5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」

そのような中、王の役人が主イエスを求めてカファルナウムからカナまでやって来ました。「王の役人」というのは、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの家臣です。

この人が兵士だったのか、もしくはこの地方の政治の一端を担う人であったのか、この人自身の背景は何も説明されていません。この人がユダヤ人かギリシャ人かローマ人のかも、ヨハネ福音書は書いていません。マタイ福音書とルカ福音書では この人がローマの百人隊長であったことを記録しています。

しかし、ヨハネ福音書ではこの人自身の背景については記さず、ただ彼の息子がカファルナウムにいて病気で死にそうであり、必死に救いを求めてやってきた人であった、ということだけに焦点を当てて記録しています。

この人はカファルナウムから30kmほどの道を歩いてやってきました。必死でした。

自分の息子が死にかけているのです。当然、医者にも見せたでしょう。王の家臣であるこの人が、ガリラヤの青年イエスという人に助けを求めて旅をしてきた、ということが、この人がどれだけ必死であったか、ということを物語っています。もう、この人には、イエスという人だけが希望だったのです。

47節「カファルナウムまで下ってきて息子を癒してくださるように頼んだ」とあります。「頼んだ」というのは、聖書の原文では「頼み続けた」「何度も頼んだ」という言葉です。言い方を変えると、主イエスは、この人の頼みにすぐに応じられたわけではなかった、ということです。

それを踏まえると、イエスの対応はむしろ冷淡ではないでしょうか。緊急を要する中での必死な求めにも関わらず、主イエスはすぐに対応なさっていません。それどころか、自分の子供のために必死になっている父親に対して、「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ決して信じない」とおっしゃるのです。御自分に助けを求めている人を、突き放すような言葉です。

この人に何か落ち度があったのでしょうか。何か不信仰を見出されたのでしょうか。

ここでの主イエスをよく見ると、「あなたは」ではなく、「あなたがたは」とおっしゃっています。ご自分の下にやって来た王の役人個人のことではなく、「あなたがた」、つまり全ての人間に向けておっしゃっているのです。

キリストはご自分を求める「人間」の内に何があるのかを見極めようとなさっています。

この父親には時間がありませんでした。自分の息子が死にかかっていることを伝えなければなりませんでした。彼はこう言いました。

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

すると主イエスは「行きなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃいました。

この人の言葉の中にある何かが、主イエスの心に届いたようです。何が主イエスの心を動かしたのでしょうか。

この人はガリラヤ出身のユダヤ人青年に、「主よ」と言ったのです。この人にとって本当は領主ヘロデ・アンティパスが自分の「主」だったはずです。しかし、自分よりも社会的な身分の低いイエスという人を、「主」と呼びました。「この方は不思議な力をもっているらしい」という表面的な希望ではなく、この人はイエスという方を自分の「主」とするところまで、懐に入り、願ったのです。

主イエスはなぜ、子供のために必死ですがりつく父親の言うことをすぐにお聞きにならなかったのでしょうか。誰かを癒す力があるのであれば、すぐに癒せばいいに、と私たちは思います。

2章のカナの婚礼でのしるしもそうでした。イエスの母マリアが婚礼の葡萄酒がなくなりそうだったのでイエスに何とかするように頼みます。しかし「私には関係のないことです」とすぐに何かなさったわけではありませんでした。

マリアは諦めませんでした。給仕係の人たちに「もしイエスが何かを言ったら必ずそれに従うように」と伝えました。給仕係の人たちも、主イエスから言われたことにただ黙々と従い、水が葡萄酒へと変わるしるしが現わされたのです。

ここでも同じなのです。願いを伝え、すぐには聞いてもらえなくても、それでも求め続ける信仰者の姿がありました。その人はイエスという青年を「主よ」と呼びました。主イエスはカナからカファルナウムまで足を運んではくださいませんでした。

