MIYAKEJIMA CHURCH

6月30日の礼拝案内

次週 礼拝(6月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:22~34

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番25番、233番、501番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月23日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:14~24

「私だ。こわがることはない」(6:20)

イエス・キリストが山の上で、御自分を求めてやってきた5000人もの群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させられた、という奇跡を行われました。今日私たちが読んだのは、その後どうなったのか、という場面です。人々が主イエスに感謝し、主イエスは人々を受け入れ、いい絆が生まれた、という話ではありません。むしろ主イエスと群衆はこの奇跡の後、相容れずに、群衆から距離をとることになった、ということが記録されています。

おなかを満たしてもらった人々は「この人は、世に来るはずのあの預言者だ」と言い始めました。イエスという方は、1人の少年が持っていたわずかな食事を、御自分の手で増やして群衆を祝福で満たしてくださいました。「この方は、普通の人ではない、天からの権威を持った預言者に違いない」、と人々は思ったのです。

旧約聖書の申命記にそのような預言があります。申命記18章15節に「いつかモーセのような預言者が起こされるだろう」と書かれているのです。

この時代、ユダヤ人は皆、モーセの再来となる預言者を待っていました。洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に洗礼を授けていた時、ユダヤ人たちはエルサレムから人を遣わして「あなたは預言者ですか」と尋ねさせています。申命記に書かれている預言者ではないか、と期待したからです。

主イエスがサマリアで出会われたサマリア人女性も、主イエスと話をしているうちに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。これも、申命記の預言実現の期待の表れです。

ユダヤ人もサマリア人も、モーセのような預言者が自分たちの下に来るのを待っていたのです。そしてこの山の上で主イエスによってお腹を満たされた人々は、このイエスという方に新しいモーセの姿を見出し、期待を抱いたのです。

人々は、主イエスを求めました。しかし、主イエスは群衆を残して一人で山に引きこもられました。「人々が自分を王にするため、連れて行こうとしているのを知っておられたからである」と書かれています。

人々は預言者に神の言葉を求めたではありませんでした。主イエスのことを「自分たちの王に仕立て上げるために連れて行こうとした」のです。自分たちに都合のいいように主イエスを持ち上げようとしたのです。主イエスはそれを見抜かれました。そして人々の心の内をご覧になって、お一人でそこを後にして山に引きこもられました。

もし主イエスがこのまま群衆の期待に応えて、身を委ねていらっしゃったとしたらどうだったでしょうか。もっと華々しい地上での生活が待っていたかもしれません。人々から尊敬され、十字架などに上げられることなく穏やかに一生を過ごされたかもしれません。

しかし、主イエスが神から与えられた使命は、地上の王になることではありませんでした。人々が求めたのは、自分たちの期待に応えてくれる、都合のいい王様でした。神がお求めになったのは、「命のパンとして、この世に自分の体をささげる」ことでした。

人々は、神の御心を求めて主イエスを求めたのではなかったのです。「この人が自分たちの王様だったらいいじゃないか」という自分たちの思いを満たすために求めたのです。

人間が誰しも持っている、自分本位の期待です。いつの時代にも、誰にでも、あるものでしょう。自分の期待に応えてくれるキリスト、自分が欲しいものを用意してくださるキリストを、都合よく求めてしまいます。

サマリアの女性は、主イエスが「尽きることのない命の水」とおっしゃったのを聞いて、「もう水くみに来なくてもよいのではないか」と勝手に期待しました。同じように、山の上で満腹した人たちも、自分たちに食べ物を豊かに与えてくれる王様として主イエスに期待し、祭り上げようとしました。

人間は、キリストに期待するのです。それはどのような期待でしょうか。神が私に必要なものをくださることよりも、自分が欲しいものを都合よくくれることを求めてしまうのではないでしょうか。神の御業が行われること以上に、自分がしてほしいこと、自分を満たすことを求めてしまうのです。

