10月31日の説教要旨

マルコ福音書14:12~21

「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)

ガリラヤから過越祭への巡礼のためにやってきた主イエスの一行は、エルサレムで「除酵祭の第一日を迎えた」、とあります。この日は木曜日でした。除酵祭の第一日、この木曜日の日が暮れて夜を迎え、そしてその夜が明ければ、イエス・キリストは十字架に上げられ、殺されることになります。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが弟子達と過ごす最後の時間を、どのように過ごされたか、という場面です。

この日主イエスがなさったことは、食事の席を弟子達に探させ、そして共に食事をする、ということでした。その食卓は「最後の晩餐」と後に呼ばれることになります。

この日、主イエスが弟子達と囲まれたのは、「過ぎ越しの食事」と呼ばれる、イスラエルにとって、自分たちのルーツを思い出すための特別な祭りの食卓でした。過越祭は、イスラエルの人たちが自分たちの先祖がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念する祭りです。

出エジプト記にその「過越し」の出来事が記されています。神は、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放するために、エジプトを打たれました。その際、イスラエルの人たちは、神の裁きが自分たちのもとに来ないように、目印として、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神は、子羊の血が塗られたイスラエルの家をは過ぎ越して、エジプトを打っていかれたのです。

そしてその夜、イスラエルの人たちは旅の準備を整えることもなく、急いで食事をし、エジプトを出発しました。過越祭の中でもたれる「過越しの食卓」は、その夜の食事を再現して、思い起こすためのものでした。イスラエル解放の夜を記念するために、一家の長が食事を取り仕切って自分たちの先祖が神に救い出された夜のことを、順を追って追体験するのです。

イスラエルの人たちは、そのようにして過越祭を通して、自分たちが神によって救われて今も生かされている、ということを代々子供たちに伝え、神への信仰を確かなものとしてきたのです。

イエス・キリストが、十字架に上げられる前に最後に弟子達と囲まれたのが「過ぎ越しの食卓」であった、ということは偶然ではありません。私たちはここを読んで、あまりにもキリストがおっしゃる通りに物事が運んでいることに驚くのではないでしょうか。

事細かに弟子達に指示を出されています。「エルサレムの都に行くと、水瓶を運んでいる男に出会うからその人について行きなさい。そしてその人が入って行く家の主人に、食事の席を準備させなさい」

どこで誰に会い、そしてどのように言えばよいのかまで弟子達に指示をお与えになっています。まるですべてそうなると決められていたかのようです。

実は、そうなのです。そう決まっていたのです。この日、イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐として過ぎ越しの食事を囲むということは、神のご計画の内にあったことでした。

イザヤ書53章に、すべての罪びとを背負って死ぬ、という使命が与えられた「神の僕」が世に与えられるだろう、という預言があります。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。その我々の罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に惹かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「苦難の僕」の歌と呼ばれるイザヤ預言です。神に背を向けて離れてしまった罪びとたちのすべての罪を担う「苦難の僕」と呼ばれる人が来る、という預言です。

イエス・キリストこそ、その苦難の僕でした。この方はこれから罪びとの罪を背負って十字架の上で死んでくださいます。この方は生贄なのです。犠牲なのです。そして罪びとにとっては罪の重荷から解放してくださる方でした。

主イエスがこの日弟子達と過越しの食卓を囲まれたということは、長い歴史の中で神が実現なさる救いのご計画の一部でした。十字架の前夜、それはまさに新しい過越しの夜であり、罪からの解放の前夜だったのです。使命を背負って、この世に来てくださった苦難の僕を通して、神がすべての罪びとを身元へとお集めになるご計画は、間違いなく実現しています。

苦難の僕は今、罪びとを救い出すために、一つ一つ苦しみへの階段を上ってくださっています。後のキリスト教会にとって、この夜主イエスと弟子達が囲んだ最後の晩餐は、新しい救いの始まりとして記念すべきものとなりました。

イスラエルの人々が過ぎ越しの食事を通して自分たちが何者であるのか、ということを思い出し、代々それを伝えてきたように、キリスト教会もこの晩キリストと弟子達が囲んだ食卓を通して、自分たちの信仰の原点と、自分たちが生きている世界にキリストが今も共に生きて歩んでくださっていることを深く覚えるようになるのです。

この時の弟子達にはまだわからりませんでしたが、これは新しい過ぎ越しであり、新しい救いの始まりの食卓でした。この夜の食卓が、新しい救いの記憶となり、弟子達は人々に伝えて行くことになります。

