ヨハネ福音書2:13~22
「『この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる』」
先週に引き続いて、キリストの「宮清め」と呼ばれる出来事を読みました。イエス・キリストが過越祭でエルサレム神殿に巡礼された際、神殿の境内で商売をしている人たちをご覧になってお怒りになり、商人たちをその場から追い出された地面です。
この出来事は、4つの福音書全てに記録されていますが、ヨハネ福音書だけは、他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカと比べると、独特の描き方をしています。他の福音書とは違った強調点があるようです。
他の福音書では、この神殿での出来事は主イエスの福音宣教の最後に起こったこととして書かれているのに対して、ヨハネ福音書では福音宣教の最初に記録しています。更に、ヨハネ福音書では、この宮清めの出来事を、弟子達が後にどのように思い出したのか、という視点で書かれているのです。
主イエスは、「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」と言ってきたユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」とおっしゃいました。しかし、その時は誰もその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスが十字架で殺されて三日後に復活された時、はじめて弟子達は、その時の言葉を思い出してその意味を理解したのです。
ヨハネ福音書は、水を葡萄酒に変え、宮清めをされたイエス・キリストのお姿を通して、霊の神殿が建ちあがり、祝福の葡萄酒があふれる新しい時代の到来を描いているのです。
今日は特に、キリストの謎かけの言葉に焦点を当てて、この宮清めの場面を見たいと思います。
神殿の境内から商人たちを追い出された主イエスに対して、ユダヤの指導者たちは質問してきました。
「こんなことをするからにはどんなしるしを見せてもらえるのか」
神殿でこれほどのことをしたのだから、皆が納得するだけの理由と、あなたの権威を示しなさい、ということです。
主イエスはこうお答えになりました。
「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」
ユダヤ人たちの言葉に対して、正面から答えているような言葉ではありません。随分乱暴な答え方です。ユダヤ人たちが実際に神聖な神殿を壊せるはずがないのだ。乱暴なことを言って言い逃れしているようにもとれます。
ユダヤ人たちはそれを聞いて「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。
ソロモンによって建築されたエルサレム神殿はBC6世紀にバビロンの軍隊によって破壊されました。バビロンでの捕囚生活からエルサレムに戻って来た人たちは、破壊された神殿を再建します。その神殿は、紀元前20年からヘロデ王が修復・建築をはじめ、最終的にその工事は紀元後63年まで続くことになる。ユダヤ人たちはここで「46年」と言っているので、キリストの宮清めの出来事は紀元26年のことだったのでしょう。
それほどの大工事によって建てられている神殿を三日で建て直すなど、無理に決まっています。この時の主イエスの言葉を聞いた人たちは、後に主イエスのことを「神殿を壊そうとする者」であるとか、「神殿を三日で造る大言壮語した者」として思い出すことになります。
この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人の指導者たちは、その言葉を字義通りに解釈しました。しかし、キリストの言葉には、霊的な意味を含んだ謎かけとしておっしゃったのです。そしてその意味を知ったのは、キリストの復活を見た弟子達でした。
キリストの弟子達は、この宮清めを、後にどのように思い出したでしょうか。
17節には、「あなたの家に対する熱情が私を食い尽くすだろう」という詩編69編の言葉と共に思い出した、と書かれています。
あの時、神殿でお怒りになり、暴れて商人たちを追い出された主イエスは、「父なる神への熱情に食い尽くされた」「神への愛に身を焦がした」お姿だったことを理解したのです。そして神殿に対するキリストのその愛が、キリストご自身を十字架の死へと追いやってしまったことを弟子達は知りました。
後に弟子達が思い出した詩編69編は、信仰者の受難の歌です。ヨハネ福音書は、イエス・キリスト十字架と復活を、詩編69編の言葉の実現として描き出しています。
「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い、敵から解放してください。私が受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」
まさに、詩編69編十字架で苦しまれるイエス・キリストのお姿そのものではないでしょうか。
キリストの復活の後、宮清めの際のキリストの姿を思い出し、その意味を知った弟子達は、どうしたでしょうか。弟子達は、この詩編の言葉と、イエス・キリストの死をどのように捉えたでしょうか。
神への愛を貫くことでキリストは殺されてしまったのです。弟子達は、「神への熱情を持つこと、信仰を持つことは自分の身を滅ぼしてしまうものなのだ」、と考えたでしょうか。
そうではありませんでした。弟子達は、イエス・キリストと同じ道を歩み始めたのです。
十字架へと連行される主イエスを見て、弟子達はその場から逃げ去りました。神への愛を、神への信頼を捨て、イエス・キリストを見捨てたのです。そして彼らは、苦みました。神を捨てた者、キリストを見捨てた者として生きることこそが、彼らにとって何よりの受難だったのです。そして弟子達は神への愛を貫き、キリストに従う苦しみを選び取りました。
使徒言行禄に、弟子達の活動が記録されている。
一度はキリストを知らないと言って見捨てたあのペトロが、キリストを捕らえた最高法院の人たちを前に言っています。
