MIYAKEJIMA CHURCH

4月27日の礼拝案内

次週 礼拝(4月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書12:27~36

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番11番、154番、270番、頌栄543

【報告等】

◇5月18日(日)の礼拝に浅草教会の皆さんが訪問してくださいます。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月20日のイースター礼拝説教

ヨハネ福音書12:20~26

イースターを迎えました。この日曜日の朝早く、イエス・キリストは墓の中から復活され、ご自分を見捨てて逃げた弟子達に現れ、神の救いの御業のために働くようもう一度召し出されました。ご自分を十字架で殺したこの世の人々を許し、神の御許へと招くために、ご自分を見捨てた人たちを召し出されたという、この世の価値観では測り知れない、神の招きのご計画でした。

私たちはこの神の招きの不思議に、圧倒されるのではないでしょうか。聖書は、どんなに人間が神に背を向け神から離れてきたか、という罪の歴史を記録しています。そして神が人間の罪の歴史の中でどんなに多くの警告と許しと招きの言葉を、預言者を通して語って来られたかということも書いています。

私たちは特に旧約聖書から、いかに簡単人間が神を忘れ、神以外のものに心を奪われてしまうのか、ということを知ることができます。神の民イスラエルであっても、偶像礼拝や異教の神々になびかず、真の神への信仰を貫いたのはその時代その時代の少数の人たちでした。

その時代の少数の信仰者たちのことを聖書は「残りの者たち」と呼んでいます。文字通り、残り者のように取るに足らない数の人たちが、次の時代へと正しい信仰を残し、不思議とその少数者の信仰は消えることなく守られ、今、ここまで残されてきました。

イエス・キリストが十字架で殺されたことで、キリストへの信仰は途絶えるかと思われました。自分たちが従おうとする先生が死んだのだから、弟子達は、もう自分たちの道は途絶えた、と思いました。しかし、十字架の死から三日目の朝、主イエスの墓が空になっているという知らせを聞いたのです。

あの朝、「ナザレのイエスの墓が空になった」、という知らせがこの世界の歴史を大きく変えることになりました。もしもあの朝、墓が空になったという知らせが弟子達に伝えられなかったとしたら、どうだったでしょうか。今、私たちはどこで何をしていたでしょうか。今頃、何を信じていたでしょうか。自分がやがて迎えることになる肉体の死というものをどう考えていたでしょうか。

復活の希望とか永遠の命とかいう言葉を聞いたとしても、それは非科学的だ、それは夢物語だ、人が描く幻想に過ぎない、と言って、自分の死の向こう側にまで続く信仰の希望を持つことはなかったでしょう。

旧約聖書で書かれているすべてのことが、あの朝のイエス・キリストの復活という出来事に集約されています。そして新約聖書に書かれているすべてのことは、あの朝のキリストの復活がなければ、書き記されることはありませんでした。

今、はるか時代が下って、私たちのような少数の「残りの者たち」と呼ばれるような者たちが変わらずキリストの復活を記念する礼拝を続けているということこそが、聖霊が働いている証拠ではないでしょうか。

ラザロを復活させられた直後のイエス・キリストのお姿を今日は見ていきたいと思います。ラザロを生き返らせたことで、エルサレムの人たちは熱狂的にナザレのイエスへと向かうことになりました。祭司長とファリサイ派の人たちは、このことを危惧しました。過越祭はユダヤ人が自分たちをエジプトから解放してくださったことを記念する祭りであり、ユダヤ人の愛国心が一気に高まる時でした。

自分たちを支配するローマからいつか解放してくれるメシアを待っていた人たちは、ナザレのイエスという人に向かって行きました。死者を生き返らせるなどという大きな奇跡を見たことがなかったからです。

しかし祭司長たちは、そのことでエルサレムの中に混乱が生じ、その結果ローマ人が来て、ユダヤの神殿も国民も滅ぼしてしまうことになるのではないかと恐れました。その不安の中で、大祭司カイアファは「一人の人間が死に、国民全体が滅びないで済む方が、好都合だ」と言いました。イエスを殺して、自分たちの国に波風を立てない方がいい、という考え方です。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とあります。

さらに、ナザレのイエスがラザロを墓の中から起こしたことで、多くのユダヤ人が主イエスのことを信じるようになったので、祭司長たちは復活の生き証人であるラザロも殺そうと考えるようになりました。

ユダヤ人指導者たちの思いとは逆に、ユダヤの人々はどんどんナザレのイエスの方に向かっていきました。結果的にこのことが主イエスを十字架の死へと向かわせていくことになります。

「一つの国が犠牲になるよりも一人の人間が犠牲になればいい」、という祭司長たちの考えは、常識的な考えと言っていいでしょう。人数だけで物事を測るとそうなるのです。犠牲になるその一人がなんの落ち度もない人であっても、一つの国の滅びと天秤にかけると、その人の命は軽く扱われるだろう。理不尽ではありますが、国を守るということならそのような考えになるでしょう。

しかし聖書が証ししているのはユダヤ人指導者たちの計画ではなく、神の救いのご計画が実現していく、ということなのです。たしかに、主イエスの命は十字架で絶たれることになります。しかしそれは一つの国民をローマから救ったのではなく、全世界の罪びとを救うことになった神の救いのご計画の実現であったことを証言しているのです。

祭司長たちの殺意を持った水面下の企みですら、神は不思議な仕方で救いの計画のために用いられているのです。メシアがご自分の命を投げ出して全世界に、神へと立ち返る道を示されることになるという救いの神秘がここにあります。

