MIYAKEJIMA CHURCH

6月2日の礼拝案内

次週 礼拝(6月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:31~40

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番、21番、68番、252番、頌栄544番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月26日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:19~30

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声と聴く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5:25)

ユダヤ人たちがナザレのイエスに対する敵意を抱くようになり、その敵意が殺意へと深まっていった、という場面を読んでいます。安息日であったにも関わらず癒しを行い、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と告げたイエスのことを、ユダヤ人たちは律法の言葉に反する危険人物として見るようになりました。安息日は、仕事の手を休めて神を礼拝すべき聖なる時であるはずなのです。

そのユダヤ人たちに対して、主イエスは「私の父は安息日も働いていらっしゃる」とおっしゃいました。その言葉が更にユダヤ人たちの敵意を深めることになりました。自分が神と同等の権威を持っているように振舞い、まるで自分が神であるかのようなものの言い方をしたからです。

今日私達が読んだのは、主イエスがはっきりと御自分と神との関係を語られた場面です。この福音書の中で最も明瞭にキリストがご自身と神との関係を語られた言葉ではないかと思います。

何の権威で神殿から商人を追い出すようなことをされたのか、なぜニコデモやサマリア人の女性に、あんなにもはっきりと永遠の命について語ることがおできになったのか・・・この主イエスの言葉を読めばわかります。

御自分が何者であるか、御自分の権威の源がどこにあるのか、ということをお話しなさっています。それだけでなく、この世でなさっている御業の意味、またこの世の終わりに何が待っているのか、ということまで明らかになさっています。

私達は、このキリストの言葉を通して、キリストと共に生きる自分たちの今がどこに向かっているのか、何に向かっているのか、キリストが今を生きる私たちに何を約束してくださっているのか、ということを知るのです。改めて、世の終わりから、自分たちが生きている今という時を見つめなおしていきたいと思います。

キリストはガリラヤで、王の役人の息子を癒されました。続けて、エルサレムのベトザタの池では病人を癒されました。キリストの癒しは、ただ御自分が持つ奇跡の力を見せびらかすためのものではありませんでした。ただ、人として良いことをした、というだけのことでもありませんでした。

キリストが誰かを癒されたその癒しには、癒された人にとってだけでなく、この世の全ての人にとって大きな意味があったのです。旧約聖書を見ると、神から力を託された預言者たちが、誰かを癒したり命を与えたりしています。預言者が行う、ということは、神が行われる、ということでした。

預言者サムエルの母ハンナが祈りの中でこう言っている。

「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」サムエル記上 2:6

我々人間の命、人間の存在はまるごと神の御手の内に置かれている、という信仰が祈られています。人は命の作ってくださった創造主の御手の内にあることを歌っています。

キリストはユダヤ人たちにおっしゃいました。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」

「神がそうなさるように、私もそうする」、という言い方です。キリストが誰かを癒されたということは、神がその人を癒された、ということなのです。そしてそのことは、神が愛を持ってこの世に御手を伸ばしていらっしゃる、ということを世に示す大きなメッセージでした。

主イエスは25節で、人々が目撃した奇跡の意味をお教えになっています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聴いたものは生きる」

主イエスが誰かを癒された、ということは、「来ると言われていた時が来た」ということなのです。

主イエスは最初のしるしを行われたカナの婚礼で、「私の時」という言葉をつかわれました。母マリアが「婚礼の葡萄酒が無くなりました」と言ってきた時、「私の時はまだ来ていません」とおっしゃっています。

イエス・キリストの時とはいつのことなのでしょうか。その「時」を見極めることが、私たちの信仰の中で大切なことであるようです。

主イエスはサマリア人の女性に、おっしゃいました。

「婦人よ、私を信じなさい。あなた方がこの山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る・・・今がその時である」

主イエスは「霊と真理をもって礼拝する時」が来た、とおっしゃいました。そしてその「霊と真理をもって礼拝する時」は、主イエスご自身の十字架という罪の許しの御業によってもたらされることになるのです。

キリストが行われる奇跡を通して私たちは何が見せられているのでしょうか。「真の礼拝の時が迫っている」、ということだ。一つ一つの奇跡の御業が、十字架への秒読みとなり、伏線となっているのです。

聖書はただ、「この人には不思議な力があったのだ」ということを伝えているのではありません。私たちが生きている「時」がどういう時なのかを伝えようとしているのです。そして今、私たちは真の礼拝の時が来た時代を生きている、ということを知るのです。

