7月13日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:15~21

イエス・キリストが弟子達と過ごされた最後の夜、キリストはご自分がこれから弟子達の知らない場所に行かれること、離れ離れになることをおっしゃいました。弟子達は不安になります。

「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とキリストはおっしゃいますが、弟子達の不安は消えません。

弟子達の1人、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。フィリポも、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。

弟子達の不安の言葉を聞いて、主イエスはお答えになります。「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見たものは、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」

キリストと弟子達との間に、もどかしい壁があります。キリストがお伝えになろうとしても、弟子達は自分たちに理解できる範囲・この世的な表面的な理解でしかとらえることができないのです。

弟子達は「父のもとに行く」とおっしゃる主イエスに向かって「どこにその道があるのですか、そこに御父がいらっしゃるのですか」とすがります。しかし、イエス・キリストを目の前に見るということは、父なる神を目の前に見ている、ということだったのです。「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」とキリストはおっしゃいます。しかし弟子達はよくわかりませんでした。

このやり取りの後、主イエスは弟子達に「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」とおっしゃいます。しかしこの時の弟子達にとって一番の願いは「私たちから離れないでください。共にいてください」というものではなかったでしょうか。

その願いに対して、主イエスはおっしゃった言葉が、今日私たちが読んだところです。

「私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう」

弟子達がキリストを愛し、キリストの掟を守るその先で、キリストは弟子達の願いを父なる神に届けようと、おっしゃるのです。実はこれこそが、キリストご自身の願いでした。

私たちは、この時の弟子達の気持ちがよくわかるのではないでしょうか。実際にキリストと旅をして、実際にキリストと別れる経験したわけではありません。しかしキリストには自分と一緒にいてほしい、と思う気持ちは同じでしょう。

この夜の内にイエス・キリストと弟子達は離れ離れになります。そしてキリストの十字架の死によって、生と死というどうしようもない線引きによって引き離されてしまうことになります。しかし、キリストは前もって「それで終わりではない」ということを示されるのです。

「キリストを求める」ということは、「キリストを愛する」ことであり、「キリストを愛する」ということは、「キリストの掟を守る」ことであり、「キリストの掟を守る」ということは、「キリストが共にいてくださる」ことにつながるのです。「キリストの掟を守る」ということは、「キリストの生き方に倣う」ということでしょう。そうすればキリストは共にいてくださるとおっしゃいます。

後にキリストの十字架の死を見た弟子達は絶望に突き落とされることになります。しかし、この夜聞かされた言葉が、彼らに絶望では終わらない何かの希望を抱かせました。

十字架で殺された後、キリストは復活され、やがて天に上げられていきます。結局は弟子達とは離れ離れになってしまいます。しかし、それで終わりではないのです。ではどうやってキリストは弟子達と、また従おうとする人たち・私たちと共にいてくださるのでしょうか。

「父は弁護者を遣わして、永遠に一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」

ここで「弁護者」と訳されているのは、ギリシャ語で、「そばにいて助けてくれる存在」という意味の言葉です。訳そうとすれば、様々に訳すことができる言葉です。慰め主、励まし手、仲介者、強くしてくれる者、弁護者、などです。キリストはその「弁護者」のことを「真理の霊」と呼ばれました。聖霊のことです。

天と地に離れ離れになるイエス・キリストと弟子達、また信仰者たちが、どのようにして「共にいる」ことができるのか、私たちは不思議に思うでしょう。天と地に離れ離れになるキリストと信仰者は、どのようにして一つになり得るのか、それは「聖霊によってだ」、と主はおっしゃるのです。

「私たちから離れてほしくない、キリストと共にいたい」というこの夜の弟子達の願いは、今の私たちの祈りそのものです。しかしこの世を生きている私たちにとってキリストがおっしゃる「聖霊の働き」というものはよくわかりません。私たちが自分の頭の中で、理屈をこねて理解することはできないでしょう。

キリストから離れたことによる孤独を、弟子達は何より恐れました。その彼らにキリストはこうおっしゃいました。

「私はあなたがたを孤児にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる」

私たちキリスト者にとって、いや、人間なら誰しも、一番恐ろしいのは孤独です。自分が望んだ孤独ではなく、否応なく強制された孤独ほど怖いものはありません。孤独は空しさを生み、退屈を生み、無気力にさせます。生きることが無意味なことだと思わせるのです。

私たちが最も神を、キリストを強く求めるのは、孤独の時、生きることにつかれた時、生きることの意味を見失い、空しさに支配されている時ではないでしょうか。

愛する者との間に距離ができた時、神との間にも距離を感じます。

世界にこれだけたくさんの人がいても、孤独を感じる時があるのです。その時こそ、私たちの魂はキリストを強く求めます。「共にいてください」と。私たちが最も恐れるのは、この世界の中で、霊的な孤児になることなのです。

