1月9日の説教要旨

マルコ福音書14:43~52

「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」(14:45~46)

ゲツセマネの祈りを終えた後、イエス・キリストは弟子の一人ユダに率いられた群衆によって逮捕されました。私たちは、これからイエス・キリストがイザヤが預言した「苦難の僕」として、夜通し痛みを与えられ苦しんでいかれるお姿を見ていくことになります。

ユダが剣や棒をもった「群衆」を手引きして来ました。この「群衆」というのがユダヤ人兵士なのか、神殿の警備をしていた警察のような人たちなのか、細かいことは書かれていません。ただ、ここで分かっているのは、この「群衆」は、祭司長や律法学者、長老といった、ユダヤの最高法院によって遣わされた人たちだった、ということです。

過ぎ越しの食事を終えて弟子達がゲツセマネに向かい、主イエスが祈っていらっしゃる間に、ユダは他の弟子達から離れて、逮捕の一団を呼びにやったようです。そして自分でその一団を率いてきました。ユダはすでに、最高法院の人たちとの取引を終えていたので、この時、懐には祭司長たちから与えられた銀貨が入っていたでしょう。

主イエスは何日も神殿にいてたくさんの人に神の国の教えを話してこられたのですから、その顔を知っている人たちは大勢いたでしょう。それでもユダは、念には念を入れて、暗闇の中で逮捕する相手を間違えないように、「私が口づけして挨拶するのがイエスだ」と打ち合わせをしてやってきました。「接吻」とは頬と頬をあわせる、親愛を示す挨拶です。これが、ユダの裏切りの合図でした。皮肉にも、ユダは主イエスへの愛情を示し仕方で、裏切ったのです。

私たちはここに神に対する人間の罪を見ます。このキリストに対するユダの姿は、神に背き続ける歴史を作ってきたイスラエルそのものではないでしょうか。イスラエルの歴史は、神の恵みに喜び、すぐに誘惑に負けて神を離れ、その先で苦しみ、再び神に許していただく、ということの繰り返しでした。

神に対して面と向かっては、いい顔をするのです。しかし、神に向かって親愛の情を示しながら、わずかな地上の富、一時の地上の快楽・安心を求めて、心が離れてってしまう・・・それこそ、イスラエルの不信仰の歴史です。

主イエスはユダの口づけがどのような意味をもっているのか、全てご存じでした。それでも、ここでユダを叱ることもせず、拒絶することもせず、黙って彼がすることに身をゆだねていらっしゃいます。

神は、預言者イザヤの口をとおしておっしゃいました。

「地の果てのすべての人々よ、私をあおいで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(45:22)

神は、地の果てのすべての人々に向かって、全世界のすべての人間に向かって、「私のところに戻ってきなさい」と招かれます。本当は、ユダだって、招かれているのです。

しかしユダは目の前に神の招きを見ながら、口づけをもって神に背を向けました。罪の力の働きが、ここにあります。そして、キリストは苦難の僕として全てをご存じの上でユダの罪の業を受け入れられました。神の愛の招きがここにあります。

主イエスはユダと、武装した群衆を相手に、最後まで無抵抗で通されました。近くにいた人が、主イエスを守ろうとして剣を手に取って逮捕の一団に襲い掛かります。ご自分の目の前で争う人たちに向かって主イエスはおっしゃいました。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棍棒を持ってとらえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった」

ここで争う必要はないのだ。

主イエスを捕えようとする人と、主イエスを守ろうとする人、どちらに正義があるのでしょうか。

真夜中に武装した群衆が一人の人を捕えに来る、ということ、それ自体が異常なことでした。正当な理由があれば、白昼であっても、そこに群衆がいても、逮捕の理由を堂々と告げてからとらえることができるはずでした。この行動の中にすでに、最高法院の人たちが抱えている疾しさが表れています。自らの罪に目を向けるよう主イエスは促されました。

主イエスは無抵抗でした。ただ一言、ご自分の無抵抗の理由をこうおっしゃいました。

「これは、聖書の言葉が実現するためである」

祭司長たちはなぜ主イエスを逮捕したのでしょうか。それは、ナザレのイエスが、自分たちの律法の理解と違うことを民衆に教えていたからです。祭司長たちは、神の言葉である律法を正しく守るためにナザレのイエスを排除しなければならないという自分たちの正義のために、このようなことをしました。

