使徒言行禄1:12~26
「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)
イエス・キリストが天に昇って行かれるのを見送った信仰者たちが、その後神が聖霊を注いでくださる時までどのように過ごしたか、ということが記されている場面です。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる」
主イエスはそうおっしゃって、天に昇って行かれました。
キリストを天に見送った後、地上に残された信仰者たちにとっての課題は、キリストがおっしゃった「聖霊が降る時」まで、何をして待てばいいのか・どのように待てばいいのか、ということでした。主イエスはただ、「時を待て」とおっしゃっただけで、「その時のために今からこういう準備をしておきなさい」と具体的な指示は出していらっしゃいません。
主イエスを天に見送った後、信仰者たちがしたことは、「祈る」、ということでした。
祈り、そして、イスカリオテのユダが抜けた後の12弟子の穴を埋め、神が備えてくださっている時を待ち続けたのです。キリストが十字架で殺されたあの過越の祭りから数えて50日目、ペンテコステの日に祈る弟子達の上に聖霊が注がれることになります。
私たちは、なぜこの人たちの上に聖霊が与えられたのか、ということを考えたいと思います。
主イエスがおっしゃった「時」を待ち続けたのは、主イエスの弟子達、ガリラヤから従って来た女性たち、そして主イエスの家族、合わせて約120人の群でした。この120人が特別に選ばれて天から聖霊が注がれることになります。
この120人には何か特別なものがあった、ということでしょう。この人たちには、他の人たちとは決定的に違う何かがあった、ということになります。それではこの120人は、何が特別だったのだろうか。何が違っていたのでしょうか。ユダヤの律法学者やローマ帝国にイエス・キリストを力強く証言する才能や力があった、ということでしょうか。
そうではありません。
この人たちだけが、イエス・キリストに従い、祈り続けていたのです。他の誰もがイエスという方を捨てた中で、主イエスを十字架にかけた人たちの真っただ中で、この人たちだけが、イエス・キリストへの信仰を持ち、祈り続けていたのです。
そのことにおいて、彼らは特別だったのです。それ以外に、この人たちに何か特別なものなどありません。キリストへの祈りがなければ、この人たちは普通の人たちでした。
言い方を変えると、祈り、というものが、普通の人たちを、特別な群れへと変えていく、ということです。
キリストの12弟子はイスカリオテのユダを失いました。このため、誰か一人を選び出さなければならなくなりました。彼らがどのようにユダの代わりを選び出したか、というと、くじ引きだった。
「くじ引き」と聞くと安易な決め方のように思えます。しかし、そのくじ引きも、よく読んでみると、彼らの祈りによる信仰の業だったことがわかります。彼らは神の御心を求めて祈り、結果を神に委ねた結果、マティアが選び出されたのです。
こうしてみると、この人たちは「祈りの群だ」だった、と言っていいでしょう。聖霊は、その「祈りの群」に注がれ、それが「教会」となって福音を世に運んでいくことになっていきます。
我々は、ここに大切なことを見ます。イエス・キリストを求める群、というのは、「キリストに祈る群れ」だ、ということです。キリスト教会は、「キリストに祈り続ける群だ」なのです。
「そんなことは当たり前じゃないか」と思えるかもしれません。しかしこのことは、決して当たり前ではないのです。「当たり前」に思ってしまう時こそ、教会の危機となります。
教会は、「祈りの群れ」であり、もっと言えば、「祈るしかない群れ」です。キリストから託された福音宣教という使命の重さに耐えかねて、神に祈ってすがるしかない群れなのです。
信仰者たちは、たった120人でこれから全世界にイエス・キリストの復活を伝え広めなければならなくなりました。彼らは途方もない使命をキリストから与えられました。
今ここで、キリストに従う120人は他になすすべもなく祈っています。聖霊は、その「祈り」上に注がれることになります。
私たちは教会の強さと弱さを見ることが出来ます。「人間の集まりである教会の弱さ」と、「神によって集められた教会としての強さ」です。
後に、使徒パウロはコリント教会にこう手紙を書いています。
「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・・それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」
