ヨハネ福音書19:16~24
ユダヤ人とピラトの間で行われた主イエスの裁判は終わりました。それは裁判とも言えないような裁判でした。主イエスの主張は本当に正しく聞かれ、吟味されたでしょうか。
ユダヤ人たちは「この者を十字架で殺せ」という自分たちの主張を叫んだだけでした。本来なら「神のみが真の支配者である」という信仰を持っていたはずのユダヤ人たちは、勢いに任せて、「ローマ皇帝だけが自分たちの王である」と告白してしまいましいます。ローマ総督ピラトは、騒ぎ立てるユダヤ人たちに押されて、自分では罪を見出さなかったイエスを十字架へと押しやってしまいました。ピラトも、ユダヤ人たちも、自分の思いを貫くことができていません。
「命をかけてあなたに従います」と言った弟子たちを含め、主イエスの十字架の前に、全ての人が自分の道につまずいています。全ての人が、自分の理想とする道から外れてしまっています。そしてその的外れな歩み・罪の歩みが、主イエスを十字架へと向かわせていったのです。
イエス・キリストが十字架で殺された、ということは有名な話なので、キリスト者でない人も知っている人は多いでしょう。しかし、このような裁判とも言えないような裁判を経て十字架に上げられた、ということはあまり知られていないのではないでしょうか。
実は「なぜ・どのように」この方が十字架に上げられたのかということが、とても大切なことなのです。しかし、大切なことではありながら、それを説明しようとしても、福音書の記述から一言で「こうだ」とまとめることはできません。「この人がこのように計画して、それが計画通りになって、こうなった」、と言えないのです。
弟子達の生でも、ピラトのせいでも、ユダヤ人たちのせいでもありません。
弟子たちが先生である主イエスを守ることができなかったということではないのです。ローマ総督ポンテオ・ピラトがこのイエスという人に反逆罪を見出して判決を下したというのでもないのです。ユダヤ人たちが主イエスに見出したのは「神の子であると自称した」、という律法違反であり、十字架刑に相当するものではありませんでした。
ここで一つだけ言えるのは、「ただ、神の御計画のみが実現している」、ということです。逆に言えば、人の計画が実現しているのではないということです。
ここで私たちはイエス・キリストの十字架のお姿を見ることになります。私たちは踏まえておきたいと思います。主の十字架において、人間の計画は何一つ実現していないということ。ただ、「世の罪をご自分の独り子に背負わせ十字架に上げ、この世の罪を許す」という神の救いのご計画だけが実現している、ということ。神が前もって預言者を通してお示しくださった救いの御業が、人間には理解できない仕方で進んでいる、ということ。
これこそが、聖書が今を生きる私たちに伝えようとしていることなのです。
主イエスは1人で十字架の木を運ばれました。他の福音書では、キレネ人シモンという人が、鞭打ちで弱ったイエスに代わって十字架を無理やり運ばされたことが書かれていますが、ヨハネ福音書では、そのことは省かれています。ただ、「イエスは、自ら十字架を背負った」とあります。
おそらくヨハネ福音書は、主イエスのお姿だけを描くことによって、主イエスがご自分の十字架の受難を徹頭徹尾ご自分の意思でご自分の支配のもとに進められた、ということを強調しているのでしょう。
「されこうべの場所」という意味の、処刑場所へとご自分の十字架を運んで行かれました。ヘブライ語ではゴルゴタ、ラテン語ではカルバリと呼ばれていた処刑場所です。実際、そこには、遠くから見ると頭蓋骨に見える岩があります。
十字架刑は、最も残酷な処刑方法でした。罪人は両手を十字架に縛り付けられるか釘で打たれます。そしてその十字架を立たせると、罪人の腕の血液が胸に集まってきます。呼吸が困難になり、やがて窒息死することになります。
十字架に上げられる前の鞭打ちで弱っていなければ、死に至るまで数日を要することもあったそうです。ちょうどお尻の位置に腰をかける椅子のような出っ張りがあって、そこで 少し休めるような造り作りなっていました。その分罪人は十字架の上で長く苦しまなければならない、という残酷な設計です。
少しでも罪人を苦しめ、その姿を少しでも長く見せしめにする、残酷極まりない死刑法、それが十字架刑でした。あまりに恐ろしく、また侮辱に満ちた刑なので、ローマ市民に対する十字架刑は禁止されていました。奴隷と辺境の地域の反逆者たちに適用された刑でした。
私たちは考えさせられます。なぜ、神の子イエス・キリストに託された使命は、十字架だったのでしょうか。十字架でなければならなかったのでしょうか。神の子として世に生まれ、人々の間で神の国の教えを説き、癒しの奇跡を行い、人々を神のもとへと導いて、最後は皆の尊敬を集めて静かにその生涯を閉じる、ということがなぜ許されなかったのでしょうか。キリストが最も苦しい死に方へと向かうために、世に来られたのはなぜでしょうか。
ヘブライ人への手紙9章に、その理由が記されています。
「キリストはすでに実現している恵の大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではない、すなわちこの世のものではない、さらに大きくさらに完全な幕屋を雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によってただ一度、聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」
「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神に捧げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」
「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは最初の契約のもとで犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者達が、すでに約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」