しかし、神はこの夜の主イエスの逮捕をどうご覧になっていたでしょうか。

イザヤ書にこう記されています。

「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」

主イエスを捕えに来た群衆、ユダ、祭司長や律法学者たちは、自分たちに正義があると信じていました。「自分たちは神のために自分たちは働いている、自分たちは正義だ」と思っていました。

しかし、イザヤの預言を通して、この主イエスが逮捕されるお姿を見ると、御自分を捕えに来たすべての人たちの罪の病を自ら背負っていらっしゃる苦難の僕であることが見えてきます。

ここで主イエスがおっしゃった、「聖書の言葉が実現するため」とは、聖書の中の、どの言葉のことなのでしょうか。主イエスがついさっき弟子達におっしゃったゼカリア預言の言葉です。

「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」

そのゼカリアの預言通り、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。主イエスにとって、ご自分が捕らわれること、そして弟子達全員から見捨てられることは驚きではありませんでした。それが神の御心だったのです。それも苦難の僕として与えられることになっていた痛みでした。むしろ、主イエスはこの瞬間のために祈りながら備えて来られたのです。主イエスはゲツセマネで「御心が行われますように」と祈られました。それは、「必要な痛みを全て受け入れます」ということだったのです。

さて、ユダの口づけによって逮捕され、弟子達全員に見捨てられた後に、一人の若者が必死にその場から逃げ去ったことが記されています。

不思議な記述です。いったい誰なのか、なぜこの人がその場から逃げ出したのかも記されていません。12弟子の一人なのかどうかさえもわかりません。

ただ、聖書は「一人の若者が裸になってまで必死に、無様に逃げた」、ということを短く記しています。この人が一体何者なのか、ということは推測するしかありません。

イエス・キリストに従って来た人でしょう。若者は「素肌に亜麻布をまとっただけの格好をしていた」、とあります。以前、主イエスがガリラヤで弟子達を宣教に遣わされたとき時、こうおっしゃいました。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」

主イエスの、「身一つで神の国を宣べ伝えなさい、身一つで私に従いなさい」、という教えをこの若者は、忠実に守っていたようです。ただ、亜麻布を一枚体にまとって従っていた、ということがこの若者の信仰の姿勢をよく表しています。

しかし、このようなまっすぐな信仰を持った人であっても、主イエスが逮捕されるのを見て、たった一枚の持ち物である亜麻布を取られて、裸になってでも逃げだしたのです。

いったいこの人は誰なのでしょうか。この若者は、私たちです。聖書は、「裸でキリストを見捨てて逃げ出したこの若者こそ、あなたの罪の姿だ」と見せつけているのです。

強い決心をもってキリストに従おうとしても、何かがあるとキリストを置いて逃げてしまう・・・キリストを見捨ててその場から逃げ出そうとする弟子達であり、また私たち信仰者のありのままの姿だ。

私たちは主イエスが弟子達におっしゃった言葉を思い出すのではないでしょうか。

「心は燃えても、肉体は弱い」

弟子達はついさっき、「皆がつまずいても私はつまずきません」と言ったばかりです。

信仰の心は確かに燃えていました。しかし、実際に主イエスが逮捕されると、必死になって、無様に裸になってでも逃げだしてしまう・・・私たちは、自分の罪の醜さから目を背けることは許されません。

主イエスはガリラヤで宣教をなさってい時、「種をまく人のたとえ」をお話しなさいました。種をまく人がまいた種が、道端に落ち、石だらけの土地に、いばらの中に落ち、すべてダメになってしまった、しかし、よい土地に落ちた種は30倍、60倍、100倍に育った、という話です。

主イエスがこれまでガリラヤからエルサレムまでずっと弟子達に蒔き続けてこられたみ言葉の種はどうなったのでしょうか。み言葉の種を受け取った弟子達は逃げ去ってしまったのです。すべて種は死んでしまったのでしょうか。

そうではありません。み言葉の種はまだ死んでいません。主イエスはその弟子達を、あの若者をもう一度良い土地へと導き入れるために、今、十字架へと向かわれているのです。キリストの十字架と復活の向こうで、罪びとたちに蒔かれた神の国の福音の種は芽吹き、育っていくことになります。

今は、痛みながら神の救いの御業に身をゆだねていらっしゃるキリストのお姿を見つめていたいと思います。このキリストの忍耐と従順によって神の国は芽吹いていくのです。