06月20日の説教要旨

マルコによる福音書10:46~52

「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

マルコ福音書は、イエス・キリストの公の生涯を大きく三つに分けて伝えています。ガリラヤ地方での宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの最後の7日間です。今日の場面は福音書の第二部、キリストと弟子達のエルサレムへの旅の最後の所になります。

主イエスのエルサレムへの旅は終わろうとしています。エルサレムの手前にある町エリコに到着しました。これからエルサレムに入り、キリストの受難への秒読みが始まろうとするまさにその時、一人の目の見えない人が主イエスのお名前を叫びました。

バルティマイという名前の人でした。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」バルティマイは人々から「黙れ」と叱られても、主イエスを求めて叫び続け、その声は主イエスの耳にまで届き、バルティマイは目を開かれるのです。

イエス・キリストの旅は、ベトサイダという村で目の見えない人を癒されるところから始まっています。そしてこの旅は、エルサレムに到着する直前にバルティマイという人の目が癒されることで終わっています。

主イエスのエルサレムへの旅が、盲人の癒しで始まり、盲人の癒しで終わっている、ということには、象徴的な意味があります。イエス・キリストと共に歩む・生きるということは、「目が開かれる」、ということであり、霊の目が開かれた人はキリストと共に人生の旅を続けるということです。

皮肉なことですが、イエス・キリストの弟子達は、ガリラヤからエルサレムまで主イエスと旅を共にしながらキリストの教えの本当の意味、キリストの本当のお姿がまだ見えていませんでした。弟子達はまだ霊の目は開いておらず、信仰の道は見えていません。

エルサレムに入る直前になっても、弟子達が求めていたのは、主イエスが栄光の座にお着きになる時に自分もそのそばにおいてほしい、自分にも栄光の分け前が欲しいという、この世での偉さでした。

主イエスはこの旅の中で弟子達に繰り返し神の国の教えを語ってこられました。「神の国に入るには子供のようにキリスト・神を求め、受け入れなければならない」「この世で偉いとされている人は、神の国では偉いとはみなされない」「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」

しかし、そう言われても弟子達は理解できませんでした。弟子達がこの旅の間考えていたことは、「誰が一番偉いのか」ということでした。神の国に入るために小さい者になろう、皆に仕える者になろう、そして子供のようにイエス・キリストを求めよう、と考えるには至りませんでした。キリストのことを理解しないまま、エルサレムの手前まで来てしまったのです。

エリコは、エルサレムへと向かう巡礼者が止まる最後の町です。エリコに来るまでに、主イエスの一行にはたくさんの巡礼者たちが加わりました。もうすぐ過越祭があるのです。彼らは早く神の都エルサレムに入りたいと思っていました。それなのに、一人の目の見えない物乞いが大声を上げて主イエスを引き留めようとします。弟子達も巡礼者たちも、バルティマイを叱りました。このバルティマイという人が、これからエルサレムに巡礼に向かう人たちに、本当に求めるべき霊の宝を示すことになるのです。

この人は、イエスという方がガリラヤで語られた神の国の福音について、また行われた数々の不思議な業について、エリコの町で物乞いをしながら伝え聞いていたのでしょう。そして、「そのイエスという方こそイスラエルのメシア」に違いない、と主イエスに会える時を待っていたのです。

「その方は過越祭のためにガリラヤからエルサレムに登って来るに違いない。その時には、エリコの町を通るはず。自分の目の前を通るはず。その時、自分の思いをぶつけよう。主イエスの足音を聞き逃してはいけない」と、道端で耳をすましていたのでしょう。

バルティマイは、キリストが目の前を通り過ぎる瞬間を逃しませんでした。そしてただ主イエスのお名前を呼び続けました。人々から「黙れ」と言われても。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。

バルティマイは、「ダビデの子」と繰り返し叫びます。「ダビデの子」というのは、預言者エゼキエルを通して預言されていた、イスラエルを導いて神の元に連れ戻す羊飼い、救い主のことです(エゼ34章)。神は、預言者エゼキエルの口を通して、「ダビデの子孫からイスラエルの羊飼いを起こす」、とおっしゃいました。

バルティマイは、ナザレのイエスこそ、その「ダビデの子、イスラエルの羊飼い」である、見抜きました。彼は確かに目の見えない人でしたが、誰よりも、霊の目はキリストに対して開いていたのです。

