9月1日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:40~52

「下役たちは祭司長たちとファリサイ派の人々のところに戻ってきた」

ナザレのイエスとは何者なのか・・・これが、主イエスを見た人たちが問われたことでした。そしてこの謎は、主イエスの十字架の後にも残されることになります。ゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されたイエスは、一体何者だったのか?主イエスの死後何世紀も議論され、今でも、すべての人が問われていることです。

「2000年前に、十字架で殺されたイエスという青年は、あなたにとってどういう存在なのか。」聖書は、この世のすべの人に問いかけているのです。

主イエスは仮庵の祭りの中で、ご自分のことを命のパン、命の水であると大声で人々に叫ばれました。ご自分のことを安息日やこの祭りを超えた存在であること示されたことで、人々は様々な反応を示します。エルサレムの群衆の中には「この人は本当にあの預言者だ」という人、「この人はメシアだ」という人たちが出てきました。

、主イエスを信じる人もいた一方で、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言って、信じない人たちもいました。特に、ユダヤ人の指導者たち、聖書の言葉に精通している人たちは、主イエスがガリラヤ地方のナザレ出身であることを理由に、メシアであることを否定しました。

「メシアは誰も知らないところから、誰にも知られずに来る」と考えられていました。ナザレのイエスは神からの預言者またメシアのようにも思えても、自分たちが伝え聞いてきたメシアの条件に当て嵌まらない、ということでエルサレムの人々は困惑しました。イエスがガリラヤ出身でヨセフとマリアの子であるということを皆知っていたからです。

確かに、旧約の預言者たちは、メシアがどこから来るのか、ということを様々に預言しています。預言書ミカ書ではメシアはベツレヘムから来ると預言されています。イザヤ書にも、「異邦人のガリラヤに光が差し込む」と預言されています。しかし、それらは地上的な意味においての出身地のことでした。

預言者たちがそもそも伝えてきたのは、「天にいらっしゃる神ご自身がやがてメシアとして地上に来られる」、ということでした。そしてこのヨハネ福音書でもイエスが天の父のもとから送られた方であると証されています。主イエスご自身が何度も「天の父が私をおつかわしになった」とおっしゃるのです。

「イエスは何者なのか」ということで人々は議論し、分裂していきました。ナザレのイエスは律法の破壊者なのか、神の権威を持ったメシアであるのか。ユダヤ人の信仰を惑わせて神の礼拝から人々を引き離そうとしているのか、それとも、律法の言葉、預言の言葉を実現させようとしているのか。ガリラヤのナザレ出身の大工なのか、神から遣わされた、天の力と権能を持った方なのか。

人々の困惑の中、主イエスを逮捕しに行った下役たちは、手ぶらで戻ってきました。遣わしたファリサイ派の人たちは、「どうしてあの男を連れてこなかったのか」と驚きました。

下役たちの答えはこうでした。

「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちも、主イエスの教えを聞いたのです。そしてイエスがメシアであるということを否定することができなくなったのです。ユダヤの指導者たちでさえ、主イエスの教えを聞いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚いたぐらいなので当然彼らも感銘を受けました。

「もしナザレのイエスがキリストだったとしたら・・・自分たちはメシアを捕えようとしているのではないか」、と下役たちは恐ろしくなったのです。報告を聞いたファリサイ派の人たちは怒りました。

彼らは、自分たちの律法理解と違う人たちはすべて間違っているという考えを持っていました。自分たちこそ聖書を、律法を正しく解釈しているという自信があったのです。ファリサイ派の人たちは、律法に詳しくない一般の人たちのことを見下して、「律法を知らない群衆は呪われている」とまで言っています。

このような彼らの姿勢が、天から来られた神の子を十字架へと上げることになっていきます。私たちは考えたいと思います。「自分の理解と違う人たちは、間違っている」、という極端な考えは、実は誰もが陥ってしまう信仰の罠ではないでしょうか。

使徒パウロがそうでした。まだサウロと呼ばれていた頃、キリスト者を迫害しました。自分が学んできた聖書の理解と異なる人たちを牢に送り込む活動をしていたのです。パウロは迫害に熱心でした。それは「自分が正しい」「自分がやっていることは神のみ旨にかなっている」、と信じ切っていたからです。

パウロは手紙の中でこう書いています。

「私は生まれて八日目にイスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」

ファリサイ派の一員であったパウロは自分が非の打ちどころのない正しさを持っていることを確信して、迫害していたのです。

今、主イエスを全く受け入れようとしないファリサイ派の人たちは、パウロがサウロであった時と同じ熱心さで否定しています。自分の信仰が正しくて他の人たちの信仰は間違っている、という姿勢を貫くことで、皮肉にもファリサイ派の人たちが一番神のメシアの姿が一番見えなくなっているのです。

自分こそ一番神の御心に近いところにいると思っているのにと、実は一番遠いところにいた、ということは、笑い話のようなことですが、実は信仰者が簡単に陥る罠ではないでしょうか。

そのことを本当に教えられるのは、キリストとの出会いです。パウロは復活のイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか」と声をかけられ、自分がやっていることが神の御心に反していることを知りました。

パウロは言います。

「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。」

私たちも、同じことが言えるでしょう。自分の力で得て来たもの、勝ち取ってきたものが、キリストとの出会いのすばらしさには叶わない、と思わされる瞬間があるはずです。それこそが人を新しくするのです。

