マルコ福音書10:23~31
「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(10:27)
イエス・キリストの弟子達は、「金持ちは神の国に入ることが出来ない」という言葉に驚きました。当時の人たちにとって、財産というのは神からの祝福だったのです。
「永遠の命を得るには自分は何をすればいいのですか」と主イエスに尋ねた人は、「あなたに欠けているものが一つある。財産を貧しい人たちにあげて、私に従いなさい」と言われ、結局従うことが出来ませんでした。これまで自分が積み上げて来た財産を手放すことができず、イエス・キリストの内に天の宝を見出せなかったのです。彼は肩を落として去っていきました。
弟子達は言いました。「あの人が神の国に入ることができないのであれば、誰が救われるのだろうか」。弟子達にすれば、主イエスの元を去っていった金持ちは理想的な信仰者でした。律法を守り、財産を持っていて人々から尊敬される典型のような人です。
私達は、キリストがここでおっしゃった言葉を丁寧に考えなければならないと思います。
これは、信仰者は財産をもってはいけない、お金を持っている人ほどダメな人で、お金を持っていない人ほどいい人、ということなのでしょうか。キリストに従うためにはお金を全否定して、世捨て人にならなければならいけないのでしょうか。
主イエスはそんな乱暴なことをおっしゃっているのではないでしょう。
ここでおっしゃっているのは、自分の財産のせいで天の宝を見る目が曇り、キリストの招きを受け入れず、キリストに背を向けてしまう金持ちのことです。主イエスは「先のものが後になる」とおっしゃいます。去っていった金持ちは、「先の人」でしたが、結局主イエスに従うことが出来ず、「最後の人」になってしまったのです。
この人はキリストを見ずに自分だけを見ていました。目の前にいらっしゃるイエスという方が一体誰なのか、ということよりも、「神の国に入るには何が必要か教えてほしい、教えてくれれば、あとは自分でやる」、という姿勢です。
しかし、神の国というのは、文字通り「神の」国なのです。神に導き入れていただかなければならない国であり、人を神の国へと招き入れてくださるのはあくまでも神なのです。だから主イエスは、「私にあなた自身を委ねなさい」、とおっしゃいました。「あなたにあと一つ必要なことは、自分の力を手放して、私の導きに委ねることだ」、と。
この福音書の4章で、主イエスの「種まく人のたとえ」が語られています。
こういう内容です。種を蒔く人が家から出て行って種を蒔きました。ある種は道端に、ある種は石だらけで土の浅いところに、ある種はいばらの中に落ちました。それらの悪い土地に落ちた種は当然実を結びませんでした。
これは、どれだけ神の招きの言葉がこの世で聞かれずに無駄になっているか、という話です。神の国の福音がこの世界で語られても、艱難やこの世の思い煩いや富の誘惑によってほとんどがダメにされてしまっているのです。
主イエスの下から去っていったあの金持ちの心には、神の言葉の種を受け入れる場所がありませんでした。「捨てられない自分」で満たされていたのです。キリストが蒔かれた「私に従いなさい」という招きも、石だらけの土地に落ちた種のように、根っこが張ることはありませんでした。
ペトロは、「私達は何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言いだしました。「自分たちは大丈夫ですよね」ということです。安心したかったのでしょう。
キリストはこれまで繰り返し、「神の前に子供のようになり、神の招きに応じなさい」、と弟子達におっしゃってきました。しかし、この時の弟子達の心を占めていたのは、「偉くなって神の国に入ろう・12人の中で誰が一番偉いのだろうか」、という思いでした。
主イエスはそのような弟子達に「全てを捨てて私に従う者は、この世で苦しみがある」とはっきりとおっしゃいました。信仰者には、キリストへの信仰ゆえの苦しみというものがあるのです。
それでも、「子供のような思いをもって私に従いなさい」、とキリストは招かれます。弟子達がキリストのおっしゃる神の国・永遠の命というものを理解するにはもう少し時間がかかります。
教会の宣教はいつでも失敗の連続です。キリストを証ししたら皆すぐに信じてくれるようになる、なんてことはありません。ほとんどの御言葉の種は、根を張らず、実を結びません。しかし、私達は、希望を捨てません。
なぜでしょうか?
キリストが諦めていらっしゃらないからです。
あの金持ちが落ち込んで家に帰って行く姿に、私達はキリストの種まきの失敗を見ます。それでもキリストは、理解をしない弟子達にも、ご自分に誤った期待を寄せる人にも、忍耐強く神の言葉の種を蒔き続けていかれます。私達もそれに習うのです。私達自身が、キリストのその御業によって救われたから。
種まきのたとえ話では、種を蒔く人は、まず悪い土地に種を蒔いています。普通は、良い土地から種を蒔きます。いや、普通は、良い土地「だけ」に種を蒔きます。
しかし、たとえ話の中で、種まく人は貴重な種を悪い土地から蒔き始めています。
なぜでしょうか。
神の御言葉は、神の招きに相応しくない人にこそ蒔かれるのです。罪人こそ、神の許しの言葉が必要だからです。神の愛に値しないような罪人ほど、神の許しの言葉に飢え渇いていることを神がご存じだからです。
人は自分の内側にある何かが崩れた時、初めてキリストの声を受け入れる余地が出来ます。心の中に神の言葉を受け入れる場所を作り、キリストの言葉を待ち望む人がいる限り、教会は、種まきの労苦を担い続けていきます。
主イエスの下から去っていったあの金持ちが、その後どうなったのかは書かれていません。あの金持ちは確かにあの時、キリストの元から去っていきました。しかし、それで終わりではなかったはずです。
この後、主イエスの十字架と復活の出来事が起こります。復活の主イエスは、一度ご自分の下から去っていった人を、命をかけて招かれる方です。全ての人に立ち返りの道は開かれています。
この後、あの人はどうしたでしょうか・・・。
パウロがフィリピ教会にこう書き送っています。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです。」
キリストは我々に神の言葉の種を、命をかけて蒔いてくださいました。私達はそのキリストの種まきの担う光栄を頂いているのです。