4月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:1~9

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

イエス・キリストと、一人のサマリア人女性の出会いが記録されています。主イエスがユダヤ地方からサマリアを通って旅をされていた途中のことでした。2人の出会いは、主イエスが旅に疲れてそのまま座られた井戸のそばでした。

旧約聖書を読むと、井戸のそばでいろんな人たちの出会いがあったことが書かれています。イサクや、ヤコブ、モーセもそうです。彼らは、井戸で何かしらの出会いがあり、それが結婚のきっかけとなったりしました。小さな偶然のような誰かの井戸での出会いが、歴史の中で全ての人間にとって大きな意味を持つことがあります。

今日私達が読んだところを何気なく読むと、サマリアの井戸で主イエスと女性が出会った、というだけのことでしょう。しかし旧約聖書の物語や、当時のユダヤとサマリアの背景を踏まえて読むと、表面を読んだだけではわからない、この出会いに隠された神の導きの深さを見ることが出来るのです。

主イエスはユダヤ地方で洗礼者ヨハネと同じように、人々に洗礼を授けていらっしゃいました。「実際に授けていたのは弟子達であった」、と書かれていますが、主イエスの権威のもとに弟子達は人々に洗礼を授けていたのでしょう。

主イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を造り、洗礼を授けている、ということがファリサイ派の人たちに知られることになりました。

「イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。

ファリサイ派の人たちから警戒され、宣教活動の邪魔をされることを煩わしく思われたのでしょう。

ヨハネ福音書を読むと、主イエスの一行は頻繁にユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していたことが分かります。北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方を行き来する際、一つ問題がありました。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間に、サマリア地方があったということです。

何が問題かというと、ここにも書かれているように、この当時、ユダヤ人はサマリア人と交際しなかったのです。ユダヤ人がガリラヤとユダヤを行き来する際、サマリアを通るか、迂回するかを決めなければなりませんでした。ユダヤからガリラヤまで、まっすぐ行けば三日ぐらいで行けますが、サマリアを通らず迂回していくとなれば、二倍か三倍、時間がかかるのです。

主イエスと弟子達は、サマリアを通ってガリラヤに向かうことにしました。そして一行がサマリアに来た時、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座られました。て弟子達は食べ物を買うために町に行っていました。主イエスは井戸のそばにお一人でいらっしゃいました。そこに一人のサマリア人女性が井戸に水を汲みに来ます。主イエスはこの女性に「私に水を飲ませてください」と頼まれました。

女性は驚いています。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

この女性の驚きは当時では普通のことでした。ユダヤ人がサマリア人に、しかも男性が女性に、こんなにも大っぴらに話しかけ、ものを頼むということは考えられないことだったのです。

少し、この時の女性の驚きについて、背景の解説を加えておきたいと思います。

BC870、ダビデの治世が終わり、ソロモンが死ぬと、イスラエル王国は北と南に分かれました。北王国はサマリアを首都に、南王国はエルサレムを首都にしました。

北王国はBC721にアッシリア帝国に占領されてしまいます。アッシリアは、そこにユダヤ人以外の民族を入れました。そのことで、サマリアを中心とする北王国は混血が進んでいきました。

一方、南王国もバビロニアによってBC586に滅ぼされましたが、人々はそのままバビロンへと連れて行かれ、捕囚生活を送りました。やがてその人たちの子孫は、エルサレムのあるユダヤ地方に戻って来ることになります。捕囚からの帰還民は自分たちのユダヤ人としての純血が保たれたことを大切にし、サマリアの人たちを異民族として見るようになります。こうして、歴史の中で北のサマリアと、南のエルサレムの間に深い溝が出来ていったのです。

元は同じ国民だったのに、国が分裂し、外国に滅ぼされることを通してこんなにも深い溝が出来ていたのです。そのような背景の中で、ユダヤ人の主イエスと、サマリア人女性が出会い、言葉を交わしたのです。

問題はそれだけではありません。主イエスが話しかけられた相手がサマリア人であったということに加え、それが女性だった、ということです。主イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人という民族の違いに加え、性別の違いも大きなものでした。

当時、律法の教師は、道で女性に話しかけてはならないと教えていました。ファリサイ派の一部の人たちは、女性を見ないように、目を閉じて歩くほどでした。

そしてもう一つ、踏まえておかなければならないのは、この女性が、正午ごろ、水を汲みに来た、ということです。正午ごろというのは一日の中でも一番暑い時間帯です。

そんな時には普通水を汲みに来る人はいなません。

しかし、この女性はわざわざ正午ごろ水を汲みに来ました。つまり、人目を避けていたのです。この女性は、人目を避けなければならないような、後ろめたい生活・不道徳な生活をしていた人であった、周囲の人たちから「罪人」として蔑まれていたような人であった、ということがわかります。