しかし、神の子キリストによる「あなたの息子は生きる」という救いの一言が与えられ、素直に言葉に従い、王の役員は帰って行きました。「一緒にカファルナウムまで来て、直接息子を癒してくださるのではないのですか」と食い下がったりはしませんでした。

「あなたの息子は生きる」というこの方の言葉に全幅の信頼を寄せて、また自分の生活の中へと戻って行った・・・ここにこの人の信仰があります。

キリストは気まぐれに救いのしるしを行われる方ではありません。祈りがあるところに、そして祈り続ける信仰があるところに、キリストは御腕を伸ばされます。子供はキリストによる奇跡は起こりました。そこには祈りがあった。偶然はありませんでした。

私たちは、この聖書の記事からキリストのしるしに対する私たちの信仰の姿勢が問われています。私たちはいつでも「わかりやすいしるし」を常に求めているのではないでしょうか。

神に祈り、頼んだらすぐに自分の目の前の景色が変わるようなことを求めてしまいます。キリストに向かって祈り続ける中で、「私のしるしが、私の選んだ時に現れるのを、静かに待ちなさい」と言われたら、この父親のようにキリストの言葉に信頼して、素直に黙って家に帰ることはできるでしょうか。

旧約聖書に、ナアマンという人が出てくる。彼は皮膚病になってしまったので、イスラエルの預言者エリシャに癒してもらおうと旅をしました。エリシャはナアマンに会わず、使者を遣わして、「ヨルダン川で身を洗うように」、とだけ伝えました。

ナアマンは不服でした。預言者自身が、自分に直接触って治してくれるものと思っていたからです。しかし、自分の家来になだめられて、ナアマンはエリシャの言葉に従い、皮膚病は癒されました。

私たちにはナアマンがなぜ不服に思ったのか、理解できるでしょう。信仰生活の中で、私たちの人間としての弱さが現われます。それは、「自分が思うようにならないことに対する不安」です。私たちは全部、自分の目で確かめたいのです。「神の救いはこうあるべきだ」と自分で規定してしまうのです。

しかしイエス・キリストは私たちの絶え間ない祈りに、時と仕方を備えて答えてくださいます。

王の役人とその家族はイエス・キリストへの信仰を抱くようになりました。それは目の前で奇跡を見せられたからではありません。主イエスを「主」として求め抜いた先に見せられるものがあったからです。自分の予想を超えた救いが示されました。

イエス・キリストに向かって「主よ」と呼びかけ、その姿勢にキリストが応えてくださった・・・この人は、この人の家族は本当の意味で、キリストに出会ったのです。

キリストの言葉によって癒されたこの役人の息子にとっては、救いは自分の父親の信仰を通してやってきました。1人の信仰者の祈りは、その人1人だけの中で完結することはありません。次の信仰者へと、必ず広がっていきます。

使徒パウロは、キリスト者のことを「偉大な神の力が収められた土の器」であると言っています。土の器にしか過ぎないものに、神は偉大な宝を入れてくださいます。器は次の場所へと持ち運ばれるためにあります。

キリストの「あなたは生きる」という声を、私たちに言ってくださいます。そして「あなたは生きる」という言葉を私たちという器に入れて世に運ばれるのです。

ある人は「新しい自分になるということは本当の自分に戻るということだ」と言いました。それは言葉を変えると「失っていた自分を取り戻す」ということでしょう。創世記では、私たち人間が神の似姿としての自分を失ってしまったことが言われている。

神の祝福の器として作られた人間は、罪の誘惑によって本来の被造物らしさを失ってしまいました。創造主である神に背を向け、神を忘れ、その先で人間は愛し合うことをせず隣人を愛することさえ忘れてしまいました。

しかし今私たちには、キリストの「あなたは生きる」という言葉が与えられている。

神のもとに立ち返って人間らしく生きる、神に造られた本来の自分として生きることができる、新しい時代を迎えているということを覚えたいと思います。