群集から離れて、山に引きこもられた主イエスは1人になって祈る時間を持たれたのでしょう。御自分の行く手に十字架が待っていることをご存じだった主イエスにとっては群衆の期待は誘惑でした。十字架への道を捨てて、群衆の期待に応えれば、もう受難に向かって歩まなくてよくなります。他の福音書で書かれているように、ゲツセマネの祈りのように、主イエスは血のような汗を流して、祈られたのではないでしょうか。十字架とは別の道が今目の前に見せられていることは誘惑だったでしょう。

主イエスだけでなく、弟子達も群衆から遠ざかりました。人々が主イエスを探し求めている間、弟子達は群衆から離れ、湖に降りていき、船に乗り込んで向こう岸のカファルナウムに行こうとします。

日が沈んで暗くなっても、主イエスは弟子達と合流できていませんでした。仕方ないので弟子達は主イエスが山から下りて来られるのを待たずに、自分たちだけでカファルナウムへとこぎ進んでいきます。

夜の闇の中弟子達の漕ぐ舟は嵐に揺られていました。ガリラヤ湖は山に囲まれていて、夕方には強風が吹く地形になっているそうです。嵐の中、船を5,6キロメートル進めたところで、弟子達は主イエスの姿を見ました。湖の水の上を歩き、自分たちに近づいてくる姿でした。

弟子達は恐れましたが、主イエスが彼らに声をかけられました。

「私だ、もう恐れることはない。」

弟子達は群衆とは離れたところで、また奇跡を見せられました。キリストの弟子達は、キリストの奇跡を一番間近で見た人たちと言っていいでしょう。彼らは主イエスが5000人の人々を満腹させられたのを見、その余ったパンくずを拾いました。12の籠一杯になったパンくずを見て、弟子達は主イエスの祝福の大きさを噛みしめたでしょう。

そしてその夜、また弟子達はキリストのしるしを見せられたのです。水の上を歩かれるキリストのお姿です。

弟子達は恐れました。夜の闇の中、誰かが水の上を歩いているように見えます。怖がるのが当然です。その怖がる弟子達にキリストが何とおっしゃったか。

「私だ、もう恐れることはない。」

この言葉は大切に見たいと思います。キリストがおっしゃったこの「私だ」というのは、英語ではI am です。「私はある」とも訳せるし、「私が共にいる」とも訳せる言葉です。

モーセが神にお名前を尋ねた時に、神は「私はある。私はあるという者だ」とお答えになりました。それと同じ言葉なのです。弟子達は恐れる必要はありませんでした。それがイエス・キリストだったからです。

この世の荒波を生きる私たちの恐れをかき消す言葉、それが、イエス・キリストの

「私だ」という言葉ではないでしょうか。「私があなたとここにいる。共にいるではないか。共にいるのは私ではないか」という励ましの言葉です。

イザヤ書43章に、こういう神の言葉があります。

「あなたたちは私を知り、信じ、理解するであろう・・・わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」

私たちが心の奥底でいつも求めているのは、この神の声ではないでしょうか。

「私だ。私がここにいる。安心しなさい」

この神の声、このキリストの声さえ祈りの中で聞こえれば、私達は嵐の中にあっても安心できるのです。

私達は、普段は自分の考えで行動し、何かあれば誰かのアドバイスを求めます。「そういう時はこうすればいい」と言ってもらえれば助かります。

しかし、人の知恵や頑張りではどうしようもない時があります。この世の荒野、この世の嵐とでもいうべき、どうしようもない時です。イスラエルはエジプトを脱出しても、目の前に海があってそれ以上前に進めなくなってしまいました。同じように、私たちが生きる道が突然断たれることがあります。

その時に本当に求めるのは、人間の知恵や工夫ではありません。ただ静かに神の声を待つしかない時があるのです。祈るしかない時。 Continue reading

6月23日の礼拝案内

 次週 礼拝(6月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:14~24

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番24番、166番、503番、頌栄544番

【牧師予定】

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6月16日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:1~15

