8月7日の説教要旨

使徒言行禄9:19~31

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(9:26)

誰よりも熱心に教会を迫害したサウロは、復活のイエス・キリストによって目を見えなくされました。その三日後、神に遣わされたアナニアから「あなたの目が見るようになるように、あなたが聖霊で満たされるように」と言われると、サウロの目は見えるようになりました。サウロは、ナザレのイエスがキリストであること、そして、キリストは本当に復活なさった、ということを知り、身を起こして洗礼を受け、自分もキリスト者となりました。

私たちはこれから、イエス・キリストを信じ、キリスト者となったサウロがどのように変わったのか、使徒言行禄を通して見ていくことになります。彼はすぐにあちこちの会堂で「イエスこそ神の子である」と宣べ伝え始めました。自分がやってきたことを恥じて、誰にも知られず身を隠した、というのではありません。三日前まで、「イエスは神の子だ、イエスはキリストだ」と言う人たちを迫害していた人が、キリスト者と同じことを言い始めたのです。

このサウロの変わり身を見て、彼を知っている人たちは当然皆驚きました。サウロがエルサレムからダマスコにやって来たのは、キリスト者迫害のためでした。その迫害者が、たった三日間で、迫害する側から迫害される側に身を置いたのです。

サウロは、ユダヤ人からも、キリスト者たちからも驚かれ、そして不信感を抱かれました。キリスト者を迫害していたユダヤ人たちからすれば、サウロは裏切り者です。

結局、以前は仲間だったユダヤ人たちから殺意を抱かれるようになってしまいました。サウロは、自分の弟子達に助けられて、夜の間にかごに載せられて町の城壁伝いにつり下ろされ難を逃れました。

サウロは、後に自分の手紙の中でもこの時のことを書いています。

「ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕えようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていた時、私は、窓からかごで城壁づたいに下ろされて、彼の手を逃れたのでした」

教会を迫害する者が、教会と共に迫害される者へと変わり、夜、町から命からがら逃げるようなことになっても、イエス・キリストへの信仰を捨てませんでした。私たちは、このサウロに起こった変化を通して、イエス・キリストの復活という事実が、これほど人を変える力をもっている、ということを知ります。

私達も今、キリストの復活を信じて、この礼拝の中に身を置いています。サウロのように、劇的ではないかもしれませんが、私達は、どこかで復活のキリストと出会い、確信し、そして今、礼拝を捧げる者として生きるようにされて、今があります。

私たちは、人々を驚かせたこのサウロの変化を通して、キリストとの出会い・キリスト信仰がどれほど人を変えることになるのか、また人の人生にどれほど意味をもたらすものとなるのかを見ていきたいと思います。

サウロは、後にガラテヤの信徒の手紙の中で、キリストに出会う前の自分について、こう書いています。

「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

サウロは、以前の自分のことを「熱心」だった、と言っています。神が望まれることをしよう、という熱心さを「誰よりも強く持っている」、という自負をもっていました。それは神に反している人たちを迫害し、滅ぼそうというほどの熱心さでした。

しかし、サウロは、復活のイエス・キリストと出会い、以前自分が持っていた「熱心さ」が誤ったものであることを知ります。彼は、自分を誇ることに熱心でした。

サウロは、以前の自分のことを「イスラエルの中のイスラエル、ヘブライ人の中のヘブライ人であり、律法に関しては非の打ちどころのない者だった」、と手紙の中で書いています。しかし、復活のキリストに出会い、「キリストを知るあまりのすばらしさに、自分を誇ることをやめた」、と言うのです。

サウロは、キリストに出会ってから、自分を誇ることをやめ、キリストを自分の誇りとするようになりました。キリストとの出会いは、そのように人を変えていくのです。

旧約聖書の創世記に、ヤコブという人が出てきます。

兄のエサウから長子の権利を奪い、更に、エサウが受けるはずだった祝福までだまし取った人です。兄エサウの怒りをかったヤコブは逃げました。

別の土地に逃げたヤコブは、妻を娶り、やがてエサウのいる故郷に帰ることになります。ヤコブは兄の怒りを恐れていたので、隊列の一番後ろから進みました。自分の身を守ろうと一番安全だと思われるところにいたのです。

いよいよ明日エサウに再会する、という日の夜、ヤコブの前に神が現れました。そしてヤコブは神と一晩中格闘しました。

二人は朝まで戦い、神はヤコブに「もう放してくれ」とおっしゃいます。しかし、ヤコブは、「私を祝福してくださるまでは放しません」と言いました。神はその場でヤコブを祝福され、「あなたは神と戦った。これからはイスラエルと名乗りなさい」と言われます。

イスラエルとなったヤコブは、変わりました。翌日、群れの一番後ろにいた彼は、先頭に立って、エサウの前に進み出たのです。ヤコブは兄エサウとの再会を果たし、兄弟は和解しました。ここからイスラエルという神の民が始まっていくことになります。

このヤコブの物語は、実は信仰者一人一人の物語なのです。「イスラエル」という言葉には、「神と戦う者」という意味があります。ヤコブは神と戦ってイスラエルとなりました。群れの一番後ろにいたヤコブは、イスラエルとなって群れの先頭に立ちました。