聖書を読みながら、私達自身、キリストの御業に何を見出しているでしょうか。

「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」19節

この言葉を聞くと、主イエスは無力な方のように思えます。しかしそうではありません。ご自身がなさることは、全て神の御業であるということを示されているのです。ヨハネ福音書の中で、主イエスは神のことを100回以上「父」と呼ばれています。そしてご自身のことを「子」という言葉で約50回おっしゃっています。

イエス・キリストと神の関係は同一なのです。私たちはイエス・キリストの言葉を神の言葉として聞き、キリストの御業に神の働きを見ます。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」21節

命をつかさどる神が、世に来られました。それが、イエス・キリストです。キリストは神として、復活の命、永遠の命へと世の全ての人を招こうとなさっています。「時」は来ています。復活という神秘は、現実に起こることであり、私たちが生きる今はそこに向かって生きている今であることを聖書は証ししているのです。

キリストは救いを求める人に、必要な時と必要な場所を備えて出会い、救いの言葉をくださいます。王の役人の祈りに、ベトザタの池で救いを求める人の訴えに、キリストは寄り添われました。

もし我々がキリストに救いを求めていなかったとしたらどうでしょうか。キリストを拒絶するということは、キリストを世にお遣わしになった神を退けるということでもあるのです。

この世の終わりに起こることは神秘です。聖書を読むと、今の私たちにとっては、「本当にこんなことが起こるのだろうか」と不思議に思うような、世の終わりの様子が描かれています。今まで誰も見たことのない光景が記されています。

聖書が「世の終わりにはこうなる」と示していることについては、我々は信じるか信じないか、どちらかしかありません。

私たち今地上に生きる人間の一番の憂いは、死ぬ、ということです。そして、「死ぬ」ということは全ての終わりなのかどうか、ということです。自分が死んだら、その後はどうなるのか。自分は、家族は、どうなるのか。愛する人とのつながりはどうなってしまうのか。聖書はその我々の憂いに答えてくれています。

使徒パウロはこう言っている。

「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと。また、聖書に書いてある通り3日目に復活したこと、ケファに現れその後、12人に現れたことです」1コリ15章

パウロは、キリストに起こった受難、復活を「聖書に書いてある通りに」起こったことだ、と繰り返して強調しています。それは、神のご計画でした。長い歴史の中で神は人間を取り戻そうと招きを続けて来られました。それは神が預言者を通して語られ、その言葉が聖書として残されて、今も私たちに伝えられている、とパウロは言います。私たちの信仰は、私たちの命は、肉体の死で終わるものではありません。それも神のご計画です。 Continue reading

5月26日の礼拝案内

次週 礼拝(5月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:19~30

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番20番、196番、498番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~18

「もう、罪を犯してはいけない」

今日はペンテコステ礼拝です。キリストが天に昇って行かれ、地上に残された信仰者の群れの祈りの上に聖霊が注がれました。キリストの十字架を見てから隠れていた人たちが聖霊の注ぎによって、地の果てに至るまでキリストを証言する者として召されることになりました。聖霊の働きは今に至るまで続き、キリスト教会が立ち続け、キリストを求める人が新たに起こされています。

不思議ではないでしょうか。私たちが誰かに教会に来るようにと説得して回っているわけではありません。むしろ、私たちが思ってもみなかったところから、聖霊に招かれた人が教会へとやってくるのです。ペンテコステの今日、特にその聖霊の導きの不思議を覚えたいと思います。

今日私達は、主イエスによる癒しと、その後に問題が起こったことを読みました。主イエスはガリラヤのカナから、ユダヤ人の祭りに参加するために、エルサレムへと上って来られました。そしてベトザタの池と呼ばれる水のほとりで、孤独の絶望の中で癒しを求めていた人を癒されました。

その病人にとっては、「ただ癒された」、というだけでなく、キリストに見出された、という救いの出来事でした。救いを求める人、祈り続ける人のところに、救い主は時を選んで訪れてくださいます。そして、信仰者の祈りと救い主が出会う時、人の思いを超えた奇跡が起こるのです。私達はその不思議を聖書から教えられます。

その癒しの出来事の後に何が起こったのでしょうか。1人の人がキリストに見出され、癒されたことを、ヨハネ福音書は単なる「美しい救いの出来事」として描いているわけではありません。この癒しの業によって、ユダヤ人たちの中に主イエスに対する殺意が生まれることになった、ということが書かれているのです。

