6月12日の説教要旨

使徒言行禄5:1~11

「アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持ってきて使徒たちの足元に置いた。」(5:1~2)

聖書に関して、よく言われる誤解があります。それは、「旧約聖書は厳しくて、新約聖書には優しいことが書かれている」とか、「ユダヤ教は神の裁きを恐れ、キリスト教は神の愛を喜んで生きていきている」、というようなものです。

キリスト教は愛の宗教で、キリストは何をしても許してくださる愛情の深い方で、それが旧約の時代と新約の時代の違いだ、というようなことが言われたりしますが、それは全くの間違いです。

確かにキリスト教は愛の宗教だと言っていいでしょう。しかしそれは、一つの側面でしかありません。キリストは、「私は律法を完成させるために来た」とおっしゃいました。旧約聖書を通して伝えられてきた、人間の罪に対する神の裁き、神の怒り、神の忍耐、そして神の愛を完成さるために来られたのです。人間の罪に対する厳しさということでは、旧約聖書も、新約聖書も伝えていることも何ら変わりはありません。

私達はキリストの聖さ、神の聖さというものの峻厳さを聖書を通して知らなければならないのです。そして、その聖さを恐れることを学ばなければなりません。

今日私たちは、教会に献金したアナニアとサフィラという夫婦が、神に打たれて死んでしまった、という場面を読みました。教会を迫害した人たちではなく、教会に献金した人が、神によって打たれた、というのです。

ここを読んだ人は、誰もが衝撃を受けると思います。

「神の聖さに相応しくない献金をすることは、命に関わるほどのことなのだろうか」

そう思って、神への恐れが深まる事件だと思います。

我々は、生まれたばかりの教会に起こったこの衝撃的な事件を通して、教会の聖さについて、そしてその聖い教会に相応しい捧げものとはどういうものか、ということを考えさせられることになります。

旧約聖書のヨシュア記に、アカンという人のことが書かれています。アカンは、神にささげるべきものを、隠れて自分のものとしていました。そのことによって、イスラエルは戦いに負けるようになってしまいます。結局、アカンは神にその罪を暴かれ、最後には死んでしまうことになるのです。

人間にとって、自分の目の前にある地上の富・宝は、魅力的なものです。あまりに魅力的で、この宝が自分の身を亡ぼすかもしれない、ということすら見えなくなってしまいかねません。

私たちは、イエス・キリストがおっしゃった、「天に富を積みなさい」という言葉を思い出すことが出来るでしょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい・・・あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ」

教会に集う一人の信仰者として、キリスト者として、そして献金者として、私たちはこの夫婦が神に打たれてしまった、ということと、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったキリストの言葉に対して、向き合わなければならないと思います。

今、私たちの目には何が映っているでしょうか。私たちの心は、地上の富、天の富、どちらに向いているのか、目を背けず、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。

アナニアとサフィラの夫婦が献金する前に、バルナバと呼ばれていたヨセフという人が、自分の畑を売って、その代金を持ってきて使徒たちの足元に置いた、ということが書かれています。

そのすぐ後で、アナニアと、妻のサフィラが同じように土地を売って教会に献金しました。

私たちは、バルナバの献金と、アナニア・サフィラ夫婦の献金を比べることが出来ます。それぞれ、全く質の違うものでした。

正直なお金を正直に教会に献金したバルナバと、姑息なやりかたで人を騙して作ったお金で教会に献金しつつ自分の懐も肥やしたこの夫婦は対照的です。

バルナバは自分の畑を売ってできたお金をそのまま教会に捧げました。「自分の持っているものを施し、キリストに従う」、という、あのイエス・キリストの教えに忠実な、まさに献身のしるしでした。

しかしアナニアとサフィラの夫婦は、二人で相談して土地の代金をごまかしてお金を作り、しかも、全額ではなくその一部を教会への献金として持ってきた、とあります。夫婦は、事前によく相談したのでしょう。「教会に献金もできて、自分たちの懐にもお金が入ってくるやり方はないだろうか」

「土地の代金をごまかした」、ということは、誰かをだまして土地を高く売りつけた、ということです。つまりその献金は誰かの不幸の上に作られたものでした。

この二人は頭のいい夫婦だったのでしょう。ガリラヤの田舎出身のキリストの使徒たちの馬鹿正直なやり方をもどかしく思ったかもしれません。もっと頭を使って、手っ取り早く儲けて、それを教会に入れて、とにかく教会を豊かにすればいい、そして自分の利益も出そう、と考えたようです。

結局、このことが、二人を破滅へと導きました。

人間に破滅をもたらすもの、教会を破壊するもの、汚すものはなにか、ということを私たちはここで考える必要があります。

使徒ペトロはアナニアとサフィラそれぞれにこう言いました。

「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」

「主の霊を試すとは、何としたことか」

二人は、人を騙して作ったお金でも、結果として教会が豊かになることのであればそれでいいではないか、と考えたのでしょう。しかし、その捧げものを神がお喜びになるかどうか、ということは少し考えればすぐにわかったことではないでしょうか。

