10月16日の説教要旨

使徒言行録13:42~51

「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついてきたので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(13:43)

キリストは弟子達にこうおっしゃったことがあります。

「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

イエス・キリストに従おうとする信仰生活には、必ず逆風が吹く、という前提の言葉です。

キリストの言葉通り、使徒言行禄を読んでいると、キリストの使徒たちは聖霊に導かれて福音を告げているにも関わらず、いたるところで反対されたり迫害を受けたりしているのがわかります。

今日私たちが読んだパウロとバルナバもそうでした。二人は、ピシディア州のアンティオキアという町に行き、ユダヤ人の会堂に入り、安息日の礼拝の中で、イエス・キリストの福音を伝えました。

「聖書で告げられている神の救いの約束は、ナザレのイエスという方を通して実現した」

「その方は死人の中から復活され、神がご自分の下に全ての人をお集めになるために遣わされた救い主・メシアだった」

二人の言葉を聞いて信じた人たちは、二人の後を追いかけてきて、「もっと聞かせてください」「次の安息日にも同じことを話してください」と頼みました。

しかし、次の安息日になると、パウロたちが告げる「主の言葉」を聞こうとやってきた町中の人を見て、一部のユダヤ人たちが嫉みを起こし、パウロたちが話すことに反対したのです。

アンティオキアの会堂では、福音を受け入れ「もっと聞きたい」と願う人たちがいる一方で、パウロとバルナバに話をさせようとしないユダヤ人たちもいたのです。恐らくパウロたちに反対したのは、「ユダヤ人だけは特別に神に選ばれた民だ、異邦人とは違う」いう意識をもっていた人たちでしょう。

彼らはパウロ達に対して、「ねたみ」をもった、と書かれています。これは「熱心」という意味の言葉です。「自分たちユダヤ人こそ、神に選ばれたイスラエルの民であり、自分たちこそ神の御心に従っている民だ」、という「熱心さ」をこの人たちはもっていたのです。だから彼らは、「ユダヤ人でない人たちまでキリストは神の元へと招いていらっしゃる」、と伝えるパウロたちの言葉に対して、熱心に反対したのです。

イエス・キリストが弟子達に前もっておっしゃったとおりでした。「主の言葉」が語られるところでは、旧約の預言者たちが迫害されたように、キリストの使徒たちも、教会もののしられ、悪口を浴びせられ、反対されるのです。

私たちは聖書を読んでいると、福音が語られるところではいつでも、福音を受け入れる人と受け入れない人に分かれる、ということを見ます。そして、福音を受け入れようとしない人たちから、信仰者は反対を受けるのです。

イエス・キリストでさえもそうでした。神の救いの言葉が伝えられる所には必ず反対が起こるということは、イエス・キリストが幼子の時から、聖霊によって示されていたことでもあります。

主イエスがお生まれになってすぐ、母マリアは、幼子イエスを抱いて神殿に参拝しました。そこに、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていたシメオンという人がいました。

シメオンは幼子イエスを腕に抱いて、主イエスの父・母に祝福して告げました。「この子は、反対を受けるしるしとして定められています。」

シメオンがマリアに告げた祝福は奇妙なものだった。

「この子は神の救いを告げることになるから、いいことがたくさんあるだろう」、というのではないのです。「神の救いのために働くことになるこの幼子は、多くの人たちから反対を受けるだろう、この子には逆風が吹くだろう、多くの人の心にある罪がこの子に向かってくるだろう」、と、祝福とは思えないようなことを言うのです。

更にシメオンはマリアにも言いました。

「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」

痛みがこの子を襲うだろう、母であるあなたも心に痛みが与えられるでしょう、というのが、シメオンの「祝福」でした。

その言葉通り、イエス・キリストの公の宣教の生涯を見ると、確かにたくさんの人たちが主イエスに神のお姿を見出し、従いました。しかし最後には、キリストは十字架で殺されてしまうのです。

今、キリストに召されたパウロとバルナバは、同胞であるはずのユダヤ人たちから、キリストの福音を語ることに対して反対を受けました。これは、驚くようなことではないのです。主イエスが以前弟子達におっしゃったように、福音が告げられる所では反作用が起こるのです。だから福音を語る人には痛みがあるのです。キリストへの信仰を持ち続ける、ということには、痛みが伴い続けるのです。そしてその痛みは、キリストご自身が担われたものでした。私たちの信仰生活というのは、そのキリストの痛みに与る、ということなのです。

パウロとバルナバは今キリスト者として、使徒として、イエス・キリストの痛みに倣っています。福音を受け入れようとしないユダヤ人たちにパウロは言いました。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しないものにしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」

このパウロとバルナバの姿は、故郷ナザレでの主イエスのようです。主イエスも、故郷のナザレの礼拝堂で、安息日に聖書の言葉の解き明かしたことがあります。しかし、主イエスのことを少年の時からよく知っていた人たちは、「あのヨセフの息子のイエスが、あんなことを言っている」と言って、受け入れませんでした。主イエスはそのことで「福音・神の救いは異邦人へと向かっていくだろう」とおっしゃいました。