この時期、エルサレムには過越祭への巡礼に来ていたギリシャ人がいました。当時、ディアスポラと呼ばれる地中海全域に離散して住んでいたユダヤ人がいました。パレスチナ以外の土地に住んでいたユダヤ人たちはギリシャ語を話していました。

しかし、ここに出てきたギリシャ人というのは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちのことではありません。ギリシャ人でありながら、ユダヤ人たちが信じる神に強い関心をもってエルサレムへと巡礼に来ていた人たちです。ユダヤ人たちから見れば完全に「異邦人」です。

使徒言行録には、ギリシャ人たちは何か新しいことを知ろうという強い思いを持って日々を過ごしていたということが書かれています。このギリシャ人たちは、何か新しいことを求め、ユダヤ人たちが信じる神に、聖書に、真理があるのではという期待を持ってエルサレムに来ていた人たちでした。

ギリシャ人たちは、エルサレムの群衆が喜びの叫び声をもって迎え入れたイエスという人を見ました。「あの方は一体何者だろう」、と彼らは「あのイエスという方にお目にかかりたい」と、主イエスの弟子のフィリポに取次を願いました。

主イエスはご自分のもとに連れてこられたギリシャ人をご覧になり、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。これまで、主イエスは「私の時はまだ来ていない」とおっしゃってきました。カナの婚礼でご自分の母マリアに、「私の時はまだ来ていない」とおっしゃり、サマリアの井戸端でサマリア人女性に、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る」とおっしゃいました。そうやって、また来ていない、やがて来るであろう「イエス・キリストの時」があることを示してこられました。

しかし今、ギリシャ人たちがご自分のところに来たのをご覧になり、「時が来た」と宣言されました。それはご自分が「栄光を受ける時」のことでした。

「人の子が栄光を受ける時」とは何のことでしょうか。このあと主イエスがおっしゃった言葉を見ればわかります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

一粒の麦として、多くの実を結ぶために地に落ちて死ぬ時、それが、主イエスに定められた「時」だったのです。主イエスはここまでガリラヤ、ユダヤ、サマリア、エルサレムと宣教を続けてこられました。そして今、ユダヤ世界の外から主イエスを求める人たちが現れました。福音が、神の招きが、ユダヤから全世界へと広がる時が来たのです。

イエス・キリストは死を逃れようと思えば、いつでも逃げることはおできになりました。人間的な栄光の道を選び、群衆に祭り上げられ、地上の栄光を楽しんで生きるという選択肢だってあったのです。しかし、ご自分の地上の栄光ではなく、世界を永遠の命へと導くために一粒の麦として地に落ちる道を選ばれました。その一粒の麦が結ぶ実が、キリストの栄光を表すこととなります。

ロバに乗ってエルサレムに入られた主イエスはご自分を大歓迎した人々に、ご自分の栄光は低い栄光であることを示されました。人間的・地上的・この世的な勝利ではなく、地に落ちる一粒の麦として世に来られたのです。

ご自分の死を通して栄光をお受けになるという神のご計画の不思議がここにあります。ご自分の十字架と復活が、地に落ちた種として神に収穫されることになるのです。

イザヤ書55章

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る言葉も、空しくは私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」

神は、無駄な種まきをなさることはありません。必ず、私たちの思いを超えたところで、福音の収穫を刈り取られることになります。

主イエスは、ご自分のことを「良い羊飼い」とおっしゃいました。ギリシャ人たちは、自分たちの羊飼いの声を聞き分けました。主イエスは「良い羊飼いは、羊のために命を投げ出す」、ともおっしゃいました。これからこのギリシャ人たちはそのことの目撃者となり、証言者となるのです。

最後に、ギリシャ人たちを主イエスへと取り次いだフィリポとアンデレのことを見たいと思います。

フィリポという名前は、ユダヤ名ではなく、ギリシャ名です。彼はベトサイダ出身でした。ベトサイダはユダヤ文化とギリシャ文化の境目にある村です。ギリシャ人たちは、フィリポに取次を頼みやすかったのでしょう。フィリポはユダヤとギリシャを結ぶ役割を果たすことになります。

更にフィリポは彼らのことをアンデレに話し、二人はギリシャ人たちを主イエスのもとに連れて行きました。アンデレは以前にも、五つのパンと二匹の魚を持つ子供を主イエスのもとに連れてきたことがあります。

このように、フィリポとアンデレは、誰かを主イエスのもとに連れていく、という弟子としての役割を果たしました。そしてこの2人の取次が、主イエスに大きな何かをもたらすこととなりました。

フィリポとアンデレの出身のベトサイダは、エルサレムから見たら国の端っこで、もう半分外国のような村でした。しかし、その村出身の彼らが、異邦世界にとっての福音の入り口となったのです。

フィリポとアンデレは、キリストのもとに誰かを導く人たちの姿です。教会へと被とを招き、キリストに取り次ぐ、私たちの姿です。そしてギリシャ人たちは真理を求めてさまよう人たちの姿です。

キリストを求める人々を受け入れる教会の姿がここで象徴的に描かれているのです。イエス・キリストは10:16で「私には囲いに入っていない羊がいる」とおっしゃっています。まだ囲いに入っていない人たち、つまり、今でも、キリストを求める人、キリストのもとに本当に真理があるかどうかを見定めようとしている人がいます。

イエス・キリストの招きの御業は、私たちを通して続けられているのです。復活の主が共にいてくださるからこそ、私たちはその御業のために、用いられていくのです。