使徒言行禄12~22
「『神の御心ならば、また戻ってきます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。」(18:21)
神は、教会の迫害者であったパウロをキリストの使徒として召し出す時、こうおっしゃいました。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」使徒言行禄 9:15
教会の迫害者サウロは、「神の名のために苦しむ器」として召し出され、使徒パウロとなりました。神に選ばれる、ということは、特別に「いい思い」をさせてもらえる、ということではないことがわかります。むしろ、神に召し出されるのは、神のために苦しみながら働くためなのです。
このことは、パウロだけでなくキリストの使徒たち、そしてキリスト者にも言えることでしょう。パウロ自身、キリストに従う人たちに、「神の国に入るには多くの苦しみを経なくてはならない」と言っています。キリストに従う、ということは、キリストのために、キリストと共に苦しむということでもあるのです。
パウロは、教会を迫害する者から教会のために迫害される者となりました。わざわざ、「苦しめる側」から「苦しめられる側」に回りました。なぜ、自ら進んで苦しい道を歩み始めたのでしょうか。私たちはパウロの姿に、信仰の不思議を見ます。
パウロや、キリストのために厳しい道を行く他の使徒たちの姿や、迫害を受けながらもキリストに従い抜こうとする教会の姿を通して、今自分を導いている力の不思議を考えさせられると思います。
パウロたちはここまで、聖霊によって導かれてきました。異邦人教会の拠点であったアンティオキア教会を出発し、アジアの町々を巡り、ヨーロッパ大陸にまで導き入れられました。ヨーロッパに渡ってから、フィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリントとめぐって来ましたが、パウロ、シラス、テモテは、どの町でもキリストの名のもとに迫害を受け、追い出されてきました。
しかし、そのような迫害の中で、イエス・キリストを信じるようになった人たちもわずかに与えられてきたのです。福音を聞いた人たちが皆感動して、大勢の人が信じるようになり、いきなり大きなキリスト教会ができた、というのではありません。迫害の中で、わずかにキリストを受け入れる人たちが与えられ、その少数のキリスト者たちがパウロたちがいなくなっても信仰に留まり、キリストの使徒たちのようにキリストのために共に苦しむ道を選んでいきました。その小さな群れが教会の芽生えとなっていったのです。
信仰に留まり、キリストの名を抱いて生き抜いた信仰者たちの足跡が、神の国を求める人たちにとっての道しるべとして残っていくことになりました。使徒たち、キリスト者たちのその時代、その時代の信仰の痛みは無意味なものではなかったのです。キリスト者たちの小さな信仰の歩みは、確かに神の国へと続く道に足跡を残し、後から来る人たちの道しるべとなっていきました。キリストの十字架の痛みが神殿の垂れ幕を真っ二つに割いて神の国への道を拓いたように、キリスト者の信仰の歩みが、神の国への道筋を、それぞれの時代で示すことになっていったのです。
今日私たちが読んだ場面でも、使徒たち、また教会の人たちが受けた困難を見ることが出来ます。パウロはコリントの町に腰を据えて、1年6ヶ月福音を伝えてきました。コリントは、ギリシャのアカイア州の首都です。ここはローマの地方総督が駐在するところでした。
コリントの町に、新しいローマ総督ガリオンが着任しました。するとユダヤ人の一団がパウロを襲い、コリントに新しくやって来たローマの総督に訴えました。ガリオンがコリントにいた時期を踏まえると、今日読んだ出来事は、紀元51年ごろに起こったことと考えられます。
パウロは、同胞であるユダヤ人たちによって訴えられました。ユダヤ人たちは、「ナザレのイエスこそ、聖書が到来を預言して来たメシアである」、と言うパウロを信じることが出来なかったのです。「十字架で殺されるような者がなぜメシアなのか。しかもそのイエスは墓の中から復活した、などと言っている。そんなことを自分たちの会堂の近くでいいふらしている。危ない思想だ」・・・そういう思いだったでしょう。
コリントの町に住んでいたユダヤ人たちは、総督ガリオンに向かって、「この男は、律法に違反するような仕方で神を崇めるようにと、人々をそそのかしております」とパウロを訴えました。「ローマ帝国内では許されない信仰だ、帝国を転覆しようとしている、新しい王を立てようとしている危険思想だ」ということです。
当時のローマ皇帝は、ユダヤ人に対していい感情を持っていなかったようです。紀元49年、ローマ皇帝は、ローマの町からの「ユダヤ人を追放令」を出したばかりなのです。ユダヤ人たちは、パウロをローマ帝国にとって危険な人物として逮捕させようとしました。
しかし、ローマ総督ガリオンは、彼らの訴えを聞いても関わろうとしませんでした。「問題がユダヤ人の教えとか律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい」と冷たくあしらうのです。それはユダヤ人共同体内部の問題であり、ローマ帝国の問題ではない、「私はそんなことの審判者になるつもりはない」と取りありませんでした。
結局ユダヤ人たちは、訴えを聞いてもらえませんでした。彼らは自分たちのうっ憤を晴らすために、パウロたちに自分の家を礼拝の場として提供していたソステネという人をつかまえ、法廷の前で殴りつけました。
私たちはこの場面を通して、イエス・キリストの裁判を思い出すことができるのではないでしょうか。主はユダヤ人に捕らえられ、「律法に反している」と言われ、ローマの権力の元へと引っ張って行かれました。「この者はユダヤ人の王であると自称した危険人物だ」とユダヤ人たちが訴えても、総督のポンテオ・ピラトは相手にしませんでした。ここでのガリオンは、その時のピラトのようです。キリストの使徒パウロは、裁判にかけられた際のキリストに重なって見えます。
