警告しているのです。

「自分は大丈夫だ、自分だけは大丈夫だ」と思っている人ほど、実は脆かったりします。自分の弱さを知り、自分の弱さを恐れている人の方が、慎重に神の言葉を吟味するのではないでしょうか。

私たちは今日、木の実を食べた夫婦と同じ弱さ・キリストを見捨てた弟子達と同じ弱さを持つ者として、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

2:17で神は人におっしゃいました。

「あなたは園のどの木からも実を取って食べてよいが、善悪を知る木、これから実を取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたはかならずや死ぬであろう」

神がおっしゃった「これから取って食べる日」・・・その日が本当に来てしまいました。

この「善悪を知る木の実」は、「人がわきまえておかねばならない一線・侵してはならない領域」の象徴として描かれているのでしょう。人には神の平和の支配の内側に留まるために、超えてはならない一線があります。それは一体何か、そしてその一線を越えてしまうとその先に何があるのか、ということをこの物語は私たちに考えさせているのです。

聖書の物語は字面だけを追ってもよくわからないので、少し聖書で使われている表現を丁寧に見ていきたいと思います。

聖書は蛇のことを「賢い」ものだった、と書いています。蛇の賢さは破滅をもたらす賢さでした。「賢い」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「裸」という言葉と語呂があいます。更に、「賢い」「裸」という言葉は「呪い」という言葉と語呂があうのです。

蛇は、その賢さを用いて人が裸であることを教え、そのことで、神から呪いを受けることになります。創世記は、「賢い」「裸」「呪い」という三つの言葉をセットにして描き出しているのです。

誤った賢さによって自分が裸であることを知り、呪いの内に破滅する・・・神のような支配者になれる、と錯覚した人間の姿を我々は決して他人事として終わらせることができないでしょう。

それでは、聖書が言っている「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。「善悪の知識」と聞いて私たちが思い浮かべる「道徳的な生き方をするための善悪の分別」のようなものとは全く違うようです。神は、「その実を食べると死ぬ」とおっしゃいました。その木の実は人が知るべきでない知識、人を死に導く知識をもたらすものでした。

蛇は、人にこう言っている。

「それを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなた方が神のように善悪を知るようになる、と神は知っていらっしゃるのだ」

蛇は、ただ「善悪を知るようになる」ではなく、「神のように」という言葉を付けています。「神のように善悪を知るようになる」

「君たちが神のようになることを、神は恐れているのだ」というような言い方です。

「善と悪を知る」、という表現が、サムエル記で使われているところがあります。ある女性がダビデに訴えます。

「主君である王様は、神のみ使いのように善と悪を聞き分けられます。」サム下14:17

旧約聖書では、「善と悪を聞き分ける・善と悪を知る」という表現は、王として民を支配することを意味しました。つまり、「善悪を知る」というのは、「道徳的な人間になる」ということではなく、「王様になる・支配者になる」ということなのです。

蛇の誘惑はそれでした。

「その木の実を食べると神のように善悪を知ることが出来る」と言ったのは、「木の実を食べると神のようにこの世を支配することができるようになるのだ」ということだったのです。「もう神の支配の下に生きることはない、君たちは、自分が世界の支配者になれるのだ、神と同列になれるのだ」、と言って、木の実を示しました。その言葉が決め手になり、二人は実を食べてしまいます。

7節を見ると、2人が実を食べると、「二人の目が開けた」とあります。今まで見えなかったものが見えるようになった、知らなかったことを知った、ということです。2人は木の実を食べて何を知ったのでしょうか。「自分たちが裸であること」でした。

では「自分が裸であることを知る」ということは、どういうことなのでしょうか。それがなぜ「死んでしまう」ことに結びつくのでしょうか。聖書独特の表現が続きます。

ある人は、「ここで言われている『裸であることを知る』というのは、『人が自分に目を向け始めた』ということではないか」と言います。確かに、それまでは神に目を向け、心を向けていたのが、自分を・自分だけを見るようになっています。

「自分が裸である」ことを知って、人はどう変わったのでしょうか。人の中で中心が変わったのです。世界の中心が変わったのです。神を中心に見えていた景色が、自分を中心に据えて世界を見始めました。

そして面白いことに、人は「自分を恥じるようになった」と書かれています。実を食べる前、人はエデンの園で神との交わりを楽しみ、満ち足りた命を生きていました。しかしそれが自分だけを見るようになったとたんに、自分の恥が見え始め、もとは一つの存在であった夫婦でありながら互いに自分を隠し始めたのです。

神から離れた人間が自分だけを見るようになり、自分の恥だけが見え始めた・・・このことには、深い教訓が隠されているのではないでしょうか。

「人が1人でいるのはよくない」と思われた神は人に夫婦という単位をお与えになりました。存在を共有する「夫婦と」いう「二人で一つの肉」として生きるようにされました。神の支配の下、御心に沿って生きるよう励ましあい、その恵みを分かち合うはずの夫婦でした。

