7月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:41~51

「預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている」(6:45)

山の上で二匹の魚と五つのパンによって満たされた人々は、主イエスを追い求めてやってきました。自分たちの王様になってもらうためです。主イエスは、群衆から距離を取り、一人山へと退かれました。人々に求められて地上の王になることをお望みにならなかったのです。

群衆から距離を取られた主イエスは、諦めずにさらにご自分を探し求めてきた群衆に、ご自分をどのように求めるべきなのか、ということをお伝えになりました。

五つのパンと二匹の魚は何のしるしだったのか。

「天からのパン」とは何のことなのか。

天からの食べ物をお与えになるイエスという方は何者なのか・・・

群衆は考えさせられることになります。人々の興味は、「イエスは一体何者か」ということに集約していくことになります。

これまで人々は、申命記18:5で言われていた「モーセのような預言者・モーセの再来」として主イエスに期待をかけていました。山の上でパンと魚で満たれた人々は、出エジプトの際、荒野でモーセが神に執成してイスラエルの人々にマナが与えられた出来事を思い起こしていたのです。だから、「この方は天からパンを降らせてくださるのでは」と期待した人々は、「私は天から下ってきたパンである」という主イエスの言葉をいぶかしく思いました。

主イエスは「天からのパン」というものがあることをおっしゃいます。しかし、御自分のことをモーセのように神に執成してパンを皆に配る者ではなく、御自分が天からのパン・命のパンそのものであるとおっしゃいました。「私はパンを与える者だ」ではなく、「私がそのパンである」とおっしゃるのです。

「ナザレのイエスは、モーセモーセの再来ではないか」、という話ではなくなりました。パンのために神に執成す人ではなく、パンそのものだ、と言っているのです。この言葉を聞いた人々は「つぶやき始めた」と書かれています。これは、「不満を言い始めた」ということです。つまり、主イエスがおっしゃっていることは、群衆にとっては期待外れだったのだ。

ここで、一つ、ヨハネ福音書の言葉のつかいかたに注目したいと思います。これまで主イエスの言葉を聞いてきた人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここでは「ユダヤ人」という言葉で呼ばれています。

ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」という主イエスに敵対する人たちという意味で用いられています。「私が天から下ってきたパンである」という言葉を聞いて、期待外れに感じた人たちは、主イエスを自分たちの王として求める「群衆」から、主イエスに敵対する「ユダヤ人」に変わったのです。

それまで彼らはパンと魚によって養われたことによって、主イエスにモーセのような預言者としての姿を、この地上でイスラエルを力強く導く指導者としての姿を期待しました。自分たちの先祖が、荒野でマナをいただいたように、自分たちも神によって養われる生き方ができると思ったのです。

人々はモーセの再来を期待し、新しい出エジプトを期待しました。しかし皮肉なことに、人々は、荒野で神に向かって不平をもらす、というイスラエルの先祖たちの過ちを繰り返しているのです。

出エジプトの際、荒れ野で歩みながらイスラエルは不平を述べました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだほうがましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」

モーセは彼らに言いました。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」出エジ16章

主イエスの言葉を聞いた人々はなぜ不平を漏らしたのでしょうか。この方のことを知っていたからです。父が大工のヨセフであり、母がマリアであることも知っていました。ヨセフとマリアの子であるイエスがなぜ「私は天から降ってきた」などと言うのだろうか。

主イエスと人々の会話がかみ合っていません。主イエスがここでおっしゃっている天の父というのは、ヨセフのことではありません。天からご自分をおつかわしになった神のことを「私の父」とおっしゃっているのです。

主イエスが地上のことをお話しなさっているのか、天のことをお話しなさっているのか、それを踏まえて言葉を聞かないと、私たちもこの方がどなたでいらっしゃるのかを見失ってしまいます。

主イエスは「つぶやいてはならない」「不平を言ってはならない」と群衆に向かっていさめておられます。

「私をおつかわしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」

主イエスの言葉に不平不満を言っていては神の御姿が見えなくなるのです。

先週読んだところで、主イエスはこうおっしゃっています。「父が私に与えてくださっている者を皆、わたしが1人も失うことなく、終わりの日に蘇らせること、これが私を遣わした方の思いである」