ペトロが二人に告げた罪は、人をだまして得たお金を、聖なる神にささげて神の聖さを、キリストの聖さを、教会の聖さを汚そうとしてしまったことでした。夫婦は、二人とも、神に打たれて死んでしまいました。

我々はアナニアとサフィラが神に打たれて死んでしまったことに驚きます。神に打たれた、ということはイエス・キリストに打たれた、ということです。

私たちは「聖くない献金をしてしまったとしても、命をとられるほどのことなのだろうか」、と思ってしまうかもしれません。

しかし、我々はこの事件が持っている深刻さをよく考えなければならないでしょう。アナニアとサフィラがしたことは、実は教会の命に関わることでした。

教会は、単なる人間の集まりではありません。キリスト者の交わりは聖い信仰による交わりです。手段を選ばずとにかく大きくなればいい、とにかく豊かになればいい、というようなものではありません。イエス・キリストがおっしゃたように、教会は「祈りの家」でなければならないのです。

もしも、アナニアとサフィラがもってきたお金を使徒たち・教会が喜んで受け入れていたとしたらどうだったでしょうか。教会にある交わりは汚れ、キリストからは「これは強盗の巣だ」と言われて、旧約聖書に出てくるあのバベルの塔のように上から崩れてしまうでしょう。

何が教会を壊すのでしょうか。教会の中にいる人々の意見の相違が教会の交わりを壊すこともあるでしょう。

しかし、それ以上に怖いことは、教会の中でキリスト者同士が、お互いをごまかすこと、騙すことです。それは神を、キリストをごまかそうとすることだからです。キリスト者がキリストを騙すようになると、教会は壊れます。神ご自身の手によって、その教会は滅ぼされることになります。

アナニアとサフィラの中には、それが悪いことだ、という罪悪感はなかったようだ。

「たくさんのものを神にささげることができれば、人を騙すことも許されるだろう。大きな正義を行うのであれば、小さな悪を行うことも許されるだろう」という思いをもっていたのだろう。

しかし、神の聖さ、教会の聖さ、ということに関しては、そんな屁理屈は通じません。教会の聖い交わりが、誰かの不幸の上に築かれるのであれば、それは神の聖さを汚す、ということなのです。神にごまかしは通用しません。

イスカリオテのユダのことを思い出したいと思います。ユダはイエス・キリストを祭司長たちに売り渡すことで銀貨30枚を得ました。その銀貨30枚という大金を手にしてユダは本当に喜ぶことが出来たでしょうか。

結局ユダは後悔するのです。「無実の人の血を売り渡してお金を作ってしまった」と言って、祭司長たちに銀貨を返そうとしましたが、が、祭司長たちは受け取りませんでした。ユダは自分の後悔をどこにも持って行けず、結局、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでしまいました。

神は、キリストの血の代金であるその銀貨30枚をユダから献金されて、本当に喜ばれるでしょうか。

紀元前8世紀の預言者ミカが、預言書の中でこう言っています。

「なにをもって、私は主の御前に出て、いと高き神にぬかずくべきか」

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」

紀元前8世紀のミカの時代、ユダ王国には不正がはびこっていました。商人たちは不正を行い、貧しい人たちが搾取されていました。そのような社会の中で、不正によって捧げられたものを神はお喜びにならない、とはっきりとイスラエルの人たちにミカは伝えたのです。

神は、アナニアとサフィラの献金を喜ばれませんでした。正義、慈しみ、へりくだりを伴わない献金だったからです。神の前に、聖く歩もうという信仰が本当にあったでしょうか。この夫婦にはなかったのです。

私たちは、神の聖さ、キリストの聖さ、教会の聖さに対して、真摯に向き合わなければならないと思います。アナニアとサフィラがキリストの霊に打たれて死んでしまったのを見た人たち、伝え聞いた人たちは皆「非常におそれた」と書かれています。

教会の人たちは、改めて、教会が守らなければならない聖さというものを思い知らされたのです。

出エジプト記で、モーセが神から召された時の神の言葉が記されている。神はモーセにおっしゃいました。

「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」

神ななぜモーセに、「ここに近づくな」とおっしゃったのでしょうか。神の聖さに触れて、モーセが死んではいけないからです。神の聖さ、というのは、そういうものなのです。

教会の人たちは、あの時モーセに示された、不可侵の聖さ・犯してはならない聖さを知りました。そして恐れました。

私たちは今、福音を通して、その聖さを知ります。それは、イエス・キリストの聖さへの恐れを知る、ということなのです。

パウロはコリント教会にこう記している。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(1コリ3:16~17)

アナニアとサフィラはキリストに打たれて死んでしまいました。イエス・キリストは生きて、教会の聖さを守られます。

教会には神の御業が現れます。神のご計画は、教会を通して世に実現していきます。教会はキリストの使命をたくされています。聖霊は私達に働き、私達を清めてくださいます。

アナニアとサフィラの死を前に、私たちは恐れをもって神の聖さを厳粛に受け止めたいいと思います。まず、教会に献金する私たち自身が問われています。この捧げものは聖いものか、人の不幸の上に作られたものではないか、本当に神に喜ばれる献金か。

教会を清めてくださる聖霊に導かれつつ、キリストから託された使命を果たし、神の御業を世に示していきましょう。