誰かの病を癒すことでなぜ殺意を抱かれるようになるのでしょうか。感謝されたり、更に救いを求められたりしたというのであればわかります。しかしどうして、誰かを助けることによって殺意を抱かれてしまうのでしょうか。

人間が聖書の言葉・神の御心を歪んで理解してしまうと、神の言葉であるイエス・キリストの救いの御業の意味も、いびつにゆがめられてしまうのです。その聖書への思いが熱心であればあるほど、ゆがんでしまいます。そのことが、ここに現れています。

その日はユダヤ人の祭りであっただけでなく 安息日でもありました。神殿とその周辺にはたくさんのユダヤ人がいたでしょう。

キリストは安息日に38年間寝たきりだった人を癒され、こうお命じになります。

「起きなさい。あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩くのだ」

癒されたその人は、キリストに命じられた通り、自分が今まで身を横たえていた「寝床を担いで」歩きました。ユダヤ人の祭りの最中であり安息日であったので、周りには多くのユダヤ人がいました。「安息日に寝床を担ぐことは許されていない」と周りにいたユダヤ人たちから問題視されてしまいます。この「ユダヤ人」というのは、特に、ユダヤ人の指導者たちです。

これは以前主イエスが神殿で大暴れされた時に、「あなたは何の権威でこんなことをしたのか」と聞いて来た人たちでした。彼らは律法の言葉に関すること・神殿に関することに敏感でした。当時、聖書の律法に書かれている掟を遵守することはユダヤ人にとって生きることそのものだったのです。律法の掟を守って生きるということが、神の恵みの支配に留まる生き方でした。律法から逸れてしまうと、それは、神の支配の外に出てしまう、ということを意味しました。

ユダヤ人たちは、床を担いだ人を見て、「それは安息日にしてはならないことだ」と言っています。安息日の由来は創世記の初めに記されている通りです。神は世界をお創りになり、創造の御業を終えられてから手を止めてその世界を覧になりました。だから被造物である我々人間も、神がなさったように、働く手を止めてこの世界を見るのです。そうやって、創造主への思いを、また創造主に愛されている被造物である自分たちへの思いを深めるのです。それが 安息日です。

安息日は、人が仕事の手を止めて、世界を、また自分を見つめ、創造主へと思いをはせる礼拝の時となりました。

確かに、安息日は大切なものでしょう。問題は、それでは何が「仕事」とされるのかということです。神へと思いを向けることの妨げになる「仕事」とは何なのでしょうか。主イエスがなさった癒しは、神の礼拝を邪魔する「仕事」だったのでしょうか。神の御心にそぐわない「仕事」だったのでしょうか。

安息日に「床を担ぐ」ことは、「神に心を向けていないことだ」、と周りにいたユダヤ人たちは考えました。彼らはこの人が癒されたという救いの御業ではなく、安息日に床を担いではいけない、ということの方に心を向けました。

私たちはこれをどう見るでしょうか。

主イエスに癒された人はユダヤ人たちに答えました。

「私を癒してくださった方が床を担いで歩きなさいと言われたのです」

それを聞いたユダヤ人たちは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と聞きます。主イエスに癒された人自身、自分を癒してくださった方が一体誰なのか、まだわかっていませんでした。

主イエスは、御自分の奇跡の力を人々に見せびらかすようなことはなさっていません。御自分の力を誇示して注目を集めて人々を信仰へと導くようなことはなさっていないのです。むしろ、神の救いを求めている人を探し出し、その場にいた人、周りにいた人たちに気づかれないように、人々の間に紛れて救いの御業を行っていらっしゃいます。

聖書には、「病気を癒していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」と書かれています。癒された本人でさえも、その方がイエスという方であることすら知らなかったのです。互いの自己紹介すらすることなく分かれたようです。

私たち自身、キリストとの出会いを思い返すとこのようなものだったのではないでしょうか。自分とキリストとの出会いを振り返ると、キリストは本当に時を選んで自分の前に来てくださった、と思い起こすことが出来るでしょう。聖書を読んでいきなり信じた、教会に行ってすぐに信じた、という人はほとんどいないでしょう。

不思議な仕方で自分はここまで導かれてきた、それはあの時から始まっていた・・・あれが、キリストが自分の思いを知って迎えに来てくださった瞬間だった・・・と思い出すのではないでしょうか。そしてキリストは離れてしまいそうになる自分をその後も、何度も迎えに来てくださった、と思い返すのではないでしょうか。

