ヨハネ福音書14:8~14
キリストが十字架に上げられる前の最後の晩、キリストと弟子達の告別の時が持たれていました。13章のはじめで、まもなく十字架に上げられることをご存じだったキリストは「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」、と書かれています。
福音宣教の旅の最後の時、弟子達への愛が高まったキリストがなさったことは、弟子達の足を洗うということでした。そして互いに仕えあうことをお命じになります。弟子達の中には裏切る者がいることをおっしゃり、ご自分は去っていくことになるけれども、弟子達は今ついてくることはできない、とお伝えになりました。
心を騒がせる弟子達に主イエスはおっしゃいます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」
この夜、自分たちの先生がなさること、おっしゃることすべてに弟子達は戸惑いました。
先生はまるで自分たちが全てを理解しているかのような口調でお話なさっている。でも自分たちは先生がおっしゃっていることがまるで分からない。なぜ先生は自分たちと離れ離れになるとか、自分たちが先生のことを知らないと言うだろうなどとおっしゃるのだろうか。
弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と訴えました。主イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」とおっしゃいました。「住むところがたくさんある父の家」とはどこなのか。そこへと至る道はどこにあるのか。トマスは知りたかったのです。
トマスはキリストの言葉を物理的な道として理解したようです。キリストと過ごす最後の時になっても、自分たちに言われている霊的な意味を理解することができませんでした。
「私は道であり、真理であり、命である」
イエス・キリストはご自分のことを「道」とおっしゃいました。普通は道というのはどこかにあってそれを自分の足で歩いていくものなのです。主イエスはどこに道があるのかを教える先生ではなく、 道とは私のことだとおっしゃるのです。我々が普通に頭の中で思い描く道とは違います。
キリストはトマスを、より深く、ご自身と神との霊的な関係に目を向けるよう誘われます。
「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる」
主イエスを知ることは、父なる神を知ることだ、と明確に示されました。「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのはそういうことでした。キリストが、神へと至る道であり、神を示す真理であり、神と共にある命そのものだったのです。
次に反応したのはフィリポでした。彼もこの時まだ主イエスのことを表面的にしか見ることができていません。フィリポは最初からの弟子であり、ナサニエルやギリシャ人たちを主イエスのもとに連れてきた人でした。主イエスの弟子たちの中でも古株です。それでもペトロやトマスと同じように主イエスのことを自分の人間的な知識でしか捉えることがまだできていません。
フィリポの願いは単純でした。「主よ、私たちに御父を示してください。そうすれば満足できます。」とてもまっすぐで単純で正直な言い方です。そして深い想いのこもった願いだと思います。
たくさんの人たちを主イエスの下に連れてきたフィリポですら、「主イエスを見る者はすでに神を見ている」ということがわかっていなかったのです。主イエスは「フィリポこんな長い間一緒にいるのに私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ私に御父をお示しくださいというのか」
十字架を前にした、キリストの驚きと悲しみの言葉です。
「神を見たい」という願いは、最も基本的な私たちの本能ではないでしょうか。フィリポは正直です。旧約聖書に出てくるあのモーセも神を見たいと願いました。
出エジプト記33:18~23にそのことが書かれています。
「どうかあなたの栄光をお示しください」とモーセが言うと、神はおっしゃいました。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見てなお生きていることはできないからである。」神の神聖さの前に私たちはその姿を見て生きることはできないというのです。
しかしそれでもこのフィリポの願いは地上に生きる者であれば誰もが抱く思いではないでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭部分1:18でこう書かれています。
「未だかつて神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方神を示されたのである。」
イエス・キリストはどのように私たちに神を示してくださったのでしょうか。神の手を引いて、「この方が神だ」と引き合わせるような、そんな仕方で神を示してくださったのではありません。