私たちはここに、不思議な逆転現象を見ます。神が初めにお選びになったユダヤ人が、神のメシアを受け入れず、むしろイスラエルの神を求める異邦人が主イエスのことをメシアとして受け入れました。

これはどういうことなのでしょうか。

パウロもキリストと同じ言葉を告げました。「福音は異邦人に向かう」

それでは、神はもうユダヤ人をお見捨てになった、ということなのでしょうか。そうではありません。キリストの使徒たちは、その後もユダヤ人にキリストの福音を伝え続けています。

ロマ書9章の初めでパウロはこう書いています。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの悲しみ、痛みとは何だったのでしょうか。それは、自分と同じユダヤ人たちが、主イエスのことをメシアとして受け入れていない、ということでした。

しかしパウロは、神がユダヤ人をお見捨てになったとは考えません。このユダヤ人たちの不信仰を通して福音は異邦人にまで広がり、やがて、ユダヤ人も異邦人も、全ての人が神の元に・キリストの元に集められるのだ、と書いています。パウロは、壮大な、神の招きの御業を見据えていたのです。

確かに今はイエス・キリストに対してユダヤ人たちは不信仰かもしれません。しかし「ユダヤ人の不信仰を通して神の招きのご計画は進んでいる・教会の成長は進んでいるのだ」、と言うのです。「神のなさることはなんと深いことか」と結んでいます。

今私たちが聖書の言葉を語り、イエス・キリストへの信仰を言い表しても多くの人たちは受け入れないでしょう。

「それは、あなたが信じていることで、私に押し付けないでほしい」

「キリストの救いなどというものを知らなくても、私は生きていけますから」

キリストを受け入れようとしない人たちは、神に招かれていないのでしょうか。教会の礼拝に心を向けようとしない人たちは、神に見捨てられた人たちなのでしょうか。そうではないのです。

使徒ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いています。

「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」「私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」

神は、今福音を受け入れない人、福音を伝える人に今反対している人たちに対して忍耐していらっしゃる、とペトロは言います。イエス・キリストが十字架の上で、御自分を侮辱する人たちの言葉に耐え、「父よ、彼らをお許しください。何をしているのかわかっていないのです」と執成されたように。

私たちキリスト教会は、その神の忍耐・キリストの忍耐に倣います。旧約時代の預言者たちもそうでした。キリストの使徒たちもそうでした。皆、キリストの信仰の忍耐に倣い、その彼らの忍耐が、少しずつ福音の収穫を実らせてきたのです。

忍耐してイエス・キリストの再臨を待つ私たちの信仰の姿を通して、聖霊は福音を広めてくださいます。

パウロとバルナバは、アンティオキアの礼拝堂で、キリストの福音を語りました。礼拝の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と、イスラエルの神を崇める異邦人たちが二人について来て、二人と語り合った。そして「もっと福音を聞きたい」「自分の信仰を確かにしたい」と願いました。

二人は彼らに、「神の恵みの下に生き続けるように」と勧めました。「神の恵み」を知り、忘れない、ということ。それこそ、私たちの礼拝がもっている大きな意味です。

パウロは自分の手紙の中で「神の恵みによって今日の私があるのです」と書いています。「私に与えられた神の恵みは無駄にならない」「働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」

教会を迫害したサウロが、キリストの使徒パウロと変わり、福音宣教のために生涯をささげた・・・そうさせたのは、「神の恵み」なのです。パウロがそのように人生設計をしたのではありません。教会の迫害者が、神の恵みによって、キリスト者となり、キリストのために生きる喜びを与えられたのです。

私たちも同じです。私たちも、「神の恵み」によってキリストを知りました。読書をして、知識を蓄えて、それでキリストを知ったのではありません。キリストが出会ってくださったから、キリストを知ったのです。それが、パウロが言う「神の恵み」です。その「神の恵み」こそ、私たちの信仰の土台です。

「私たちの宣教の業はなんと小さいことだろうか」、と思わされる。「私たちの礼拝はなんと小さいことか。」

しかし、私たちの礼拝が、やがてキリストを求める人たちを受け止め、受け入れることになります。今はまだこの礼拝に来ていない人、福音を知らない人たちは、神がお見捨てになった人たちではありません。私たちは、それらの人たちを受け入れるために、毎週ここで礼拝をし、この礼拝堂の中で福音が語られ続けるのです。

今の私たちの信仰の忍耐と、礼拝の継続が、聖霊によって用いられていきます。神の恵みによって、今の私たちの信仰者としての歩みがあるのです。

今日もキリストを信じて生きること、明日もキリストに向かって祈っていくこと、そのような今の私たちの小さな信仰の歩みがもっている重みをかみしめたいと思います。

反対はあります。

逆風は吹きます。

しかし、それはイエス・キリストが共にいてくださっての逆風です。

神の恵みの下に生き続けていきましょう。