「人々が満ち足りると、自分の弟子達に言った。『無駄になるものが何も内容、余ったパンくずを集めなさい』」(6:12)

エルサレムで38年間病気で苦しんでいた人を癒された主イエスは、その日が安息日であったためにユダヤ人たちから敵意を持たれるようになりました。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」という言葉を聞いて、ユダヤ人たちは、安息日の規定を破るだけでなく、自分を神と等しい者として語る主イエスを見過ごすことはできなくなったのです。

主イエスはユダヤ人たちに御自分には神から救いと裁きの全てが任されていることを明らかにされました。そして、悲しみながらおっしゃいます。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。モーセは、私について書いているからである。モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか。」

この言葉を残して、主イエスはエルサレムを離れて行かれました。北のガリラヤへと戻り、更にガリラヤ湖の向こう岸へと渡って行かれました。御自分を迫害するユダヤ人たちと距離を置こうとされたのでしょう。

しかし、ここには「大勢の群衆が後を追った」と書かれています。主イエスが病人たちになさったしるしを見た人たちでしょう。「あの方はたくさんの病人を癒された。あの方には何かある」、そう思う人たちも多くいたのです。その人たちはエルサレムから主イエスを追い求めました。

今日私たちが読んだのは、弟子達と共に山に登って退かれた主イエスが御自分を追って来た5000人の群衆を満腹させられた、という出来事です。イエス・キリストがわずかのパンと魚で、何千人もの人たちのおなかを満たされたという奇跡は、有名で全ての福音書に記されています。特に、ヨハネ福音書では、十字架へと逮捕される前に群衆に対して行われた唯一のしるしとして描いています。

この出来事から、「永遠の命にいたる食べ物」とは何か、という議論へと発展していくことになります。そして、この時主イエスを求めて来た群衆は、「私が与えるパンとは、世を活かすための私の肉のことである」というキリストの言葉を聞いて、やがて離れていくことになってしまうのです。

この世に理解されないイエス・キリストのお姿・言葉を通して、私たちは、私たちのために捧げられるキリストの血・体について考えさせられていくことになります。

さて、主イエスは群衆がご自分の方に近づいてくるのをご覧になります。普通だったら、「こんなにたくさんの人たちが自分を追って来たが、どうしようか」と焦るのではないでしょうか。しかし主イエスは、焦っていらっしゃいません。

この場面で見過ごしてならないのは、ヨハネ福音書がこの奇跡を、「過越祭の時期に」「山の上」で行われた出来事として描いている、ということです。出エジプト記を見ると、神が荒野のシナイ山の上で、御自分を求めて登って来たモーセに、律法の言葉・命の言葉をお与えになったことが書かれています。山の上で群衆を迎えられた主イエスのお姿は、シナイ山の上でイスラエルを迎え入れられた神のお姿と重なるのです。

群衆が山に登って来たのをご覧になって、主イエスは傍らにいたフィリポに質問をされました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。主イエスは「フィリポを試された」、と書かれています。

黙って御自分1人だけで5000人の人たちの空腹を満たす、ということだって当然お出来になったでしょう。しかし主イエスは御自分の弟子にお尋ねになるのです。。

「どうすればいいと思うか」

フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。200デナリオンとあるが、これは200日分の賃金に相当するお金だ。6ヶ月から7ヶ月分の給与に相当する。かなりの額のお金だが、5000人にパンを配るとなると、全く足りません。つまり、「今の自分たちの手持ちのお金ではどうしようもありません」、と答えたのです。

主イエスは以前サマリアで「私にはあなた方の知らない食べ物がある」と弟子達におっしゃったことがあります。弟子達はその言葉を覚えていたでしょうか。フィリポは主イエスの旅の初めから従って来た弟子です。ここまでいろんな主イエスの奇跡を見て来たはずです。しかし、まだ、「私たちには何もありませんが、ここにあなたがいらっしゃいます」と言うことはできませんでした。「お金はありますが、5000人相手では無理です」と答えるしかなかったのです。

