11月27日の説教要旨

創世記18:16~33

「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』」(19:26)

アドベントに入ったので、しばらく旧約聖書を見ながら、イエス・キリストがお生まれになった意味を考えて行きたいと思います。

今日私達が読んだのは、創世記の、アブラハムと神との間に交わされた、ソドムの町の滅びに関しての駆け引きの場面です。アブラハムが99歳の時のことです。

少しこの出来事の文脈を踏まえておきます。

ある日、アブラハムが天幕の入り口に座っていた時、ふと目を上げてみると、三人の人が立っていました。アブラハムは「私のところに立ち寄ってください」と言って、この旅人たちをもてなしました。

3人の旅人たちの一人がアブラハム向かって言いました。「私は来年の今頃、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」すぐ後ろの天幕でそれを聞いたサラは、ひそかに笑いました。「そんなこと、あるはずがない」、と思ったのです。

旅人は、アブラハムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と言いました。どうやら、この旅人の言葉は、主なる神の言葉だったようです。

「なぜサラは笑ったのか」という言葉を聞いて、サラは恐ろしくなり、「私は笑いませんでした」と言いましたが、旅人は、「いや、あなたは確かに笑った」と断言しました。

年を取ったアブラハムとサラに子供が生まれると告げられたのは、これが最初ではありませんでした。

15章では、「私には子供がありません」と言うアブラハムに向かって、神が「あなたから生まれる者が後を継ぐ」とおっしゃって満天の星をお見せになり、「星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこうなる」とおっしゃっています。

17章17節でも「私はサラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」とおっしゃっています。アブラハムはその時ひれ伏してその言葉を聞きましたが、サラと同じようにひそかに笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか。」

神は、アブラハムとサラに繰り返し、「あなたがたに男の子が生まれる」とお告げになって来たのです。しかしそれを聞いてもアブラハムもサラも、ひそかに笑って信じてこなかったのです。

やがて、旅人たちが告げたように、アブラハムとサラの間に男の子が生まれることになりました。創世記21章まで読むと、そのことが書かれています。旅人たちは、「主に不可能なことがあろうか」と言ったとおり、神はご自分にできないことはない、ということをアブラハムを通して示されたのです。

男の子にはイサクという名前がつけられました。イサクとは、「笑い」という意味の名前です。

アブラハムとサラは、神の言葉を笑って来ました。「あざ笑ってきた」と言ってもいいのではないでしょうか。たとえ神がそうおっしゃったとしても、「年を取った自分たちに子供が生まれるはずはない」と、神の言葉を鼻で笑って来たのです。

しかしイサクの誕生は、二人の笑いを変えました。「そんなことはありえない」という不信仰の笑いが、「真に神がおっしゃったことは真実だった、神にできないことはない」という信仰の笑いへと変えられたのです。

神を信じず笑う者が、信仰の喜びに笑う者へと変えられていく様子が、この創世記には記録されています。

この一連のアブラハムとサラの物語を通して考えさせられるのではないでしょうか。私達の信仰の姿勢というのは、神の前に自分がどのような笑いをもっているか、ということなのではないでしょうか。

神を疑い、信仰をあざ笑う「不信仰の笑い」というものがあります。一方で、聖書の言葉が真理であることを知って、本当に聞くべき方の言葉・従うべき方を見出して喜びに満たされた「信仰の笑い」もあります。

私達は今、神の御前に、どのような笑いをもっているでしょうか。

このアブラハムとサラの夫婦の間に与えられた喜びの笑い共感できるのであれば、私達は、イエス・キリストがこの世にお生まれになった喜びに笑うことが出来るでしょう。

どうして我々はクリスマスの喜びを知るために、クリスマスの本当の意味を知るために旧約聖書を読むのでしょうか。実は聖書の初めにある創世記に、すでにキリストの誕生の喜びの原型ともいうべき出来事が描かれているからです。逆に言えば、旧約聖書を見なければ、クリスマスの本当の意味、本当の喜びを知ることはないのです。

キリストがお生まれになる何百年も前から、神は、全ての人を御自分のもとへと連れ戻すために導く大牧者・メシアの到来を預言して来られました。アブラハムに、「来年の今頃、サラは男の子を産むだろう」とおっしゃったように、「やがて、イスラエルの大牧者が生まれ、その者は全ての人の罪を背負うだろう」と告げて来られました。

そして今、キリストの誕生という信じがたいことが起こったのです。「信じられないと言ってあざ笑う人」が、イエス・キリストに出会う時、「神の言葉は真だった」、と信仰の笑いを知るようになります。クリスマスとは、そういう出来事なのです。

アドベントに入った今日、そのことを、改めてアブラハムと神とのやりとりの中に見て行きたいと思います。

さて、今日読んだのは、アブラハムとサラの間にまだイサクが生まれていない時、まだアブラハムが神の言葉を心から信じ切れていなかった時のことです。

アブラハムが3人の旅人をもてなし、これからその三人の見送ろうとした時のことでした。

聖書は、この三人の旅人が一体何者なのか、はっきりとは書いていません。22節には、二人の旅人がソドムに向かって行ったが、一人が後に残ってアブラハムと話をした、その一人が、主なる神であった、ということを書いています。

はっきりした書き方ではありませんが、三人のうちの一人が神であった、という書き方です。その旅人は「私は神だ」とは言っていませんが、アブラハムはこの方は主なる神であるとうっすら分かっていたようです。

神はアブラハムの元を去るに当たり、思いを巡らしていらっしゃいます。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」アブラハムに何も言わずにソドムに向かうか、それとも、これからどこに行って何をしようとしているのかを伝えるか、神はここまで迷ってこられたようだ。