主イエスが声をかけられたのは、普通、ユダヤ人の律法の教師が絶対に声をかけることのないような、人目をはばかるような生き方をしているサマリア人の女性だったのです。

ここで私達は主イエスと女性が出会った場所に注目したいと思います。それはシカルという町でした。そしてこの井戸は「ヤコブの井戸」とあります。

旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムの孫にあたるヤコブにまで歴史をさかのぼる町であり、この井戸はヤコブに由来する井戸でした。福音書は、イエス・キリストとサマリア人女性が出会ったのはその街のその井戸だった、ということを強調しています。何かその場所に象徴的な意味があったのです。

ヤコブは、兄エサウを騙したことで恨まれ、家から逃げ出した人でした。荒野を逃げる途中、野宿した時、夢を見ます。

「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、そこを神のみ使いたちが上ったり下ったりしている」、という夢でした。

夢の中でヤコブは神から言葉をいただきます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

主イエスが弟子の一人ナタナエルを召された時、こうおっしゃいました。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなた方は見ることになる。」1:51

ヤコブが見た天と地をみ使いたちが行き来するあの光景を、主イエスの弟子達は、主イエスを通して見ることになる、と約束されたのです。

キリストがこのシカルに来られた、そしてこの女性に話しかけられた、ということは、天の招きがここまで来た、神の招きがこのような女性にも届けられた、ということです。天に続くはしご、天に至る道、真理と永遠の命に至る道が、このシカルに、サマリアにも、そして周りから蔑まれていた女性にまでも示されたということなのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「花婿」になぞらえ、自分はその「介添え人」であると言いました。誰かが主イエスと出会うということは、ある意味、その人がキリストの花嫁として迎え入れられる、ということです。

主イエスは今、一人の異邦人女性が井戸のそば出会われました。当時のユダヤ人の感覚では一番接点のない相手でしょう。対照的な二人の出会いです。男性と女性、教師と罪人、天から来られた方と、この世で最も低い者、ユダヤ人とサマリア人の出会いです。民族、信仰、階級、性別、職業、地位・・・そういった人を隔てるものすべてがここに含まれている。しかしそれを超えて、主イエスは全ての人を探し求めていらっしゃいます。ヤコブが見た天と地を結ぶ階段として、神と世をつなげようとなさっているのです。人間が愚かにも造り上げて来てしまった、その互いの溝を埋めようと、キリストは世に来られました。

私達は、神が選んでくださらなければ、神のものとなることは出来ません。キリストに選んでいただかなければ、キリストのものとなることは出来ません。

申命記7章で、神はモーセをとおしてイスラエルの選びをお伝えになっています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた故に、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを」

神はただその愛ゆえに、契約ゆえに、イスラエルという弱小の民をご自分の民とされました。私達自身のことを考えても、自分が今なぜ、キリスト教会へと招かれているのか、理由は分からないのではないでしょうか。

まず神が私たちを愛してくださった、それだけでしょう。そのことがなければ、我々はどんなに頑張っても教会には行けません。自分たちの思い出教会を作ろうとしてもできません。神が、キリストの十字架と復活を通して愛と許しを示してくださり、その愛に、我々が悔い改めをもって応えたから、この礼拝があるのです。

キリストが井戸のそばでサマリア人女性に出会われたように、私たちにも、それぞれ意味のある場所・時を選んで出会い、招きの言葉をくださいました。我々はその場所、その時を思い出すことが出来るのではないでしょうか。

キリストはサマリア人女性に出会われました。それは偶然ではありません。天の故郷に至る道を示し、真の礼拝に至る道へとお招きになるために、この町のこの井戸にまで足を運び、この女性が来るのを待たれたのです。

この後、女性は、キリストとの出会いを通して、自分の足でサマリアの家々を回り、「メシアが来ました」と告げて回ることになります。自分の罪の負い目ゆえに、人目を避けていたこの女性が、自ら、人々をメシアの下へと招くよう変えられることになるのです。

パウロはエフェソの信徒の手紙の中でこう書いています。

「実に、キリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」2:14

キリストは、私達一人一人の元まで迎えに来てくださいました。そして、今度はその私達一人一人を用いて、世の全ての人をご自分の下へと招かれます。

私達が世の全ての人に伝えるのは、「あなたは神に愛されている」ということです。ただそれだけです。神が世の全てを愛していらっしゃるという証拠を求められたら、私達はキリストの十字架を指さすのです。あそこに、神の愛が現わされている、とキリストを見上げるのです。我々を花嫁として迎え入れてくださったキリストに、向かって生きたいと思います。