ヨハネ福音書18:28~40
イエス・キリストが逮捕され、アンナスから尋問を受け、カイアファの屋敷へと連れて行かれた夜のことが描かれています。前の大祭司であったアンナスは、ナザレのイエスの罪を明らかにしようとしました。どのような教えを民衆に説いてきたのか、ということを本人から聞き出そうとしましたが、主イエスは「私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」とおっしゃいました。
アンナスはそれをしませんでした。アンナス自身、民衆がナザレのイエスの教えに傾倒していたこと、また、逮捕に向かった大祭司の下役たちまでもが、「あんなに聖書を正しく教えられる人は他にいません」と言っていたことを知っていたのでしょう。彼は、主イエスご自身からその教えを聞くことなく、現職の大祭司であり自分の甥であったカイアファのもとに送りました。
先週私たちは、イエス・キリストがカイアファから尋問されている間に、ペトロが「私はイエスの弟子ではない」と二度大きな声で否定した、という場面を読みました。ヨハネ福音書はなぜか、アンナスによるキリストへの尋問は記録していますが、カイアファによる尋問については何も書いていません。
イエス・キリストがカイアファから何を尋問されたのか、ということ以上に、キリストが胸を張ってこの世に立ち向かっていたのと同じ時、弟子のペトロが「私はイエスの弟子ではない」と否定していたことに焦点を当てるのです。
ヨハネ福音書は、ペトロが「お前はイエスの弟子ではないか」という質問に対して三度否定したらすぐ、「鶏が鳴いた」と夜が明けたことを強調しています。「鶏が鳴いた」、それは、「夜が明けた」ということであり、その日の夜明けは神の救いの歴史の中で重要な意味をもった夜明けとなりました。それは「救いの夜明けが来た」ことを象徴しているのです。
イスカリオテのユダの裏切りの闇、人々が神の子を逮捕した神への反逆の闇、ペトロが「自分はイエスの弟子ではない」と否定してしまった信仰の弱さの闇・・・この世の闇の中に、キリストによる救いの光が差し込むときの到来を、この鶏は告げたのです。
夜明けの光は、どのように差し込んだのでしょうか。
「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」
この一文に続いて、イエス・キリストは大祭司カイアファの下からローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれた、ということが書かれています。
ここからキリストはこのピラトを通して、正式にローマから死刑の宣告をされ、十字架へと上げられていくことになります。キリストが十字架こそが、この世にもたらされた救いの夜明けであった、ということが象徴的に描かれているのです。
さて、まずローマ総督ポンテオ・ピラトについて解説を加えておきたいと思います。ピラトは紀元26年から36年までユダヤの総督であった人です。ユダヤ人の歴史家による記録では、強欲で殺人者であり人間味をもちあわせていなかった人として書かれています。
この「総督官邸」という言葉は、もともとは司令官が戦場で指令を出す幕屋のことを意味しています。ここではローマ総督が寝泊まりしている建物として使われています。司令部、とか司令所のような意味の言葉です。
ユダヤを監督するローマ総督は、普段はエルサレムよりもはるか北にあるカエサリアという港町に駐屯していました。しかし、ユダヤの大きな祭りがある際には、エルサレムに駐屯することになっていました。ユダヤ人の愛国心が高まり、気分が高揚する祭りの時期には、ローマ総督自らがエルサレムで目を光らせておく必要があったからです。
主イエスが総督官邸に連れてこられた時間は、当時のユダヤの時間の区切り方で言えば午前3時から6時の早朝ということになります。エルサレムに滞在していた当時のローマ総督ポンテオ・ピラトは、「こんな朝早くに何事か」、と驚いたでしょう。
主イエスを逮捕したユダヤの人々は、ローマ総督官邸には入ろうとしませんでした。相手の身分が高かったので遠慮して入らなかったのではありません。「けがれないで過ぎ越しの食事をするため」だったと書かれています。ユダヤ人は、異邦人・外国人との接触を「穢れ」とみなしていました。そのため、ユダヤの人たちは、異邦人の家に入るようなことはしなかったのです。
過ぎ越しの食事に加わって祭りに参加するためには、異邦人との物理的な接触を避けなければなりませんでした。非常に厳格に自分たちの律法理解を実践していたのです。
異邦人の立場からすれば腹立たしいユダヤ人の律法の考えであったでしょうが、ピラトはユダヤ地方に派遣されたローマ総督として、ユダヤ人たちの宗教観を知っていたので、自ら外に出て行き人々に対応しました。
私たちはこの朝のユダヤ人たちの姿に皮肉を見ます。彼らは、神の救いを記念するための祭りを控えて、自分たちを清く保とうとしていました。しかし今、ユダヤの宗教指導者たちは、世の全ての人の罪のため・自分たちの罪のために身代わりとなって死んでくださる神の子羊を殺そうと、異邦人に引き渡そうとしているのです。
大祭司カイアファは、「一人の人間の犠牲で、ほかの多くの人たちが助かるのならいいではないか」、と言いました。確かにそうでしょう。犠牲は少ない方がいい。誰かの小さな犠牲によって、多くの人が救われた方がいい、という考え方もできるでしょう。