神は御自分の計画をアブラハムにお話になった。

「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

神はアブラハムに、御自分がこれからソドムの町がどんな様子なのかを見に行く、とおっしゃいました。ソドムで実際に何をするか、ということははっきりおっしゃっていない。しかし、アブラハムには神がそこで罪に対して滅びの業を行われるだろう、いうことが分かりました。

ソドムの町にはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいるのです。アブラハムは驚いたでしょう。

神は、ご自分の旅の目的をアブラハムに告げると当然心配する、ということがわかっていらっしゃいました。だから、アブラハムにご自分の計画を告げるべきかどうか迷われたのです。しかし、アブラハムはご自分の裁きの計画を知るべきだ、と判断されました。

その理由が、17節で言われています。神がこの世にお与えになろうとする祝福は、アブラハムを通して与えられる、アブラハムは自分の息子、子孫に神の正義を伝え、主の道を守らせることになります。神がおっしゃる「主の道」は、神の裁き・滅びとと無縁の道ではありません。むしろ、神の裁きへの恐れを知って歩むべき道なのです。

だから、アブラハムは神の御心を深く知っておかなければならなかったのです。

神は、「罪を訴える叫び」を聞かれた、とおっしゃっています。この「叫び」という言葉は、元のヘブライ語では法律用語で、「不正義に苦しむ人が助けを求める叫び」のことを意味します。

この場面を表面的に読むと、神は滅びを行われる恐ろしい方だ、というような印象を受けるでしょう。しかし、丁寧に読むと、苦しみの中にあって正義を求める人々の叫びに応えて、出向いて行かれるお方である、ということがわかります。

私たちは出エジプトを思い出すことができるでしょう。神はエジプトで奴隷としての苦しむイスラエルの人々の叫びを聞かれました。その叫びにお応えになって、エジプトからの解放という救いの業、出エジプトの恵みが与えられたのです。そのようにして、神はご自分を求める人たちの「叫び」を聞かれる方なのです。

神は、人々の救いを求める叫びを聞いて、人の姿となり、旅人としてアブラハムの元に来られ、ソドムへと向かって行かれました。そして今、神は人々の祈りの叫びを聞かれ、人となってこの世にお生まれになってくださいました。それがイエス・キリストの誕生、クリスマスです。

今日私たちが読んだのは、創世記です。創世記に書かれているからと言って、それを太古の昔の出来事で、自分とは遠い出来事だ、ということではありません。人の叫び、祈りに応えてそこへとご自分が向かって行かれる神のお姿、それこそ私たちが生きている現実そのものです。そしてそれは祈り求める私たちに向かってくださるイエス・キリストのお姿でもあるのです。

そうして見ると、神に向かって叫び続ける私達の祈りは決して無駄ではない、ということがわかるのではないでしょうか。

さて、23節を見ると、アブラハムは「進み出て言った」とあります。相手が神であると分かっていても、あえて前に出て質問しました。甥のロトたちがソドムにはいるのです。どうしても聞かなければなりませんでした。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」

これはアブラハムだけでなく、信仰者であるなら、いや、信仰者でなくても、神に直接質問したいことではないでしょうか。

これに対する神の答えを、私達は注意して読まなければならないと思います。

神は「悪い人々と一緒に善い人々も滅ぼすのですか」、という質問に対して「善い人たちのために、悪い人たちも赦す」とおっしゃいました。神は「善い人たちは助けて、悪い人たちだけを滅ぼす」とおっしゃったのではありません。「善い人たちの信仰ゆえに、悪い人たちも赦すだろう」とおっしゃったのです。

アブラハムは、「正しい人が50人ではどうですか、45人ではどうですか」と尋ね続け、最後に「10人ではどうですか」と言いました。神は「その10人のために、滅ぼさない」とおっしゃいました。

10人の信仰者が、町の残りの人たちを滅びから救うことになる、ということです。それが、神のご計画でした。

この10人というのは、当時の家族の単位であった、と考えられます。アブラハムの頭の中にあったのは、ロトの家族でしょう。せめてロトの家族10人が、神の言葉に従い、正しく生きていれば、ソドムは救われる、というのです。

神のこのお考えを見ると、なぜイエス・キリストが私たちに「あなたがたは地の塩である」とおっしゃったのか、わかるのではないか。キリストは「この世全てを塩にしなさい」とはおっしゃっていません。

今、私たち少数の信仰者が、小さな教会が、この世全体に味付けをする塩として用いられるのです。私たちの小さな信仰が、小さな信仰の群れが、私たちの祈りの叫びが、神による裁きの滅びをこの世から遠ざけている、と言っていいのではないでしょうか。

それは決して大げさな話ではないのです。神がアブラハムにおっしゃったように、「10人のために私は滅ぼさない」とおっしゃいました。私達一人一人が、その「10人」の中に入っています。私たちの信仰生活は、この世界の中で確かに意味をもっている。教会という小さな信仰の家族ゆえに、この世に対する裁きを神は待ってくださるのです。

聖書、特に旧約聖書では「残りの者」という言葉がよくつかわれています。「残りの者たち」と呼ばれるほど、イスラエルは小さな信仰の群れでした。神はその「残りの者たち」を通して、救いの御業を示してこられました。

今、キリストを信じる人は少ないかもしれません。本当の意味でクリスマスを知る人も少ないかもしれません。しかし、私たち小さな群れの祈りの叫びを神は確かに聞きあげ、近くに来てくださいます。今も信仰の笑いへと導かれていることを思い、インマヌエルの恵みをかみしめたいと思います。