教会は、自分たちの強さを捨て、神の前に弱い自分たちを差し出すことで強くされます。逆説的ですが、それがキリスト教会の強さです。
教会は、私達信仰者は、何を持っているのでしょうか。聖霊を注がれた後、弟子のペトロとヨハネは、神殿にいた足の不自由な人に言いました。
「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
教会が持っているもの、キリスト者が持っているものとは何でしょうか。金や銀ではありません。イエス・キリストの名前だというのです。
私たちは、金や銀を持っているから教会として強く歩めるのではありません。金や銀がなくても、キリストが生きて私たちと一緒に歩み、立たせてくださるから、教会は倒れないのです。金や銀よりも尊いものを、金や銀よりも価値があるものを大切に抱いているから、教会は倒れないのです。
弟子達は、福音宣教の中で、昔イエス・キリストから言われた言葉を何度も思い出したでしょう。
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない」
主イエスが12弟子をガリラヤ宣教に送り出した際におっしゃった言葉です。主イエスが彼らにお与えになったのは、「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」でした。それだけ、でした。
弟子達は託されたキリストの権能だけをもってガリラヤ中を周り、神の国の教えを説き、何も不足することがありませんでした。全てが備えられていたのです。イエス・キリストのお名前が、キリストの権能があれば、そして祈りがあれば、教会は倒れません。
主イエスはこうもおっしゃっていました。
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなた方にとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなた方に授けるからである」
教会の強さはここにあります。神の備えを信じて祈る、ということです。祈りによってしか自分たちは立ちえない、ということを知っていることこそ、実は教会の強さなのです。祈りを通して、人間をはるかに超えた神の導きによって教会の道は切り拓かれていきます。
この時、祈っていたのは、たった120人でした。世界中でこの120人だけが、キリストの復活を知り、自分たちに聖霊が注がれる時を祈りつつ待っていました。
「こんな少人数で世界中にキリストの復活を伝えることができるのか」、と誰もが不安を持っていたと思います。
しかし、神の民はいつでも弱小の民でした。
申命記7章に、モーセの言葉がある。
出エジプトの際、モーセはイスラエルに伝えました。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた故に、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」
弱小で貧弱な民イスラエルが、なぜ神の民として選ばれたのでしょうか。ただ、神の愛ゆえに、神の契約の誓いのゆえに、選ばれた、と言われています。
教会も、キリストの復活を見た、たった120人の祈りから始まっています。祈ることしかできなかった弱小で、貧弱な信仰の民です。しかし、二人、三人であってもキリストの名のもとに集まり、祈りを合わせれば、そこから聖霊によって何かが始まっていくのです。
さて、最後に、イスカリオテのユダを通して教会のことを考えたいと思います。我々はイスカリオテのユダが起こした悲劇を知っています。主イエスを裏切り、そして自分の命を自分で閉じました。
忘れてはならないのは、ユダに働いた罪の力・誘惑の力は、教会にも同じように働き続けている、ということです。キリスト者になれば誘惑はなくなるのか、というとそうではありません。むしろ、教会にこそ、キリスト者にこそ、神から引き離そうとする力は強く働きます。
聖書には様々な誘惑が記録されています。
創世記の蛇の誘惑。
荒れ野で苦しい旅を続けていたイスラエルをエジプトへと連れ戻そうとする誘惑。
約束の地に入ってからの偶像礼拝の誘惑。
イエス・キリストを荒れ野で苦しめた悪魔の誘惑・・・
罪の力は、今も教会に向かっています。キリスト者であろうが、キリストの直弟子であろうが、誘惑の言葉は近寄ってきます。教会こそ、誘惑の力が最も強く働くところだと言っていいでしょう。
私たちが誘惑に陥らないようにするためにできることはただ一つです。あの120人が祈って時を待ったように、キリストへと心を向けて祈り、私達に備えられている時を待つ、ということです。教会がもつ強さ、それは「祈る」ということ・・・これに尽きます。