ファリサイ派の人たちは、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いました。その言葉を受けて、ニコデモという人が発言しました。

「私たちの律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないということになっているではないか」

この人は三章に出てきたイスラエルの教師です。ニコデモもファリサイ派の一員だったのです。自分の仲間たちが、主イエスのことを何も聞こうとも知ろうともせずに有罪にしようとしていたことをおかしく思ったのです。

しかしニコデモの仲間たちは聞く耳を持ちませんでした。

「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかる。」

イエスがどんな教えを説いているのか、どんなしるしをおこなっているのか、ではなく、イエスがガリラヤ出身だからメシアではないのだ、と言い切っています。彼らが主イエスを否定するのは、ガリラヤ出身であるという、ただそれだけのことでした。

イザヤ書の預言に「異邦人のガリラヤ」という言葉があります。それほど、ユダヤ地方の人たちから見てガリラヤ地方というのは中央から遠い場所だったのです。エルサレムの人たちからすれば、むしろ外国に近い、国の端っこ、という意識があったのでしょう。

そのような言い方をされたら、ニコデモも黙るしかなかったのでしょう。しかしニコデモの中に一つの大きな疑問が残りました。律法に反しているのは、神の御心に反しているのは、ファリサイ派なのか、ナザレのイエスなのか。

ニコデモが他のファリサイ派の人たちと違うのは、一度主イエスに会い、時間をかけて言葉を交わしたことがあるということです。3章にその時のことが書かれています。

ニコデモは夜、誰にも知られないように、ひそかに主イエスのもとを訪ねた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたニコデモは、「どうしてそんなことがありましょうか」と主イエスに向かって繰り返しました。主イエスが何をおっしゃっているのか、わからなかったのです。

あの夜以来、ニコデモは主イエスがおっしゃった言葉を自分の中で繰り返し思い出し、吟味してきたでしょう。「あの方は私に何を伝えようとなさったのか。」

ニコデモは時間をかけて主イエスを求め、近づこう、理解しようとしてきたのです。このことが、ニコデモを、他のファリサイ派の人たちとは違う道を行かせることになりました。私たちは、この後、ニコデモが十字架のキリストのもとに立ち返るのを見ることになります。

ファリサイ派の人たちは一つ忘れていました。「ガリラヤからは預言者は出ない」、と彼らは言っていますが、そんなことはありません。旧約聖書のヨナ書の主人公ヨナはガリラヤ出身です。主イエスの故郷のナザレの北数キロのところの出身なのです。ヨナはエルサレムの祭司ではなく、ガリラヤの一住民でした。

神がなぜガリラヤ出身のヨナをお選びになったのか、理由は書かれていません。ただ神の御心がそこにあり、ヨナが選ばれ、神の招きの言葉が託された・・・ただそれだけです。

ヨナは神の召しにふさわしい預言者ではありませんでした。ニネベに行けと言われるのに、船に乗って反対の方向に逃げようとするような人です。仕方なくニネベに行って人々に神の言葉を伝えて、人々が悔い改めても不貞腐れるような人です。

しかし、大切なことは、私たちの目にはとても預言者・宣教者としてふさわしいとは思えないヨナを通して、神はご自分の救いを実現していかれた、ということなのです。

聖書を読んでいると、私たちは思います。

「なぜ神はこんな人をお選びになったのだろうか。」

ヨナのような人を預言者として選び出されたことは不思議です。しかしヨナ書を読むと、ヨナの思い・能力を超えて、ただ神の救いの御業が実現して行く様を見て取ることができるのです。

そもそも、なぜ神はご自分の愛する独り子を十字架の上へと召されたのでしょうか。十字架のいけにえに、なぜ神の子が選ばれたのか・・・神の選びは不思議に満ちています。

教会の迫害者パウロ、主イエスのことを三度知らないと言ったペトロ、主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たち・・・皆、神の御業の器とされるにはふさわしくない人たちばかりです。

しかしこのようなキリストを見捨てた人たち、キリストを理解できなかった人たち、キリストを迫害した人たちが、不思議と用いられて、ユダヤからローマ帝国全域に至るまで福音を広めていき、神へと立ち返る人たちが起こされていくことになるのです。宣教者としてふさわしくない人が使徒とされ、福音が世界へと広まっていくのです。

そして何より不思議に思うのは、今自分がキリスト者として召されているということではないでしょうか。自分がキリストにふさわしいかどうかということを考えると、どうやっても自分はキリストの許しに釣り合う人間だと思うことは出来ないでしょう。

聖書を読むと「どうしてこんな人が?」と思う人が神の御業のために召されています。同じように、振り返って自分のことを考えるとき、私たちは「自分こそどうしてキリスト者として召されたのだろうか」、と考えるのではないでしょうか。

使徒パウロは手紙の中で書いている。

「私は神の教会を迫害したのですから使徒たちの中でも一番小さなものであり使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日の私があるのです・・・働いたのは実は私ではなく私と共にある神の恵みなのです」

私たちは必要以上に自分を卑下する必要はありません。私達と共にある神の恵みを信じ委ね、イエスキリストによって生かされているものとしてこの世を生きて行きたいと思います。そのことが私たちに託された証しの使命なのです。