さて、主イエスは、この食卓で、一つの衝撃的な事実を弟子達に打ち明けられました。

「この中の一人が私を裏切ろうとしている」

弟子達は皆驚きました。イスカリオテのユダも、驚いたでしょう。自分が主イエスを引き渡すために祭司長たちと取引をしたのがばれていたのです。見抜かれていたのです。

しかし、主イエスはこの席「それはイスカリオテのユダだ」とはおっしゃいません。ユダがご自分を裏切ることまでも神のご計画の内にあることを受け入れていらっしゃるからです。

主イエスは、全てご存じだった。

この後、ユダの裏切りによってユダヤ人指導者たちに逮捕され、裁判にかけられ、ローマ総督に引き渡され、十字架刑を宣告され、鞭うたれ、十字架に張り付けられることも・・・ユダに裏切られるだけでなく、ほかの弟子達もご自分から離れ去ってしまうことも・・・ペトロが三度「イエスなど知らない」と言ってしまうことも、全てご存じでした。

そもそもイエス・キリストは、そのご生涯のはじめから、エルサレムでご自分の十字架の死が待っているということをご存じでした。すべてお分かりになっていた上で、エルサレムに旅をし、一日一日エルサレムに滞在して十字架の時が来るのを待っていらっしゃったのです。

今この時、目に見えないところで祭司長たちや律法学者たちがご自分への殺意をもって動いていること、そしてイスカリオテのユダが主イエスを引き渡すために接触したことだった、全てご存じでした。

「まさか私のことでは」と一人一人が言い始めた。

ユダも他の弟子達に調子を合わせて、同じようにまさか私ですか?」と白々しく尋ねていたのではないでしょうか。この食卓での主イエスのお気持ちはどうだったでしょうか。考えるだけで胸が痛くなるのではないでしょうか。それでも主イエスは、この過ぎ越しの食卓を弟子達と共にされたのです。

なぜでしょうか。逃げようと思えば、いつでも逃げることができたはずです。この席で「裏切り者め」とユダを責めることもできたはずです。なぜユダなどと一緒に食事を共にされたのだろうか、と考えるのが普通でしょう。

しかし、イエス・キリストにしてみれば、そのような罪びとだからこそ、神の許しが必要だったのです。そのような不完全でどうしようもない人間だからこそ、神の招きが必要だったのです。主イエスは強い決断をもって、この罪びとたちと静かに過ぎ越しの食卓を共にされました。

ご自分の十字架から逃げることは、罪びとを見捨てることになります。キリストは世の罪びとを、ご自分の命以上に愛されました。だから黙って、毛を駆られる子羊のように、ご自分に課せられた生贄としての使命に従順でいらっしゃったのです。

イエス・キリストが迫りくる十字架への時を静かに過ごされているお姿に、私たちはどれほどキリストの強い決断と、強い愛を見出しているでしょうか。ご自分を裏切る弟子、ご自分を見捨てる弟子、ご自分のことを知らないと言う弟子と共にキリストは過ぎ越しの食卓を最後の晩餐として囲まれました。「私はあなた方罪びと一人ひとりのために死のう」と、その決断が、そのお姿が物語っていいます。

我々人間が、誘惑に負けることなく、神に従順で、強く生きていられたら、キリストは十字架に上げられる必要などありませんでした。しかし、人は弱いのです。

使徒パウロは、自分から弱さを無くしてほしいと神に願った時、神からこう言われた、と書いています。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

パウロにとって、自分に与えられた弱さは、自分が思いあがらないようにするために与えられた恵みだ、というのです。

「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とパウロは言います。

私達は弱いからこそキリストに出会えました。弱さを知らなければキリストを知ることは出来ません。

なぜキリストが我々のために死んでくださったのか・・・私達の弱さのためです。

自分の力で神を知ることが出来るのであれば、簡単です。しかし、人間は、自分の強さを求め、どんどん神を忘れてしまうのです。そうやって、神から離れて的外れな生き方しかできなくなってしまいます。

だからこそ、キリストは私達のために命を投げ出す決断をしてくださいました。

弟子達はやがて、この日の食卓が、自分たちにとってだけではなく、この世界の全ての人にとって特別な食卓であったことを知ことになります。

神はキリストの十字架の血を通して、この世のすべての人に、「私は、あなたを愛している」ということを宣言されました。そして、「愛し続ける」ということを契約されました。

この、神の子イエス・キリストの十字架という壮絶な救いの業を忘れないためにも私たちは、最後の晩餐に座ってくださったキリストを何度も思い返したいと思います。罪びとでありながら、その聖い食卓に招いてくださった恵みを覚えましょう。