サウロも、イエス・キリストと戦って、キリスト者となり、教会を迫害する者から、教会のために戦う者となりました。

信仰者は、ヤコブやサウロが変えられた姿をして、神との出会い・キリストとの出会いを通して変えられた自分を顧みることが出来るのではないでしょうか。私たちも、聖書を読んだり、神に向かって祈ったりする中で、信仰の戦いがあったでしょう。「ここに書かれていることは本当だろうか。キリストを信じようとしても自分にはいいことなど起こらないではないか」と、誰もが思ったことがあるでしょう。

しかし、それでも、私たちは聖書の言葉を求め続けます。ヤコブが神と格闘したように、私たちも祈りを通して、キリストと戦うのです。「主よなぜですか」、「キリストは本当に共にいてくださるのですか」、そう言ってぶつかっていきます。それでいいのです。

サウロは、目が見えなくなった三日間、自分のそれまでの間違った熱心さを振り返り、また自分に語り掛けてきたナザレのイエスとの内なる対話を続けたでしょう。罪なる自分との決別のため、また新しくキリスト者として生きるため、誰でももがく時間が必要なのです。そして、キリストに身をゆだねた時、キリストが自分を片時も見放さず導いてくださっていたことを知るのです。

サウロは、ユダヤ人たちからも、キリスト者たちからも、不信に思われました。そのサウロを、エルサレムの教会へと仲介した人がいました。バルナバという人です。

聖書には、こう書かれている。

「バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語り掛けられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」

しかし、エルサレムのキリスト者たちは、誰もサウロを受け入れようとしませんでした。あれだけ教会を迫害したサウロなのだから、キリスト者になったふりをして、自分たちをそうやって騙そうとしているのではないか、と疑っていたのかもしれません。

「しかし」バルナバはサウロを信じました。彼をエルサレム教会へと連れて行き、サウロがイエス・キリストと出会い、どのように変わったのかを伝え、執成しました。

サウロが後に記した手紙と合わせて考えると、バルナバは、サウロがキリストに召されてから17年後に、サウロを迎えに行き、エルサレムに連れて行った、と推測できる。サウロは17年間、一人でキリストを伝え続けていたということだ。そしてバルナバは、サウロのことを17年間、覚えていたということです。

私達は、このバルナバがしたことの意味に目を向けたいと思います。もし、バルナバがサウロを信じなかったとしたら、また、サウロという人を忘れてしまったとしたら、どうだっただろうか。

後のパウロの福音宣教はなかったでしょう。キリストの福音がエルサレム周辺から、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡り、あんなに短期間に広まっていくことはなかっただろう。

このバルナバとサウロのことを考える時、私達は自分がキリスト者になった時のことを思い返すことが出来ます。必ず、自分を聖書へと、教会へと導いた誰かがいたはず、もしくは、何かがあったはずです。

自分一人で聖書を手に取るところから、その自分を教会へと執り成し、そして時間をかけてイエス・キリストの名による洗礼へと導いた存在があったはずです。牧師だったかもしれない、キリスト者の友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、何かの本を読んで、ということだったかもしれない・・・とにかく、教会と自分を結び付けてくれた、キリストと自分を結び付けてくれた仲介者がいたはずです。

それは決して偶然ではないのです。自分が教会へとキリストへと向かう道の上に、神が仲介者を、導き手を備えてくださっていたのです。

サウロをエルサレム教会へと執成したバルナバは、自分の家の畑を売って、そのお金を教会に差し出して、キリストに身を捧げた人でした。バルナバが教会に身を捧げた、ということが、次に、サウロをエルサレム教会へと執成す、ということにつながりました。

そしてそのサウロが、後にパウロと呼ばれるようになり、異邦人へとキリストの福音を伝え、諸教会に書いた手紙が残されて今、新約聖書となって私達の信仰の規範として読まれています。

こうして見て行くと、自分がキリスト教会につながる、ということは、自分一人だけのことでは終わらない、ということがわかります。神が全てを用意してくださり、そして自分がキリストにつながったことが、次の誰かをキリストに執成すことになっていくのです。

今、私達はこの礼拝の中に身を置いていますが、なぜ、今自分がここにいるのか、ということに改めて思いを巡らしてみたいと思います。遡って考えれば考えるほど、今自分がこの礼拝の中にいる、ということのために、神が自分のためにどれだけのものを、どれだけの人を用意してくださっていたか、ということを思うことが出来るでしょう。

サウロ自身は、神が「私を母の胎内のある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった」と書いています。私達自身のことを振り返った時、同じことが言えるのではないでしょうか。

サウロにバルナバが備えられていたように、私達にも一人一人、生きてきた中でキリストを知るきっかけをくれた、またキリストへと導いてくれた存在を思い出すことが出来るはずです。

それだけではありません。自分が教会から離れそうになった時、引き留めてくれた誰か、何かを思い出すことが出来るのではないでしょうか。

「母の胎内にいる時から、神は私を見出してくださっていた、招いてくださっていた」、ということにまで思いをはせることが出来れば、私達は、「神の導きは今まで途切れたことは一度もない」、と知ることができるのではないでしょうか。

神から離れること、教会から離れること、聖書を閉じてしまうことなどは何度もあるでしょう。何か理不尽な苦しみに直面したら、神を恨んで、キリストに怒りをぶつけることもあるでしょう。

しかし、そのような中でも、神が私達をお見捨てになることはありません。母の胎内から導いてこられた神は、私達を追いかけてくださいます。何度も招き人を、執り成し人を用意してくださり、行く先々の教会で待っていてくださるのです。