キリストとの出会いは一つの点で終わることはありません。キリストは私達を探し求め続けてくださいます。出会ってくださり、癒してくださり、道を示してくださり、そしてその道を私たちの肉体の死を超えて共に歩んでくださいます。

この後、主イエスは御自分が癒された人に神殿で会われました。癒された人が見つけたのではなく、主イエスがまたこの人に出会われた、という書き方がされています。

キリストは、神殿の境内でこの人にもう一度出会われておっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

なぜ主イエスはこの人に「もう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのでしょうか。どういう意味なのでしょうか。この「もう罪を犯してはならない」というのは、「私に出会う前の古い自分に戻ってはならない」ということでしょう。「あの池のそばで、自分を素通りする人たちの背中を見て痛みを覚えていた、あの時の自分に、私に出会う前の自分に戻ってはならない。そのために私につながっていなさい」ということです。

一度私たちに出会ってくださったキリストは何度も、「私につながっていなさい。私から離れてはいけない。罪を犯してはいけない」と言い続けてくださいます。今に至るまで聖霊を通してキリストが我々に語りかけてくださっているのは、これなのです。

この一言が、この癒された人を変えました。この人は、このキリストの一言を聞いて、自分の身に起こった癒しは、罪の癒しであり、神との関係の回復であることだったと悟りました。そしてこの人は変わったのです。

15節「この人は立ち去って、自分を健やかにしたのはイエスだとユダヤ人たちに告げた。」

この人は、自分の体と罪を癒してくださった方をユダヤ人たちに証しました。イエスという方を積極的に人々に伝え始めたのです。

それまでは、ただ癒された人でした。それが、キリストに言葉をいただき、道を示されたことで、自分が次になすべきことを知ったのです。自分に出会い、癒し、救ってくださったのは、あの方だ、と証言しはじめました。

キリストに出会った人の次の一歩は、自分で決めた一歩ではありません。

詩編37:23 Continue reading

5月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~9

「よくなりたいか」

主イエスがガリラヤのカナに行かれた時、ある役人が自分の息子を癒してほしいと訴えて来ました。彼は、王の役人でありながら、ナザレのイエスに向かって「主よ」と呼びかけ、救いを求めました。ヨハネ福音書は、この癒しを「二回目のしるしである」と記録しています。

続けて、主イエスはユダヤ人の祭りに加わるためにエルサレムに上られました。これが何の祭りであったのかということは書かれていませんが、この時期、エルサレムには多くの巡礼者たちがいて、たくさんの人であふれていたことでしょう。

その祭りの中で、主イエスはエルサレムのベトザタの池のほとりで38年間病気で苦しんでいた人を癒されました。しかしそれは安息日でした。仕事の手を休めるべき安息日に、誰かを癒した、ということでこの後主イエスとユダヤ人たちの間で議論になります。

私達は今日読んだキリストによる癒しの出来事を通して、安息日とは何か、また安息日にしるしを行われたこのイエスという方は何者なのか、ということを見せられていくことになります。ただ、「キリストによって誰かが癒されてよかった」、というだけでは終わりません。

この癒しの出来事には、いろんな象徴的な意味が含まれています。ヨハネ福音書は、

「5つの回廊があった」ベトザタの池で、「38年間」病に苦しんでいた人がキリストによって救われた、ということを通して何か象徴的なものを見せようとしています。

ベトザタの池の近くにあった5つの回廊は、モーセ五書、律法の象徴と考えられます。

池のほとりに横たわっていた人の病気の年数は38年間でした。荒野をさまよったイスラエルの年数と重なります。モーセは出エジプトしたイスラエルに語りかけている。

「我々はゼレド川を渡ったが、カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで38年かかった」(申命記2:13)

この病に苦しんでいた人は、神の言葉である律法が与えられていながら荒野の苦しみを感じていたイスラエルの象徴のような人なのです。

出エジプトをしたイスラエルは荒野を歩き続けました。神の律法をいただいて神に導かれ、神に養われていたにも関わらず、荒野の苦しみを感じ続けました。なぜでしょうか。私達は、キリストが出会われたこの病の人に、救いを求め荒野をさまよう人の痛みを見ることができるのだ。