次に弟子のアンデレが少年を主イエスのもとに連れて来て、言いました。

「ここに大麦のパン五つと魚に引き取を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」

「大麦のパン」というのは貧しい人の食べ物でした。小麦のパンの値段の1/3の値段でした(ヨハネ黙示録 6章6節)。ここで書かれている「二匹の魚」というのは小さな干し魚、もしくは漬物の魚のことです。

この少年が持っていた食事は、とても小さく貧しいものでした。ヨハネ福音書だけ、このように、二匹の魚と五つのパンが、貧しい食料だったことを具体的に記録しています。

フィリポも、アンデレも、自分たちの手元に何があるのかを数えました。しかし5000人のお腹を満たすためには無力だということを痛感していたのです。

主イエスは弟子達の言葉をお聞きになってから、やって来た5000人の群衆を座らせられました。そして大麦のパンと二匹の魚を手に取り、「感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に欲しいだけ分け与えられた」と書かれています。

群衆は、奇跡を体験しました。「欲しい分だけ与えられた」というのです。キリストに救いを求める人たちが体験する祝福の奇跡がここにあります。群衆は驚いでしょう。

しかし、それ以上に、本当の意味でこの奇跡の大きさを体験したのは、弟子達だったのではないでしょうか。自分たちの手元に何がどれだけあるか、を弟子達は知っていました。5000人もの人たちを満腹させることなど考えられなかったはずです。

「自分たちが知らない食べ物がある」と主イエスがおっしゃった言葉を、弟子達はこのように、キリストに従う中で少しずつ見せられていった。

これは、教会の体験です。教会はキリストに従う中でこのようなことを体験するのです。自分たちの群れに何が足りないかを考えた時、いくらでも足りないものを数えることが出来るでしょう。

しかし、キリストは「主よ、あれがありません、これも足りません」と言う私たちの焦りを聞きながら、救いの奇跡を行われるのです。私たちは「私には、あなたたちが知らないものがある」という声を聞かされていくのです。足りないものばかり数える私たちに、キリストが共にいてくださっている、という一番大切な祝福を見せてくださるのです。

主イエスは、弟子達に一つの役割を最後にお与えになりました。

「少しも無駄にならないように残ったパンのクズを集めなさい」

弟子達は自分たちの手元にあった食事がどんなに貧しく小さいものであるかを知っていました。それなのに、5000人の人たちのお腹を足して、有り余った分があった、というのです。パンくずを集めながら、キリストがくださる祝福の大きさに打たれていたのではないでしょうか。

主イエスは小さな貧しい食事を大きな祝福へと変えられました。私達の手元にあるものは、小さなものです。教会は貧しいのです。教会は弱いのです。しかし、小さなパン屑ほどの祈りがあれば、キリストはそれを大きな祝福へと変えてくださいます。教会はそれを見せられる。それが教会の強さです。

そしてその祝福は、さらにまたちいさなパン屑を生み出し、それが新しい人への祝福となって行きます。私達はそのような聖霊による祝福の循環の中を生かされていることを知るのです。

キリストは、たとえそれが少しであっても、祝福が無駄になることを惜しまれます。それはつまり、ご自分から離れている全ての人をそれだけ惜しまれている、ということです。

この後6章39節で主イエスは、こうおっしゃっている。

「私をお遣わしになった方のみ心とは私に与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」

誰一人失いたくないという神の御心がこのキリストの言葉に表れています。ヨハネ福音書のこの5000人の給食と呼ばれる出来事は表面を読んだだけではなかなかわからない隠された意味があります。弟子達はこの山の上で、主イエスが「あなた方の知らない食べ物」とおっしゃったものを見ました。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」 Continue reading

6月16日の礼拝案内

 次週 礼拝(6月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:1~15

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番、23番、123番、222番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月9日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:39~47

「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか」(5:47)