しかし、その「一人」が、神の子だとしたらどうでしょうか。聖書を、律法をよく知っていたユダヤの指導者たちは、自分たちの目の前にまで来てくださった神ご自身に気づいていないのです。その「犠牲にすべき1人」「身代わりにすべき1人」として、神の子・キリストを選び、ローマ総督に引き渡そうとしている、という皮肉に気づいていないのです。
彼らは、過越祭の中で、自分たちの先祖をエジプトから救い出してくださった神の救いの御業を記念するために、生贄の子羊の肉を食べます。そのために、清くあろう、異邦人との接触はしないでおこうと、そちらには気が回りました。しかし、自分たちがこれから殺そうとしているのは、世の罪を取り除く、神の子羊であることに気づかなかったのです。
さて、私たちは彼らのことを、簡単に非難できるでしょうか。「なぜこんなこともわからなかったのか」と本当に言えるでしょうか。あの時、誰一人イエス・キリストこそ神の子である、と声をあげる人はいませんでした。誰も気づかなかった、誰もわからなかったのです。弟子たちですら、沈黙していました。キリストから離れ、「私はイエスの弟子ではない」と逃げていました。
一体誰が、この時の過越祭の本質を誰が正しく見据えていられたでしょうか。ポンテオ・ピラトはもちろん、ユダヤ人でさえ、宗教指導者でさえ、弟子達でさえ、今、救い主・キリストが十字架に上げられようとしているということがわかっていなかったのです。
この時起こっていることを全てご存じだったのは、イエス・キリストご自身と、父なる神でした。
使徒パウロは手紙の中でこう書いています。
「罪と何のかかわりもない方を神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです」2コリ5:31
このパウロの一言の重みを、私たちはどれだけ実感しているでしょうか。キリストの十字架の痛みは、過去のものではないのです。キリストを知ろうとしない人たちが多い中で、私たちはどれだけ、キリストに向かうことができているでしょうか。キリストに興味がない人、知ろうとしない人も多くいるでしょう。「それはその人たちの問題であって、自分には関係ない」、と言い切れるでしょうか。
もし、自分はキリストを信じない人たちとは関係ない、というのであれば、その人たちの許し・招きのために命をかけられたキリストとも関係ない、ということになるのではないでしょうか。
パウロは同じ手紙の中でこうも書いています。
「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことがわからないのですか。イエス・キリストがあなた方の内におられることが」
少なくとも、この世の闇に向かってキリストの光を証しする信仰の歩みを続けなければ、キリストに従うということにはならないでしょう。私たちは、キリストが逮捕されたあの時には生きていなかったので、どうすることもできません。しかし、今の自分はどうか、そのことを省みたいと思うのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。そして、キリストをまだ知らない人たちの内にも、向かっていらっしゃるのです。
さて、私たちはここで、またヨハネ福音書独特の場面の描き方を見ることができます。大祭司の屋敷の内側にいらっしゃったキリストと、外にいたペトロを交互に描いたように、総督官邸内でのやりとりと、外でのやりとりを交互に描きます。
総督官邸の中でキリストとピラトが語り、そして官邸の外で待つ人々に、ピラトが「この者には罪を見いだせない」と伝える、これの繰り返しです。ローマ帝国の権力を持った総督ピラトが、小間使いのように主イエスとユダヤ人たちとの間を行ったり来たりする様が見ます。
このイエスという人には何の罪も見いだせないのに、ユダヤの指導者たちがイエスを殺すことを望んで興奮しているのです。官邸内で静かに冷静に話されるイエス・キリストと、官邸の外で興奮して「イエスを殺せ」と叫ぶユダヤ人たちの姿を対比してみることができます。
この場面をきちんと読むと、イエス・キリストは正しく裁きにかけられていません。正しい裁判の手順が踏まれていないのです。こんな時間に、ローマ総督のもとに一人の罪人を「死刑にしてください」と連れて行くことは非常識でした。それに、ピラトが「この者は無実だ」と言っても、外で待っていたユダヤ人たちは聞き入れないのです。正義が貫かれていないのです。
しかしこの混乱の水面下では、神の救いの計画が確かに進んでいる、ということを私たちは見ます。
この場面は「イエスがどんな悪いことをしたのか」ということから、「イエスの権威はなにか。イエスは王なのか」ということに主題が変っていきます。
建物の中でのイエス・キリストは非常に冷静です。それに対して建物の外では混乱に満ちた人間の声が満ちています。ピラトはどうやってもこのイエスという人に罪を見出すことはできませんでした。
神の救いは、このような人間の混乱、自らが神の正しさを持っているという思い込みを通して、神の子の十字架という最も理解しがたい仕方で実現していきました。私たちは、この総督官邸でのやりとりを通して、世の罪の愚かさ、神の救いの不思議を見せられるのです。