それは過去のイスラエルだけではなく、今の私たちの痛みでもあります。

キリストは寝たきりになっている人をごらんになって「あなたは健やかになりたいのか、良くなりたいのか」とお尋ねになりました。ベトザタの池に通っている、ということは、「良くなりたい」ということです。いちいちそんなことを聞かなくてもわかることだし、その人もそう聞かれたら「もちろんです」と答えるのが普通でしょう。

しかし、この人の答えは「はい、良くなりたいです」ではありませんでした。

「誰も私を助けてくれないのです。みんな私を置いて行ってしまうのです。私には助けがないのです」

病気で横たわっていたこの人が抱き続けて来た本当の苦しみは、自分が立てないということ以上に、「誰も自分を助けてくれない」という孤独でした。自分を素通りして、皆、先に池の方に降りて行ってしまうのです。この人は自分を置き去りにして進んでいく人たちの背中を見送ることが、自分が病であるということ以上の痛みに感じていたのです。

キリストがこの人に何を見出されたのかは何も書かれていません。しかし、この人の言葉を聞いてすぐにおっしゃいました。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩きなさい」

イエス・キリストは人間の心の中に何があるのかをご存じである、と福音書は記しています。キリストは この人の心の内を確かにご覧になって、何かを見出し、癒しの言葉、救いの言葉をお与えになりました。

病の人はキリストの一言によって寝床を担いで起き上がりました。なぜキリストはこの人を癒されたのでしょうか。周りには他にも、この人のように何かしらの不自由を抱えている人たち、病の人たちがいたでしょう。なぜ、この人だったのでしょうか。この人だけ、だったのでしょうか。

キリストはこの人が一番可哀そうと思われた、ということなのでしょうか。この後を読めばわかりますが、癒された人自身が、この後キリストに癒された証し人となり、証の器として用いられていくことになります。キリストはこの人を、御自分の証の器として召し出されたのです。

聖書に描かれているキリストとの出会いはそういうものです。キリストに癒されて終わり、ではなく、その人がキリストを証しするために自分の生き方が変わる様が描かれているのです。

キリストに出会った人は、キリストに救われた者として生きるようになります。

「私に出会ってくださったのはイエス・キリストです。私を癒し、立ち上がらせ、歩ませてくださっているのは、イエス・キリストです」と言って生きるようになるのです。キリスト者は、自分がキリスト者である、ということで既に、キリストの証人なのです。

マルコ福音書に、ゲラサ人の地方でレギオンという悪霊の大群に取りつかれていた人のことが書かれています。その人はキリストによってレギオンから救われた際、「一緒に行きたい」とキリストに従おうとしました。

しかしキリストは、「自分の家に帰りなさい」とおっしゃって、自分の身に起こったことを人々に伝えるようにお命じになりました。この人は、「デカポリス地方に言い広めた」と書かれています。

デカポリスというのは、「10の町々」という意味の言葉です。キリストに出会った一人の人が、10の町々への証しの器とされたのです。私達がキリストに出会う、ということは、ただ、出会った、というだけでは終わりません。自分が思ってもみないような仕方でキリストに用いられていくことが始まる、ということなのです。

さて、キリストに癒された人に焦点を当てて見たいと思います。キリストはこの人の38年間を担われました。この人の38年の苦しみは何だったのでしょうか。この人は、神の救いを求め続けて来た人でした。全てを諦めているなら、ベトザタの池に通ったりはしません。天使が下りてくるときに動く水に、いつか自分も入りたい、と願っていました。その信仰の営みがあったからこそ、キリストが来られた時、この人はそこにいたのです。

イスラエルは出エジプトの荒野の旅の最後で、その旅の意味を知らされた。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

病の38年というこの人の荒野の旅路は、イエス・キリストに出会うための38年となったのです。キリストに出会ったこの人のその後の人生は、痛みと孤独を知ったキリストの証人としての歩みへと変わりました。

マタイ福音書で、キリストは福音を聴いても悔い改めない人たちのことを嘆いて、こうおっしゃっている。

「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたはやすらぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」

洗礼を受けてキリスト者になれば、痛みや病かとは無縁になるのか、というとそうではありません。むしろ、キリスト者だからこそ、担わなければならない、キリストのための痛みというものもあります。

ベトザタの池で長年横たわり、孤独の中で他の人たちが自分の脇をすり抜けて行くのを見送るしかなかったこの人のように、私たちだって、自分よりも先を行く他の人たちの背中を眺めてうらやむ時はあるでしょう。どうやっても自分で自分を救えない時・試練の時があります。