モーセが動物の血を契約の書と民全体にふりかけて清めたように、「血を流すことなしには罪の許しはあり得ないのです」
なぜ神の独り子の血が流されなければならなかったのか。しかも十字架で。それは世の罪びとを許し、世の罪びとをご自分の血で清め、神との契約を結ぶためでした。
預言者イザヤは、このことをイエス・キリストの十字架の500年以上前に預言していました。
「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」
私たちは、イエス・キリストの十字架に「栄光」を見ます。この世の支配者たちに負けてしまった罪人として見ることはありません。全ての人間、全ての世の罪びとの罪を背負い、自ら世の全ての痛みを引き受け、神と人の間に新しい契約を打ち立ててくださった、神の子としての栄光を見ます。
敗北に見えるこの十字架こそ神の勝利でした。私たちは、この方が十字架の上で私たちの何を背負ってくださったのかを、預言者の言葉を通して心に刻みたいと思います。この方が担ったのは、私たちの病、この方が負ったのは、私たちの痛みだったのです。このイエス・キリストのお姿に見る十字架の痛みは、私たちの罪の深さを物語っているのです。
「あの時、ゴルゴタの丘で殺された、ナザレのイエスとは一体何者だったのか」
これは、今に至るまで、世に生きる私たちに向けられ、そして聖書を通して答えなければならない問いです。この方は2人の人と十字架にかけられました。ルカ福音書では、二人の強盗が主イエスの両隣で十字架にかけられ、言葉を交わしたことが記録されています。しかし、ヨハネ福音書が焦点を当てているのは、ただその真ん中にいらっしゃるイエス・キリストのみです。
この方の十字架の上には、この方が何者なのか、ということが示されました。ピラトはこの方の罪状を「ユダヤ人の王」と書いた、とあります。そしてそれはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれました。
ヘブライ語はユダヤ人の信仰の言葉です。ギリシャ語は当時の全ての人によって話され、文学や哲学といった文化的な作品にも使われていた言葉です。ラテン語は当時のローマ帝国内の、政治的公用語でした。つまり、当時の世界の全ての人がわかる言葉で、この方が「王」であることが示されたのです。
もちろん、これは嘲りと皮肉を込めて書かれた罪状です。しかし、霊的に意味において、この十字架は世に示された真理でした。不思議な仕方で、イエス・キリストは真の王であることが世に示されたのです。
主イエスを十字架へと上げた人たちは、主イエスのことを本当に「ユダヤ人の王」であるとは考えていませんでした。しかし、その人たちの思惑を超えて、この方が「ユダヤ人の王」であることが示されたのです。
ヨハネ福音書の6章の最後で、主イエスに従おうとしてきた弟子たちの多くが離れ去り、12人だけが残された、ということが書かれています。その際、主イエスは12人に問われました。
「あなたがたも離れて行きたいか」
ペトロは答えました。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」
以前、弟子たちが主イエスに向かって告白したことが、今、十字架の上で示されました。皆、神から離れ去っていくその中で、主イエスはご自分が真の王・真の神の聖者であり、皆の永遠の命のためにご自分が命をお捨てになっているということを十字架の上で示されたのです。
これが、ここまでキリストがご自分に課せられた十字架のことを「栄光の時」と言い続けてこられた理由でした。
キリストがこの世で担われた使命、そしてあの十字架の死の意味を、パウロはフィリピの信徒への手紙に中に記しています。キリスト讃歌と呼ばれている言葉です。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名にひざまずき、全ての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に述べて、父である神をたたえるのです。」
私たちは、ここに描かれているキリストの十字架のお姿に、人間にははかり知ることのできなかった神の壮大な救いと招きと許しの御業を見ます。
12章32節で主イエスはおっしゃいました。
「私は地上から上げられるとき、全ての人を自分のもとへ引き寄せよう」
この十字架こそがその招きの時だったのです。
キリストが十字架に上げられていくそのお姿に、様々な預言の実現を見ます。22節以下には、兵士たちが主イエスを十字架につけてから服をはぎとって分け合った様子がここに記されています。それは詩篇22編19節の言葉の実現であったことを福音書は記しています。
詩編22編は、「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」という言葉から始まる、苦しみの中からの神への叫びの詩です。「骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(19節)と詩人はうたいます。
その言葉はまさに、イエス・キリストの十字架を前もって表現した言葉でした。これ以上ない侮辱と苦痛による死です。
しかし、私たちは今日、覚えたいと思います。詩編22編は、神への苦しみの叫びから、讃美の言葉へと変えられていく詩である、ということ。苦しみの叫びから始まり、最後には、神への賛美を高らかに歌って終わるのです。
「地の果てまで、全ての人が主を認め、御許に立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。・・・私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」
これが詩編22編の最後の讃美の言葉です。
キリストは十字架で私たちの全てを担ってくださいました。その痛みは、この讃美へと私たちを導き入れてくださるためだったのです。