この言葉は、主イエスご自身が、単に見た目通りのヨセフとマリアの長男というだけでなく、モーセよりも偉大な存在、神によって天から遣わされた存在であることを示しています。

「私を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に蘇らせる」

これは、神にしか言えないような言葉です。

主イエスは預言者の言葉を引用なさっています。

「彼らは皆、神によって教えられる」

イザヤ54:13「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」

これはバビロン捕囚から解放されるイスラエルが預言者から聞かされた言葉です。預言者たちは神の愛を知っていました。神ご自身が、人に必要なものをお教えになるということを伝えて来られたのです。

預言者ホセアも神の言葉を残しています。

「私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」ホセア書 11章4節

預言者エレミヤを通してはこう語られている。

「私は、とこしえの愛を持ってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、私はあなたを固く建てる」エレミヤ書 31章3節

「私は永遠の愛をもって、人を引き寄せる」神はとおっしゃいます。そのように預言者たちの口を通して言われてきたことが、今、イエス・キリストを通して現実のものとなっているのです。預言者たちは、この方による招きの時代を見据えて、預言を残してきたのだ。

そして今主イエスは、このような預言者たちの言葉を引用して、「しっかり私の言葉を聞きなさい」と促されます。

さて、ここで一つ大切なことを思い出したいと思います。神からマナをいただきながらも、荒野でイスラエルは不平を漏らし、神に反抗しました。そして神に従いきれなかったイスラエルの人たちは皆、荒野で死んでしまいました。荒野を歩き切って、約束の地に入ることができたのは彼らの次の世代の人たちでした。(民数記14章26節から35節)

モーセを通して荒野でマナをいただいていたにも関わらず、不満をもらし、約束の地に入ることが出来なかった出エジプト第一世代のイスラエルの人たち。そして今、山の上で主イエスに養われていながら、「この人は一体何者か。ヨセフの息子ではないか」とつぶやく群衆。その姿は重なるのではないでしょうか。

私たちはいつの時代においても、常に、神に従って約束の地へと至る道を歩むか、神に不平をつぶやいて荒野で滅びるか、問われています。私たちが地上のものだけに目を留めるのであれば、荒野で不満をもらしたイスラエルと同じ末路をたどるでしょう。

もし私たちがイエス・キリストのことを、ヨセフとマリアの子に過ぎない、と見るのであれば、この方が示してくださる天の国への道を歩むことはできません。一気に、神の恵みやキリストの御業が見えなくなります。つまりそのことが私たちの生と死を分けるということなのです。

イエス・キリストは、サマリア人女性に「生きた水」をお与えになろうとしたように、今「命のパン」を人々に与えようとなさっています。それは、文字通り、御自分を与えようとなさっている、ということでした。ご自分の命を人々のために投げ出そうとしていらっしゃるのです。

人々は、その言葉を聞いてもすぐには理解できませんでした。しかし、主イエスの十字架と復活を知っている私たちは、「命のパンとはこの方の死と、この方の蘇りである」と言うことができます。この方が私たちのために命をお与えになったから、私たちは今生きているのです。

使徒パウロは手紙の中に書いている。

「神の恵みによって、私は現在の私なのであり、そして私への神の恵みは、空しくはならなかった」

私たちは自分自身の今をどう見ているでしょうか。今に至るまでの歩みを、どのように振り返っているでしょうか。そこにキリストの寄り添いを見るのであれば、私たちは自分たちがこれから歩む道の先に「永遠の命」という希望を見ることができるでしょう。

わずか数十年で終わる私たちの人生は、肉体の死の向こう側まで続いていきます。様々なものが移り変わり、自分自身も老いていく中にあっても、キリストが御自分の命をもって私たちを永遠の希望へと誘ってくださるのです。

終わりの日に、命のパンを、生きた水をいただいた私たちは、イエス・キリストご本人と、食卓を共に囲むことになります。私たちはどれだけ、自分のために死んでくださった方がいらっしゃる、ということを思っているでしょうか。自分の今が、生かされている今であるということをどれだけ現実味をもって捉えているでしょうか。

「私は、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」このキリストの言葉を、今一度、大切に心に刻みたいと思います。