しかし、私たちにあるのは絶望ではありません。絶望の中に差し込む光を待つ、という選択肢が我々信仰者には与えられています。疲れた時、重荷を負った時、我々はイエス・キリストのくびきを負わせていただきます。それは、自分に課せられた重荷を共にキリストが共に担っていただくということです。

自分でなんとかできるのであれば何とかすればいいでしょう。しかし、どうあがいても道が見いだせない時があります。人としての頑張りではどうにもならない時、その場にしゃがみ込むしかない時が、人にはあります。 Continue reading

5月12日の礼拝案内

 次週 礼拝(5月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:1~9

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番17番、310番、399番、頌栄543番

【牧師予定】

◇5月12日(日)~15日(水) 東京に出張(島しょ部民生委員)

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」 Continue reading

5月5日の礼拝案内

 次週 礼拝(5月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:43~54

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番16番、225番、376番、頌栄543番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:27~42

「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」

主イエスとサマリア人女性がヤコブの井戸のそばで話している間、弟子達は町に買い物に出かけていました。女性が、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」というのを聞いて、主イエスは「それは、あなたと話をしているこの私である」とおっしゃいました。

女性にとっては、時が止まったような瞬間でした。自分が今聞いた言葉をなんとか飲み下そうと、女性は口をつぐみました。今、自分の目の前にいらっしゃるこの方が、自分で自分のことを「私こそがキリストだ」とはっきり言ったのです。確かに、この方は初めて自分に合うのに、自分のことを全て知っておられました。人には隠しているようなことまで全てご存じで、心の底まで見透かしていらっしゃいました。嘘を言っているようには思えません。

サマリア人女性が驚いて主イエスのことを見つめる時間が流れました。ちょうどその時、主イエスの弟子達がそこに帰って来ました。そして、今度は弟子達が驚きました。自分たちの先生が、サマリア人女性と話しておられるのです。

あまりに驚いて、女性に向かって「何の用ですか」とか、主イエスに向かって「この人と何を話していらっしゃるんですか」と尋ねる者もいなかった、とあります。主イエスと女性が見つめあっているのを見て、何かただならぬ話をしていた、という緊張感を感じたのでしょう。

女性は、戻って来た弟子達に目をくれることもなく、向かって行きました。よほど急いでいたのでしょう。水くみに必要な大切な水瓶を忘れて行ってしまいました。私たちは、女性がどれだけこの水くみの作業を嫌っていたかを、ここまで読んで知っています。これまで5人の夫をもち、今は夫ではない男性と暮らしていた人です。町の人たちから軽蔑の目を向けられ、女性は人目を避けて、一日の一番暑い時間帯、だれも井戸に水を汲みに来ない正午に通っていたのです。はやく水くみを済ませて、井戸から離れ、すぐに家に戻りたいと思っていた人です。

その人が、大切な水瓶をその場に残して町に行ったのです。「飲めばなくなる水・飲んでもすぐに渇く水」ではなく、「永遠に尽きることのない命の水」を見出したことの証拠だろう。

そして、今まで人目を避けて生きて来た彼女が、家々を回り、「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言いました。

なんという変わりようでしょうか。キリストに出会った人は、ここまで変わるのです。そして女性の言葉を聞いた町の人々は、「イエスの下にやって来た」とあります。町の人たちは信じるしかなかったのでしょう。

「この人は人目を避けて自分の家に閉じこもっていた人ではないか。その人が町中で自分を人目にさらし、『来てください』と言っている。この人が言っているのは本当のことではないか」と、人々は町を出て、主イエスのもとへと向かうことにしました。

さて、女性が町に向かってその場を去った後の弟子達です。主イエスとサマリア人女性が話していた、ということについては誰も触れませんでした。まるで何事もなかったかのように、ただ自分たちが買ってきたものを差し出して「ラビ、食事をどうぞ」と言いました。

しかし主イエスは、弟子たちがご自分とサマリア人女性が会話をしていた事実から目を背けることをお許しにはなりませんでした。サマリア人女性に「生きた水」をお示しになったように、弟子達には「私にはあなた方の知らない食べ物がある」とおっしゃいました。主イエスはニコデモやサマリア人女性に謎をかけられたように、弟子達にもこのようなことをおっしゃるのです。