ベトザタの池で38年間寝たきりだった人を主イエスが安息日に癒された、ということから始まる、ユダヤ人たちと主イエスの間に交わされた議論を読んでいます。それが安息日でなければ、奇跡を行って歩けなかった人を起こされた主イエスは人々から賞賛を受けたのではないでしょうか。

そもそも主イエスはなぜ安息日に癒しの奇跡を行われたのでしょうか。日を改めて癒しを行えば、こんな面倒に巻き込まれずに済んだのです。考えられるのは、主イエスがむしろ安息日をお選びになって癒しの奇跡を行われた、ということです。「何の仕事もしてはならない」と律法で言われている安息日をあえてお選びになって、癒しの奇跡を行い、癒された人に向かって「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったのではないでしょうか。

マルコ福音書3章にも、これとよく似た出来事が記録されています。主イエスが安息日に会堂にお入りになった時に、片手の萎えた人がいました。主イエスはその人を会堂の真ん中に立たせて、人々に質問されました。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」

黙り込む人々をご覧になってから、主イエスはその人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃって、癒されました。普通であれば、「この人は良いことをした」と言われるところでしょう。しかしその場にいたファリサイ派の人たちは、イエスを殺そうと相談し始めた、と書かれています。

それほど当時の人々は「安息日には仕事をしてはならない」ということを徹底していました。しかし考えてみると、安息日とは「善を行い、命を救う」ということすら許されていない日なのでしょうか。福音書を見ると、主イエスは「安息日とは何か。安息日の主は誰か。安息日とは何のためにあるのか」ということを人々に問いかけていらっしゃいます。

ユダヤ人たちは、主イエスに向かって「あなたがしたことは安息日の規定に違反している」と言いました。それに対して主イエスは「私は天の父から救いも裁きも任されている」とおっしゃっています。言い方を変えると、「安息日は私のためにあり、救いも裁きも、いつ行うかは私が決める」ということでしょう。

私たちはどうやって、主イエスとユダヤ人たちのどちらの主張が正しいのかを判断すればいいのでしょうか。人々は、主イエスが「自分は神から全ての権能を授かっている」とおっしゃったところで信じなかったでしょう。それを聞かされた人たちにすれば、それは自己主張にしか過ぎません。

では、主イエスがおっしゃっていることが真実であると誰が証明してくれるのでしょうか。今日読んだところで主イエスがおっしゃっているのは、聖書であり、モーセの掟そのものでした。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをする者だ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか」

どちらも主イエスの悲しみが満ちている言葉です。「聖書を読んでいるのに、モーセの掟を大切にしているのに、私のことが見えないのか」、という嘆きです。

だから主イエスはおっしゃるのです。

「あなたたちの内には神への愛がないことを、私は知っている。私は父の名によって来たのに、あなたたちは私を受け入れない」

ユダヤ人たちにとって最も大切なものは、モーセの律法でした。私たちは、主イエスが安息日に人を癒されたということをどう見ればいいのでしょうか。

十戒の中で神はこうおっしゃっています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」

仕事の手を止めて、神に心を向ける日として安息日が与えられています。私達が考えなければならないのは、「いかなる仕事もしてはならない」というのは、「人を癒してはならない」、ということでもあるのか、ということです。

七日目を「聖別しなさい」、というのは、特別に他の六日とは「区別しなさい」、ということです。自分のためではなく神のために自分を時間を使う日です。それでは、主イエスが病の人を癒されたことは、「神に心を向けていない」、ということなのでしょうか。

このように考えて行くと、聖書の言葉の読み方ということに慎重であらなければならないと思わされます。確かに、ユダヤ人たちは、聖書の研究に熱心でした。しかし、主イエスからすれば、細かい掟の分析や実践に偏ってしまい、聖書全体が伝えようとしている大事な点を彼らは見失っていたのです。

聖書は何のための言葉なのでしょうか。聖書の全ての言葉は、神の元へと人々を導くためのものです。そして、神の元へと導いてくださるメシアに目を指し示す言葉です。

たとえ聖書を熱心に読んでいたとしても、神の御心とは違うものに心が向いていてしまいメシアを見ることができなくなってしまっていたとすれば、それは「ただ聖書の研究をしただけ」、ということになってしまいます。