しかし木の実を食べた後はどうなったでしょうか。実を食べたその日の夕方、神から声をかけられるまで、この夫婦は二人で会話をしなかったようです。神から離れた男と女は、互いに恥を感じ、互いから隠れ、神から隠れました。

8節を見ると、エデンの園に心地よい風が吹く頃、神が人に会いに来られたことが書かれています。神と人は毎日この夕方の心地よい時間、語り合っていたようです。しかしいつもの時間に、いつもの場所に人はいませんでした。

神は人を探されました。「あなたはどこにいるのか」

人は木々の後ろに隠れていました。皮肉にも、神が人を生かすためにはやされた木々の後ろ・自分を生かしている木々の後ろに、人は自分の身を隠しました。善悪を知る木の実を食べた人の目が開かれ、見なくてもいいものが見え始め、以前のように神をまっすぐに見返すことが出来なくなってしまったのです。

「どこにいるのか」と神は人をお求めになりました。しかし人は「自分が裸なので、恐れてあなたから隠れています」と言いました。神は人をお求めになり、人は神から逃げ隠れている・・・神と人の親しさが壊れていることがよくわかります。

神は「木の実を食べたのか」、と問われました。しかし人は直接答えることをしていません。人は「あなたがお創りになった女が悪いのです」と言い、神と女に責任を転嫁しました。妻は「蛇が私を騙したので食べてしまいました」と言って蛇が悪い、と他者を指しています。

神は二人をご覧になっていますが、二人は、神を見ていません。2人は自己中心・自分本位の罪びととなり、自分以外の人・何かに責任を転嫁するようになりました。自分だけのことを考え、自分は悪くない、ということだけ主張しています。神の前に自分をさらけ出して罪を告白することなく自分の恥を隠そうとする人間の姿です。

善悪の木の実がもたらした「死」とはこれでした。心地よい風を感じながら神と園の中で語り合う聖い交わりを失ったことです。神の前で自分の正しさだけを主張する愚かさ・・・それが創世記で我々に見せられている「賢さ」であり「裸」であり「呪い」なのです。

神に許しを乞い、自分本位・自分中心という「裸」から救い出していただき、風を感じながら園で神と語り合うところへと連れ戻していただく道が、我々には必要です。神に向き合わず自分だけを見て、自分の恥の内に身動きが取れなくなる・・・それこそが、罪がもたらす死です。

私たちは、善悪を知る実を食べ、自分が裸であることに気づき、神の呪いを受けてしまった人間の姿にイスラエルの歴史を重ねて見ることが出来ます。

イスラエルは神の恵みの支配の内に導かれていました。しかし、出エジプトを終え、約束の地に入ると、外国のように自分たちにも人間の王様が欲しい、と言い出し、人間を自分たちの王として選び出しました。サウル、ダビデ、ソロモン、その後のイスラエルの王たちの歩みはどうだったでしょうか。外国の神々に心を奪われ、真の神から離れ、北と南に分裂し、偶像礼拝の末に北も南も滅ぼされてしまいました。

人が蛇の言葉を聞いて神の言葉を捨て、園から追放されたこの物語をイスラエルの信仰の歴史を重ね合わせると、今の私たちの信仰生活への大きな警告として受け止めることが出来るはずです。

「あなたはどこにいるのか」

今、神はイエス・キリストを通して私たちに呼びかけてくださっています。これが、聖書を通して今でも私たちに語りかけられる神の言葉だ。私たちを求めていらっしゃる。

我々はどう答えるでしょうか。「私は、あなたの前にいます。恥の多い私を、罪深い私をあなたに委ねます」と、キリストの御声に応えているでしょうか。

裸になった人間は「神など信じていなくても生きて行ける」と言います。そう言いながら「神を信じなくても生きていける自分は賢い」と思い込みます。

しかし聖書は伝えています。

それは「愚かな賢さ」です、と。

人は木の実を食べて、何を得たのでしょうか。何も得ていません。何かを得たというのなら、「自分だけを見る生き方」を得たのでしょう。しかしそれは「失った」という言い方をした方がいいでしょう。創造主が見えなくなり、神との交わりを失い、そうやって生きる道を見失い、自分を恥じる生き方へと足を踏み入れたのです。

しかし、今私達には救い主がいてくださいます。「愚かな賢さ」から、神から身を隠さなければならないような「自分の恥」から、生きる目的を感じない「空しさ・呪い」から救い出してくださる方が世に生まれてくださいました。

今、世に生まれ、私たちの下へと迎えに来てくださった救い主、イエス・キリストが私たちに呼びかけてくだいます。

「あなたはどこにいるのか。福音を信じて戻って来なさい」

素直に、招きの声に従っていきましょう。そこに、本当のクリスマスの平和・平安があるのです。