弟子たちはニコデモやサマリア人女性がそうだったように、文字通り主イエスの言葉を解釈しました。「誰かが食べ物を持ってきたんだろうか」と不思議に思いました。

主イエスがニコデモに「水と霊によって生まれなければならない」とおっしゃったように、サマリア人女性に「生きた水」を語られたように、ここで弟子たちには「天からのパン・食べ物」のことが語られている。弟子たちは、より深い天の言葉の理解へと招かれることになります。「弟子達が知らないパン」とは我々地上のものたちが知らない糧、霊の糧です。

「目を上げて畑を見るがいい、色づいて刈り入れを待っている」と主イエスは弟子達におっしゃいました。井戸の周りには麦畑があったようです。収穫の時期だったようです。畑には収穫する人が働いていたのでしょう。

ここで言われているように、収穫には4ヶ月ぐらいかかります。1月か2月に種をまいて、5月か6月に収穫となるそうです。主イエスが弟子達に「見なさい」とおっしゃったのは、種を蒔き、それを育て、収穫する人たちの喜びの姿でした。

「君たちは、あのように、天の収穫を喜ぶ者となるのだ」とお示しになったのです。

詩編126:5~6

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

弟子達には、キリストを信じる者には、福音の種まきがまかされています。種まきをしんどいと思うこともあります。しかしその種まきが無駄に終わることはありません。必ず、私たちの涙は、喜びの歌へと変えられていくのだ。

主イエスは「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている」

弟子達は主イエスが何をおっしゃっているのか、理解できなかったのではないでしょうか。自分が蒔いたのではない種があり、その収穫を自分が刈り入れることが許される、というのです。

「先生は何をおっしゃっているのだろう」と考えているところに、サマリアの人たちがやって来ました。あの女性が、町から人々を連れてきて、「この方が、私の行ったことを全て言い当てました」と言います。

主イエスは人々に請われるまま、そこに二日間滞在されました。そして「更に多くの人々が、主イエスの言葉を聞いて信じた」、とあります。そして、人々は女性に言いました。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」

弟子達は、サマリア人女性が人々を主イエスの下に連れてくるのを、そして人々が主イエスを世の救い主として信じるのを見ました。弟子達は主イエスのなぞかけを、字義通りに、「自分たちが買い物をしている間に、誰かが主イエスにパンを持ってきた」、と思っていた。弟子達は主イエスの言葉を地上のレベルで解釈しました。

しかし、主イエスから井戸の周りに会った小麦畑の収穫を見て、弟子たちは気づき始めたのではないでしょうか。主イエスが、単に小麦の収穫の喜びではなく、「この人たち」のことを言っているのではないか。

一人が種をまき、別の人が借り入れるという諺が本当のことになっています。主イエスの言葉は4ヶ月も待たなくても実りが育ちました。「目を上げて畑を見るがよい」というのは、単に弟子達が目線を上げるということではなく 天に心を向けなさい、ということではないか。そしてその言葉は、そのまま私たちにも向けられているでしょう。

主イエスとサマリア人女性との会話は、最後には、サマリアの町の人々の主イエスへの立ち返りという救いの出来事につながりました。そして見過ごしてならないのは、主イエスはその出来事を、弟子達にお見せになった、ということです。

弟子達は自分たちの先生がサマリアの女性と話しているのを見て驚きました。ユダヤ人とサマリア人の間にある溝、男性と女性の違いをこだわりがあったからです。しかし、それらの溝や壁を越えて、神は救い主の下に二つの民族の人々を招かれました。

サマリア人たちだけではなくユダヤ人であった弟子たちもこの収穫の喜びに招かれています。弟子達は、自分たちの人間的な思いを超えて世のすべての人を1つに集めようとなさる神の御業を見たのです。

実際サマリア人女性は主イエスの弟子たちの業を担っています。誰かを主イエスの元へと招くのは、本来は弟子達の使命であったはずです。しかしここでは、一人のサマリア人女性が、キリストを証し人々をキリストのもとに招いています。一番キリストとは縁遠いと思われているような人が、です。

サマリアの人々は、この女性を通してイエス・キリストの業を信じました。そして次には、自分自身でこの方の言葉を聞いたから信じるのだ、と言うようになりました。

ここに至って主イエスが誰であるのかがはっきりしました。単なるユダヤ人の旅人ではありません。律法学者でもありません。預言者でもありません。それ以上の方です。

救い主キリストであるということ。

それは聖書では神ご自身のことを指しています。

旧約時代の預言者イザヤが、神の言葉を伝えている。 Continue reading