バルティマイの信仰の叫びは、イエス・キリストの足を止めました。そしてキリストの元に招かれ、目を癒していただいきます。キリストの足を止め、バルティマイに救いをもたらしたものは何だったのでしょうか。イエス・キリストは、「あなたの信仰が、あなたを救った」とおっしゃいました。

バルティマイがキリストを求める姿というのは、無様だったと思います。なりふり構わず叫ぶのです。彼は目の見えない、一人の物乞いに過ぎませんでした。有名な律法学者だったのではありません。

自分で主イエスの下に行くことが出来ないのです。近づいて、普通に自分の信仰を伝えることが出来ないのです。彼は、自分が物乞いをしている場所から大声を上げて、キリストを求めるしかありませんでした。無様に自分をさらけ出し、人々から「黙れ」と言われても、嫌われても、キリストを求め続けるしかなかったのです。そしてそのことが、バルティマイ自身を救った、とキリストはおっしゃいます。彼の人生を変えたのは、彼自身のキリストを求める心、彼自身の信仰でした。

そしてバルティマイの信仰は、自分だけでなく、周りにいた人たちも変えています。人々は初めはバルティマイに「黙れ」と言いました。巡礼者たちにとって、主イエスの歩みを止めようとするこの物乞いは、邪魔でしかなかったのです。

しかし、キリストがバルティマイの叫びを聞き、「あの人をここに連れて来なさい」と招かれると、人々のバルティマイに対する言葉が変わります。人々の「黙れ」と言う言葉が、「安心しなさい」という言葉に変わるのです。「安心しなさい。立ちなさい。あの方がお呼びだ。」拒絶の言葉から、励ましの言葉に変わりました。

救いを求める一人の信仰者の姿が、キリストを足をそこに止め、周りの人たちの心をも変えたのです。キリストへの信仰は、自分を変えるだけでなく、人々をも変えるのです。

私達は自分の信仰を振り返って、自分の信仰が持つ力の小ささに嘆くことがあるのではないでしょうか。「もっと影響力を持てないか、もっと自分に力があったら、キリストをたくさんの人に知ってもらえるのではないか」、などと思うのです。

しかし信仰の業というのは、このバルティマイの叫びのようなものなのです。沈みそうで溺れそうになっているその中からキリストに助けを求める叫び、祈り。その不格好な信仰者の業が、実は用いられるのです。

バルティマイは、雄弁に聖書を解釈して語れるような律法学者ではありませんでした。彼は、ただ物乞いしながら、みじめさを抱えながら、キリストの足跡が聞こえた時に叫ぶべき祈りの言葉を温めていました。そして叫ぶべき時に、「私を憐れんでください」と叫んだのです。これが、信仰の業です。このことが周りの人を変えるのです。

無様でもいい、いや、無様だからこそ、私達は祈るのではないでしょうか。その必死になって神の救いを求める人の姿が、キリストの憐れみを求める祈りの姿が、周りの人たちをも変えていきます。

バルティマイは、癒されました。それだけでは終わりませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。

キリストに出会い、目を開かれたその人は、その後、自分が歩むべき道が目の前に現れるのです。それはキリストが進まれる道です。信仰者はキリストの後ろを歩くようになります。羊飼いが羊飼いを先頭に立って導くようにキリストが信仰者を神の国に通じる道を先に立って導いて下さいます。

バルティマイが主イエスの後に従った、というのは、ただエルサレムに付いて行った、ということではありません。それはキリストの道を歩き始めた、そして一生キリストの道を歩きとおした、ということです。

「道」というのは、イエス・キリストに従う道のことです。使徒言行録にも「道」と言う言葉が使われています。単なる「道路」ということではなく、イエス・キリストに従う信仰の道という意味で用いられています。主の道、神の道などとも言われています。

バルティマイに起こったことは、全ての信仰者に起こることです。キリストを求める人がキリストに出会って霊の目を開かれ、歩むべき道に従っていく・・・それこそが、私達が洗礼によってキリストと契約を結び、共に歩むと決めた道なのです。

生きる中でいろんな試練や苦難があり、右往左往する私達であっても、先を行かれるキリストに付いて道を歩む限り、それは、まっすぐ神の国へと近づいているということなのです。