イエス・キリストに出会い、キリストと対話をし、キリストと共に生きるという道へと向かわないのであれば、それは本当に「聖書の言葉を読んだ」ということにならないでしょう。

主イエスのことを非難するユダヤ人たちの中に、主イエスの御業の中に神の愛を見いだすという視点はありませんでした。「安息日に神が誰かの癒しをお求めになった」、とは見ずに、「イエスは安息日の規定をやぶった」、という見方をしてしまっています。

さて、私たちの聖書の読み方はどうでしょうか。何を求めて 聖書を読んでいるのでしょうか。人に褒められることでしょうか。

主イエスは41節で「人間からの誉れは受けない」とおっしゃっています。人々から賞賛を得るために病を癒されたのではありませんでした。普段「人からの誉れ」を欲している私たちには、耳に痛い言葉ではないでしょうか。

たくさんの支持者がいる、ということが一つの正しさの基準となることがあります。1世紀にはたくさんの「自分こそメシアだ」と主張する人たちがいてその周りには支持者たちもいました。そういう人間による称賛を受けた人たちのことをユダヤ人たちは受け入れていたのです。誰かが人から尊敬を受けている、人から支持されている、ということを聞くと、その人はきっと正しいに違いないとすぐに考えてしまうのが人間です。

「神を愛し、隣人を愛すること。これに勝る掟はない」とイエス・キリストはおっしゃいました。全ての律法はこの二つの掟にかかっている、と主は示されます。もし我々が聖書の言葉、律法の言葉を読んで、神への愛、隣人への愛を深めることが出来なければ、また自分の愛の薄さに気づくことがなければ、本当には聖書を読んだ、ということにはならないでしょう。

ユダヤ人たちは、聖書の言葉に対して確かに真剣でした。しかしその真剣さゆえに、本質を見失うほど律法の細かな解釈に引きずられてしまっていました。安息日に、一人の人が神の子と出会い、その人を癒された、という奇跡の御業の中に、神の愛と隣人を思う愛を見出せていません。

神は、御自分への愛、隣人への愛を私たちにお求めになっています。そのために、御自分の言葉を聖書という形で残してくださっているのです。

ここでのユダヤ人たちの姿を見て思わされるのは、ただ神の栄光のみを求めて聖書を読むということは難しい、ということです。聖書の言葉を「あの人は信仰者らしくない」と裁くための道具にしてしまっているとしたらどうでしょうか。聖書を読んで、「自分は模範的なクリスチャンではない」と自分を責める道具にしてしまってはいないでしょうか。そんな読み方をするのでは、聖書が持っている言葉の価値を下げてしまいます。そうではなくて、もっと単純に、聖書はただ神を愛し、隣人を愛するための言葉である、ということを忘れてはならないのです。

主イエスは モーセの律法を犯したということで非難されました。しかし実際にはどうだったのでしょうか。十戒では、安息日には仕事の手を休めて神のもとに集い礼拝せよ、と言われています。つまり、聖書は「安息日にどなたのもとに行って癒しを受ければいいのか・罪の許しを受ければいいのか」ということを示しているのです。つまりイエスキリストのもとに集うことを人々に求めています。

ベトザタの池で主イエスに癒された人は38年間患っていました。これは出エジプトの荒野の年月と重なります。

ベトザタにはそこには5つの回廊がありました。これはモーセ5書、つまり律法の書の数と重なります。

ヨハネ福音書は、ベトザタの池でキリストが行われた癒しの奇跡を、新しい出エジプトとして象徴的に描き出しているのです。

聖書のこの場面を読んで、出エジプトを思い返して、人はどなたの下に集い、どなたの支配の内に生きればいいのか、ということを見出していかなければならないのです。それは、イエス・キリストです。確かな救いが、この方の下にあります。 Continue reading