「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」
そして、鞭で打たれても弟子達は「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ。
聖書の信仰は、いわゆる御利益宗教とは違います。私たちキリスト者には、キリストに従うがゆえの苦しみがあります。キリストを信じるがゆえの苦しみがあります。
しかし、信仰の苦しみが無駄になることはありません。この世の価値観でははかり知ることのできない実りをもたらすのです。キリストを信じてこの世で金持ちになれるというのではありません。私たちはキリストに従う中で、天に富を積むのです。苦難の中で祈り、キリストを求める私達の姿が、信仰の種まきとなるのです。
一度はキリストを見捨てた弟子達は、復活なさったキリストの元へと立ち返りました。キリストは許してくださったのです。そして、キリストを見捨てた一人一人に、もう一度「私に従いなさい」と招いてくださいました。
私たちにとって、一番大きな財産はキリストの許しではないでしょうか。天の御国への道を外れた私たちを、キリストは何度でも、許し、招き入れてくださいます。
なぜ弟子達は確信をもって、自分たちの一生をキリストの証し人として捧げることが出来たのでしょうか。キリストの復活を見た弟子達の確信は、主イエスが「神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」とおっしゃったあの言葉でした。
21節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」
旧約の預言書ホセアが、三日目の復活の預言を残しています。
「さあ、私たちは主のもとに帰ろう。主は私たちを引き裂かれたが、癒し、私たちを打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は私たちを生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。私たちは主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」
「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって焼き尽くす捧げものではない」
イエス・キリストは水を葡萄酒へと変え、新しい神殿を建て上げてくださいました。十字架の上で契約の血を流し、三日目に墓の中から新しい神殿として復活なさいました。新しい時代が来たです。ホセアは新しい時代を迎えた私たちに訴えています。
「神を知ることを追い求めよう・・・神は私たちを訪れてくださる」
今、私たちは新しい時代を迎えました。新しい神殿が与えられました。新しい祈りの場、新しい礼拝の場が与えられました。それは、どこにあるのでしょうか。
ヨハネ福音書の4章で、主イエスがサマリアでサマリア人の女性が言葉を交わす場面があります。サマリア人女性は主イエスに言いました。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」
サマリアの人たちは、サマリアにあるゲリジム山というところに神殿を築き、そこで礼拝をしていました。しかし、エルサレムの人たちは、エルサレム神殿こそ礼拝すべき場所だと主張していました。そういう時代でした。
主イエスは女性に答えておっしゃいました。
「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。・・・真の礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である」
サマリアの神殿とエルサレムの神殿、どちらが本当の神殿なのか、どちらが本当の礼拝の場所なのか、サマリアとエルサレムの間で論争が続いている中で、主イエスははっきりおっしゃいました。
「サマリアの山でもエルサレムの山でもないところで、父を礼拝する時が来る。今がその時である」
礼拝の場所が変わるのです。エルサレム神殿に巡礼に行かなくても、我々は神を礼拝することができるようになるのです。復活なさったイエス・キリストご自身が、新しい神殿となられたからです。
「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」
主イエスは御自分の体こそが真の神殿・真の礼拝の場であることを前提としてユダヤ人たちにおっしゃいました。そして今、洗礼による契約によって、イエス・キリストの体と私たちは結びついています。
使徒パウロは、コリント教会に向けて手紙の中でこう書いている。
「あなた方は神の畑、神の建物なのです」
「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい」
キリストが示された新しい時代とは、私たちキリスト者自身・教会が神殿となる時代だった。
私たちには、今、生きるべき道が与えられています。そして生きる目的が示されています。
使徒パウロは手紙の中でこう書いている。
「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」
私たちが自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる、ということ。不思議なことですが、自分のためではなくキリストのために生きることこそが、実は一番「自分らしい」生き方となるのです。
エルサレム神殿も、私たち自身も、イエス・キリストによって新しくされました。キリストに出会う人は皆、自分が礼拝の場となり、祈る者となります。場所も、民族も人種も全て関係なく、神の子イエス・キリストの下で一つとされるのです。キリストが福音宣教の初めに示されたのは、そのことでした。
キリストの元へと立ち返る生活の中で私たちは自分が神殿として用いられ、神の霊によって生かされ、自分らしさを取り戻していくことが出来るのです。