まっすぐにご自分に向かって神を見たいと言ってくるフィリポに対して主イエスがおっしゃったのは「私が言うことを信じられないのであれば、業そのものによって信じなさい」とおっしゃいました。
ここで考えたいと思います。キリストがおっしゃっている「業」とは何でしょうか。確かにこれまでキリストは数々の奇跡を行って来られました。足がたたない人を立たせ、盲人の目を開き、ラザロを墓の中から蘇らせて来られたキリストの業は、神の御業でした。
キリストが語られる言葉は、神がご自分の民に従うことをお求めになる教えであり、水を葡萄酒に変え、群衆をパンと魚で満腹させられたのはその業を通して神の祝福の豊かさが現わされるためでした。神の元から来たのでなければ、神が共にいなければ、神の力を持っているのでなければあのようなしるしを行うことができません。
しかしキリストはただ、「私がこれまですごいことを行ってきたのだから、それを思い出してわたしを通して神を見ればいい」とおっしゃっているのでしょうか。
もちろんこれまでキリストが行ってこられた業のことも含まれているのでしょう。しかし、ここでキリストが「私の業」というのはそれ以上の何かではないでしょうか。
私たちが今日読んだところを見ると、イエス・キリストはこれまでご自分がどんなすごい御業を行ったかということではなく、ご自分の御業に従っていく弟子たちのこれからについてお話しなさっています。
「私を信じる者は私が行う業を行ない、またもっと大きな業を行うようになる」
キリスト者はキリスト以上の業を行うことになる、と言われています。少し驚かされる言葉だと思います。キリスト者がキリスト以上の存在になるということなのだろうか。
キリストがおっしゃっている「私よりも大きな業」というのは、キリストが神の下に行かれ、そこから聖霊を教会に送り、弟子達が、教会がキリストの御業を「世界中で」行っていく、ということでしょう。
人として世に来られた神はイエス・キリストはガリラヤとユダヤ、サマリアという地方で御業を行われました。復活後は聖霊を通して、教会を通して、世界中で神の御業が示されていくことになるのです。それが、キリストが「私よりも大きな業」とおっしゃっていることです。
そして教会が伝えるのは、イエス・キリストの十字架と復活という御業です。キリストがここで「私の業」を信じなさいとおっしゃっている御業とは、これから弟子達に見せられる十字架と復活という大きな御業のことなのです。
キリストは弟子たちに一つの約束をここでなさっています。「私の名によって願うことはなんでもかなえてあげよう。」キリストに従おうとする者にとってこんなに嬉しい言葉はないのではないでしょうか。
しかしよく読んでみますと、「私たちが願うこと」ではなく「イエス・キリストの名によって願うこと」と言われています。私たちは自分たちの祈りを思い浮かべるでしょう。
祈る時には私たちはキリストのお名前を通して祈ります。私たちの祈りは、私たちに何が必要なのか、私たちがどんな望みをもっているのかということを神に教えて差し上げることではありません。祈りの言葉をもつキリストのうちに生き、私たちが祈りの言葉をいただき、キリストの祈りを自分の祈りとさせていただき、キリストのお名前によって祈るのです。そうやって私たちの願い・祈りはキリストの祈りとして神に捧げます。
私たちは自分の祈りを、自分の祈りでありながら、キリストの祈りとして神に届けようとするのです。キリストが私たちの祈りをキリストの祈りとして神のもとに届けてくださるというのです。
世界中でどれだけたくさんの人が神に向かって祈っているでしょうか。神のことを信じていなくても何かつらいことや悲しいことがあって漠然と神という存在に向かって自分の思いをぶつけている人もいるでしょう。祈る言葉を持っていてもそれをどこに持って行けばいいのか分からないということはつらいことだと思います。
イエスキリストはこれから弟子たちの元を去って行かれます。しかしそれでも弟子たちには祈っていいのだとおっしゃるのです。たとえイエスキリストの姿を自分の目で見ることがなくても祈ることは無駄ではない、いやむしろはっきりとイエス・キリストの名前によって「祈りなさい」と言ってくださっています。
教会は「キリストのために何ができるだろうか」ということを考えます。そしてすぐに「自分たちは無力だ、自分達には力がない」と考えてしまいます。「祈るということにどれだけの力があるのだろうか、自分は祈ることしか出来ていないんじゃないか」と考えることもあるでしょう。
しかしそれでいいのです。その無力な私たちに、キリストは私たちに祈りなさい、その祈りをかなえてあげようと言ってくださいます。
「2人または3人が私の名のもとに祈る時、私はそこにいるのだ」とキリストは約束してくださいました。 2人または3人が、たったそれだけの小さなキリスト者の群れが祈りを共にし、その祈りがイエスキリストの名によって神のもとに届けられるとき、私たちの業は、より偉大な業としてこの世界の中で用いられていくのです。
イエス・キリストの名前を通して祈る者がいるとき、キリストはそのたくさんの祈りに応えたいと願っていらっしゃいます。私たちが祈る心をもってキリストの内にとどまる限り、私たちの手と足と口が用いられ、この世界の中で、大きな神の御業のために用いられていくのです。