私たちは、ここに教会が背負う十字架を見ます。主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」とはっきりおっしゃいました。キリスト者・教会には、この世で自分たちが背負う十字架があるのだ。
なぜキリスト者はこの世から迫害を受けるのでしょうか。何も悪いことをしていないのに。ただ、キリストがおっしゃった「神を愛し、隣人を愛する」という律法を守ろうとしているだけなのに。ただ、キリストに向かって祈り、礼拝しているだけなのに。
私たちは何か悪いことをしているから迫害されるのではない。ただ、「キリストのために」迫害されるのです。キリストを信頼し、キリストが示してくださった道を行こうとしている・・・ただそれだけで迫害されることになるのです。
なぜでしょうか。キリストを憎み、キリストを恐れる力があるからです。イエス・キリストを憎み、神から私たちを引き離そうとして、神の国を見えなくさせる罪の力があります。罪の誘惑の力が一番に襲うのは、教会であり、キリスト者です。キリスト者として生きる、ということは、実は、一番この世の誘惑の逆風を強く受けるところを歩く、ということなのです。
旧約の預言者たちがそうでした。キリストの使徒たちがそうでした。代々の教会がそうでした。彼らはそれでも、神が共にいてくださって逆風の中を歩みぬいてきたのです。
さて、コリントの町でこのような苦難があったパウロですが、この後、コリントの町を去ることにしました。これ以上そこにいたら暴力が広がることを心配したのでしょう。そして宣教の拠点であるアンティオキアに一度戻ることにしました。パウロとシラスがアンティオキアを出発して3年が経過していたので、一度戻って、宣教の報告をしようと考えたのでしょう。
コリントの町でパウロの生活と宣教を支えたプリスキラとアキラも同行することになりました。この時から、この夫婦は、キリストの使徒としてパウロと共に働くことになります。
パウロはアンティオキアに戻る際、コリントのすぐ近くのケンクレアイの町で、「誓願を立てていたので髪の毛を切った」、とあります。男であれ、女であれ、特別の誓願を立てて神に自分を捧げる人のことをナジル人と呼びますが、パウロは恐らく「ナジル人」として神を伸ばしていたのでしょう。おそらく、この旅の間、神のために、キリストのために自分を捧げ尽くす、という誓願を立てていたのでしょう。
パウロは最初の宣教旅行でも、いろんな町で迫害を受けました。それにもかかわらず、二度目の宣教旅行に出かけました。いろんな嫌な思いをしながら、なぜパウロはそこまでキリストのために働くことが出来たのでしょうか。
旧約聖書にエレミヤという預言者のことが書かれています。エレミヤは、若い時、20歳になるかならないかぐらいの時に、神に召されました。エレミヤは神から呼びかけられるとこう言いました。
「ああ、わが主なる神よ。私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」
しかし神はおっしゃいます。
「若者に過ぎないと言ってはならない。私があなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることを全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」
神は繰り返しおっしゃいます。
「私があなたと共にいて、救い出す」
エレミヤは迫害に苦しみながらイスラエルの人たちに神の言葉を伝え続けました。彼はある時、こう叫びました。
「主の言葉ゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして私は疲れ果てました。私の負けです」
エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれる人です。神の言葉を伝えることは苦しかった、しかし、やめることはできなかったのです。
パウロも同じだったのではないでしょうか。パウロはあのまま教会の迫害者として一生を過ごした方が、楽に生きられたでしょう。しかし、パウロはイエス・キリストに出会いました。そのことでキリストのために苦しむ道を歩み始めました。
私たちはそのパウロの歩みをどう思うでしょうか。「立派だ、自分には真似ができない」と思うでしょうか。
パウロ自身は、自分の手紙の中でこう書いている。
「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」
私たちは日々祈り、主日には礼拝しています。それは「誇るべきこと」でしょうか。祈ったり礼拝したりするほど立派な人間である、ということでしょうか。そうではないでしょう。祈りのない生活、礼拝のない生活、キリスト無しの生活の方が、自分にとって辛いから祈り、礼拝するのではないでしょうか。私たちは自分自身を誇るためにキリストに従っているのではないのです。祈り・礼拝のない生活に耐えられないほど弱いのです。
パウロは「誇る者は主を誇れ」と言っています。私たちに信仰の誇りがあるとすれば、「自分の立派さ」ではなく「神の子イエス・キリストがこのような自分のために死んでくださった」ということではないでしょうか。「私は神に愛されている」というのが私たちの誇りではないでしょうか。
パウロはアンティオキアに戻るのに、エフェソを通り、エルサレムに立ち寄りました。他の教会の人たちに、ヨーロッパでの自分の宣教の様子を報告したのでしょう。パウロはただ、福音を伝えるだけでなく、教会同士、キリスト者同士のつながりを強めるためにも動いていた、ということがわかります。そして次の旅へ、また次の旅へ、と導かれていくのです。
「キリストと共に生きる」喜びの道へと新しい人を招き、キリストと共に生きる人同士のつながりを強める・・・私たちの日々の小さな祈りの生活はそのために用いられています。私たちは旧約の預言者や、キリストの使徒たちのように、日々新しい旅へと召されているのです。