6月9日の礼拝案内

次週 礼拝(6月9日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:39~47

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番、22番、390番、239番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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6月2日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:30~40

「あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」(5:40)

ヨハネ福音書は、「この世を救いに来られた神の子が、この世の人々に裁かれ、有罪とされ十字架で殺された」、ということを証言しています。福音書の一番初めの書き出しで、この福音書を通して描かれていく悲劇の結末を既に述べているのです。「神の言葉であり、神ご自身であられる方が世を照らす光として来られた」、「しかし、世は光を理解しなかった」、という、イエス・キリストの十字架の死を暗示します。

ユダヤ人の祭りに参加するためにエルサレムに上って来られて主イエスは、38年間病であった人を癒されました。安息日に癒しを行い、「床を担いで歩きなさい」と御命じになったことで、エルサレムのユダヤ人たちは、「安息日にしてはならないことを命じた人」「律法を守ろうとしない人」「神と自分を同等に考えている危険人物」と見るようになりました。

これがきっかけになり、この後何章にも渡ってユダヤ人たちは、「このイエスという人が一体何者であるのか」「このイエスという人が言っていることが本当なのかどうか」を議論していくことになります。そしてイエス・キリストの十字架に向かって、人々の裁きがここから始まっていくことになるのです。

ユダヤ人たちの非難の目に対して、主イエスは、「御自分の業は神から託された業であり、御自分には神から裁きも託されている」とお伝えになります。命を与えること、裁くことを、神の権威をもって行っていらっしゃる、そしてそれは今だけでなく将来においてもご自分が担う、とおっしゃいます。

主イエスの十字架と復活を知り、この方がキリストであると信じる我々にとっては、この主イエスの言葉は希望です。神がこの世で癒しの御業を行ってくださって、そして全ての人を神の元へと招いてくださっているということをキリストの姿を通して私達は示されているからです。

しかし、まだ主イエスの十字架も復活も知らない人たちにとってはどうだったでしょうか。自分の目の前に立っている人が神であるかどうかを判断することは難しかったでしょう。

癒しの奇跡が行われただけならよかったのです。それが「何の仕事もしてはならない安息日」であり、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と命じたことで、議論が複雑になっていくことになりました。

ヨハネ福音書を読み進めていく私たちは、聖書から問われることになります。本当の意味で本当に裁きの場に引き出されているのは、誰なのでしょうか。主イエスが人間によって裁かれているのでしょうか。そうではなくて、本当は、神の子イエス・キリストを裁こうとする人間は裁かれることになるのではないでしょうか。

使徒言行録を見ると、主イエスの十字架と復活の後、ペトロが聖霊に満たされてエルサレムの人々にこう告げています。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主として、またメシアとなさったのです」

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私達はどうしたらよいのですか』と言った」と書かれています。

エルサレムで主イエスを非難したユダヤ人たちは、自分たちが話しているのが誰なのか、まだわかっていませんでした。今日読んだところで、主イエスは「私は人間による証しは受けない」とおっしゃっています。

確かに、使徒言行録を読むと、主イエスのことをメシアであると証ししたのは、聖霊でした。人間の言葉を超えた聖霊の力が働き、人々がキリストを信じるようにされていったことが書かれています。

主イエスがわずかに、御自分のことを証言する人としてお認めになっていたのは、洗礼者ヨハネだけでした。

35節「洗礼者ヨハネは、燃えて輝く灯であった」

洗礼者ヨハネは主イエスを見て、「見よ、神の子羊だ」と弟子達に言いました。しかし、ヨハネの言葉を聞いても、一体どれだけの人がその言葉を信じ、主イエスに従ったでしょうか。イエス・キリストにとっては洗礼者ヨハネの証言すら、灯のような、ろうそくの火のような小さなものでした。

主イエスはおっしゃる。

「私にはヨハネの証に勝る証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をおつかわしになったことを証ししている」