孤独を感じる時、「あなたがたを孤児にしておかない」というキリストの言葉をどう信じればいいのでしょうか。

キリストはおっしゃいます。

20節「かの日には、私が父の内におり、あなたがた私の内におり、私もあなた方の内にいるということが、あなたがたに分かる」

ただ、一緒にいてくだる、傍にいてくださる、というだけではなく、父なる神とイエス・キリストと私たちがそれぞれの内にいることになる、とおっしゃいます。

キリストの使徒パウロは、手紙の中でこう書いています。

「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

弟子達はキリストがおっしゃっている言葉を理解できませんでした。しかし、キリストの復活後に聖霊を受けた弟子達は、「あなたたちはわかるようになる」と言われた通り、内なる人が新たにされ、本当に分かるようになったのです。

彼らはどのように新しくされたのでしょうか。同じ手紙の中でパウロは書いています。

「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。それは主の霊の働きによることです。

聖霊を受けたものは、主と同じ姿・イエス・キリストの姿に作り替えられていく、とパウロは書いています。聖霊が、私たちの内にいて、私たちをキリストに似た姿へと日々新しく変えてくださる、それによって私たちはインマヌエルの恵みを共に生きるのです。キリストが隣に座ってくださっているというのではなく、キリストが私の内にいて、私がキリストの内にいる、という仕方で、共にいてくださるのです。そして聖霊は私をキリストに似た者へと変えてくださるのです。

これが、私たちの想像を超えた、私たちの常識には収まらない、私たちの生涯にわたる聖霊の働きです。

今日読んだ最後のキリストの言葉です。

21節「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛するものである。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現わす。」

私たちがどんなに孤独で、独りはじかれたと思っても、神・キリストが私たちをお見捨てになることはありません。神・キリストに愛されることで、私たちはキリストを見ます。そうやって、キリストに似た者へと日々新しく創造されていくのです。

さて、主イエスは、「この世」についてお話しなさっています。

「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」

ヨハネ福音書の初めで、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書かれています。主イエスがここでおっしゃっていることと同じことが言われています。

神に反抗する者はそれを知ることができないのです。真理の霊・聖霊を受けようともしない、だからキリストを知ることも見ることもできない、と言われています。

マルコ福音書6章に、主イエスが故郷のナザレに帰られた時のことが記録されています。ナザレの人たちは、主イエスの言葉を聞いて、「どうして自分たちが昔から知っているイエスにこんなことができるのか」と驚き、つまずきました。

主イエスはそこでわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができませんでした。「人々の不信仰に驚かれた」とあります。

イエス・キリストが驚かれるほどの不信仰がそこにありました。ナザレの人たちは、自分の知り合いのヨセフ、マリアの息子にそんな力があるとは思えなかったのです。主イエスは、奇跡を行わなかったのではなく、行えませんでした。どれだけ神の言葉が語られても、どれだけ神の御業が行われようとも、不信仰はそのすべてを拒絶するのです。

私たちは、キリストが人々から「しるしを見せてほしい。そうすれば信じられる」と言われたことを知っています。しかし、主イエスはそのような人たちにはご自分の奇跡の力を見せびらかすようなことはなさいませんでした。

「奇跡を見たら信じられる、言っていることの意味が分かれば信じられる」、と人々は思うのです。それが、「この世」の姿勢でしょう。かし、本当はそれは逆なのです。信じて、その先が見せられるのです。信じることがあって、初めてキリストがおっしゃることが分かるのです。

ヨハネ福音書のはじめには、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。私たちは救われてから信じるのではありません。信じた先に救いがある、ということをわきまえておきたいと思います。

最後に19節の言葉を見たいと思います。

「私が生きているので、あなた方も生きることになる。」

このキリストの言葉ほど、理屈を超えて恵みを感じるものはないでしょう。私たちはなぜ生きているのでしょうか。キリストが生きていらっしゃるからです。私たちが生きているということは、キリストが生きていらっしゃるということなのです。

私たちが生きていることそのものが、実はキリストが生きていらっしゃる、聖霊を通して共に生きてくださっているということの証拠なのです。このことを信じた先で、私たちは真の神に正面から出会い、祈りの対話によって生涯キリストと歩みを共にすることになるのです。

ルカ福音書で、主イエスは、ファリサイ派の人たちから「神の国はいつ来るのか」と尋ねられる場面があります。主イエスはこうお答えになっています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」

謎めいたイエス・キリストの言葉です。神の国は、指さして「そこにある」と言えるようなものではありません。それと同じように、神が私たちと共にいてくださること、キリストが私たちと共にいてくださるのは、「そこだ」「あそこだ」と言って確認できるようなことではないのです。

私たちの間にある、私たちの内にある、そのような形での神の国、インマヌエルなのです。私たちが頭の中にある知識で考えても分からないでしょう。ただ、真理の霊が、聖霊がそれを可能にする、という神秘に身を委ねるだけです。

キリストの言葉の内に身を浸したいと思います。