キリストがベトザタの池で病人を癒されたこと、その人に安息日であっても「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったこと。そのすべてが、本当は主イエスこそ神から遣わされた方であり、神の子メシアであるということの証拠なのです。主イエスが誰かからご自分がメシアであることを証言してもらう必要はありませんでした。既に、御自分の御業とみ言葉が、メシアであることの証拠となっていたからです。

人間は、メシアの業・メシアの言葉の前でそのまま問われることになります。逆の言い方をすれば、人間の知恵だけで誰かを説得してイエスこそメシアであると証明していくことは出来ません。キリストとの霊的な出会いによって、人は信仰へと誘われていくのです。

私達自身、そうではなかったでしょうか。説得されて、聖書の知識を増やして信じるようになった、ということではなかったでしょう。自分にしかわからない仕方でキリストが出会ってくださり、不思議な仕方で教会へと導かれていったのではないでしょうか。

なぜキリストを信じていなかった自分がキリストを信じるようになったのかを思い返すと、何かの飛躍があったはずです。説明できない飛躍です。何かしらの奇跡を見せられた、何かしらの神秘を体験した、そういうことから信じるという歩みが始まっていったのではないでしょうか。

今日読んだところの最後で、主イエスは、御自分を批判するユダヤ人たちにおっしゃっています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」

この言葉の中には、イエス・キリストの悲しみが満ちています。ここで言われている「聖書」というのは、今私たちが「旧約聖書」として読んでいるものです。ユダヤ人たちは、永遠の命を求めて一所懸命聖書を研究していたことを主イエスご自身、お認めになっています。

神が預言してこられたように、やがて来るであろうメシアを彼らは待っていました。その彼らが、今、キリストという永遠の命を目の前にしているのに、気づいていないのです。

ユダヤ人たちには既に、メシアに関する知識は持っていました。しかし、実際にメシアが目の前に現れても、気づかなかったのです。主イエスの業を見、主イエスの言葉を聞いても、「この方こそ聖書がその到来を伝えて来た神の子・メシアである」と信じることが出来ませんでした。

彼らは、旧約聖書で預言者の言葉を実際に聞いても信じて従おうとしなかったイスラエルと同じです。神は一体これまで何人の預言者を世に遣わしてこられたでしょうか。しかし人々は聞きませんでした。その過ちを繰り返してはいけない、とイスラエルの民は後世に聖書の言葉を残しました。自分たちの不信仰の歴史と、不信仰が自分たちにどのような滅びをもたらすことになったのかを記録したのです。

しかし、今、イエス・キリストの前にいる人たちは、預言者の言葉を聞こうとしなかったイスラエルの過ちを繰り返しています。主イエスの言葉を聞いても、奇跡を見ても、その中に神の子メシアとしての姿を見出すことが出来ていません。

だから、キリストは深い悲しみをもって、「聖書は私のことを証ししているのに、誰も私のもとに来ようとしない」と嘆いていらっしゃるのです。「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がおつかわしになった物を、あなたたちは信じないからである」。

さて、私たちは改めてここでよく考えてみたいと思います。ユダヤ人たちの間で、主イエスに対する殺意が生まれていきました。神と自分を対等に考えている、また安息日の規定を重んじていないイエスという人物を彼らは危険視しました。ここから主イエスが何者であるかを聞き出そうとし、試そうとします。最後には主イエスのことを裁判にかけ、十字架に上げて殺すことになります。

繰り返しますが、本当に裁きの場に出されているのは誰なのでしょうか。安息日に仕事をしたイエスが裁かれているのでしょうか。それとも、神の子を殺そうとしている人間が裁きの場に置かれているのでしょうか。

主イエスはおっしゃいます。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」

この世で真の裁きを行うのは、イエス・キリストお一人です。その全権を神ご自身から委ねられているからです。

後にイエス・キリストがローマ総督ポンテオ・ピラトと向き合われた時、二人はこんな言葉を交わしています。ピラトが主イエスに言います。

「お前はどこから来たのか。私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」 Continue reading