ヨハネ福音書1:43~51
「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)
アンデレとペトロをご自分の弟子として召された翌日、主イエスはエルサレムやベタニアのあるユダヤ地方から、北のガリラヤ地方へと向かわれました。その途中、フィリポという人に会い、「私に従いなさい」と御自分の弟子へと召されました。
前に、「弟子のアンドレは誰かを主イエスの下へと連れて行く人だった」、ということをお話ししましたが、このフィリポも同じです。福音書を読んでいくと、フィリポとアンドレはいつも、一緒に誰かを主イエスのもとに連れて行く役割を果たしていることがわかります。
フィリポも、アンドレも、ギリシャ名の人です。2人とも、「ユダヤ人だから」「ギリシャ人だから」というような人種や民族の分け隔てをすることなく、誰かを着やすく主イエスの下に連れて行く社交的な人だったようです。
キリストに召し出されたフィリポは、自分の友人のナタニエルに会って言いました。
「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
この言葉からすると、フィリポは、モーセの律法や預言書の言葉、つまり旧約聖書の言葉をよく知っていた人だったのでしょう。フィリポの友人の「ナタニエル」はヘブライの名前です。「神がお与えになった」、という意味の名前です。
ナタニエルは、「神がお与えになった」という名前でしたが、「神がお与えになった」恵みを、フィリポのように素直に見ることが出来ませんでした。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
ナタニエルには、フィリポやアンドレのように、ユダヤ人・ギリシャ人に関係なく物事を見る感覚はなかったようです。
ガリラヤ地方は神の都エルサレムからはるか北にあり、外国との境に接していました。
イスラエルの中心から地理的に遠く離れた田舎でした。イザヤ書では、「異邦人のガリラヤ」という言葉で呼ばれたりしている。
なぜナタニエルがそんなことを言ったのかというと、自身がガリラヤの出身だったからです。21:2で、彼はナザレよりも北にあるカナの出身であったことが書かれています。
自分自身がガリラヤの人間であったからこそ、到来が預言されて来たメシアがガリラヤから出るはずがない、と思っていたのです。彼はガリラヤがどんな土地かよく知っていました。自分と同じ地平からメシアのような神聖な存在が出てくるはずがない、と思っていたのです。
ナタニエルの見方は、一般的なガリラヤの人が持っていたものだったでしょう。メシアがガリラヤの大工の家に生まれるなどということは考えられませんでした。エルサレムの祭司階級に生まれ、大祭司となって民衆を導くようなメシアなら理解できたかもしれません。もし神が特別なものをお与えになるのであれば、もっと特別な場所に、特別な家に生まれるだろう、と考えていたのでしょう。
この福音書は初めに、「万物をお創りになった神が、人となって世に来られた」、ということを書いています。神が我々と同じ場所に生まれ、生活されるということは確かになかなか想像がつかないでしょう。誰だった、神がその辺を歩いていらっしゃるような光景を想像できません。
当時の人たちにとって、神がガリラヤの大工の家にお生まれになったということは躓きとなりました。「あの人は大工のヨセフの子ではないか」と、そこで人々はキリストに近づくことをためらってしまうことになるのです。6:42
ナタニエルもその1人だった。
ガリラヤのナザレへの偏見をもって話しを聞こうとしないナタナエルを、フィリポは自分の言葉で説得しようとはしませんでした。彼がしたのは、「来なさい、そうすればわかる」と、主イエスご本人の下へと連れて行くことでした。
そのイエスという人がキリストであることを知るには、言葉を尽くした説明ではなく、ご本人のもとに連れて行くしかないのです。
ナタニエルはフィリポに付いて行きました。「キリストに会いたい」と思ったからではないでしょう。「ナザレからメシアが出ることはない」という自分の考えが正しいことを知るためでしょう。
しかし、ナタナエルは驚くことになります。主イエスは、初めて会ったはずのナタニエルに「あなたはイチジクの木の下にいた」とおっしゃいました。「イチジクの木の下にいた」というのは、「律法を学んでいた・聖書を読んでいた」ということです。当時の律法の教師たちは、イチジクの木の下で生徒に聖書の言葉を教えていたのです。
キリストはイチジクの木の下にいたナタナエルの姿に、「真のイスラエル人だ」とおっしゃいました。真剣に神の言葉を求めていたことを見抜かれたのです。ナタニエルは既に自分が見られ、心の内まで知られていたことを知り、疑いを捨てて信仰を告白しました。
私たちは、神が自分のことを自分以上によく知っていらっしゃることを知った時、驚きます。そして私達が神を信じる以上に、神が私達を信頼してくださっていることを知った時、自分の常識が砕かれ、信仰の道を見出すのではないでしょうか。
イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の説教の中で、こうおっしゃっています。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」
キリストは聖書の言葉を求めて学びを続けているナタナエルに必要なものを既にご存じでした。主イエスは「そのままイチジクの木の下で聖書の学びを続けなさい」とはおっしゃいませんでした。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と、御自分に従う信仰の道をお与えになったのです。
ナタナエルは、自分がイチジクの木の下にいた、という、自分しか知らないことを知っていたイエスという方に信仰を告白しました。
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」
しかしキリストはナタニエルの信仰告白に対して「まだあなたは何も見ていない」とおっしゃいました。信仰は、何か驚くべきことを見て終わりではないのです。何かを見るために歩み続けるのが信仰です。信仰の歩みの上で、信仰者は更に大きな奇跡を見ていくことになるのです。
キリストに従うということは、キリストの偉大な知識や能力、奇跡に驚いて完結することではありません。この方の後に付いて行く先で、この方が見せてくださることを見続けるということなのです。
私達はキリストに従う先で何を見せていただくのだろうか。
「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる」1:50
「天が開け、神の天使たちが上り下りする」、という言葉で思い起こすのは、創世記28章に記されているヤコブの夢です。兄エサウを騙して怒りをかったヤコブは、家から逃げ出しました。兄から逃げる途中、ヤコブは野宿をしました。
その際、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、神のみ使いたちがそれを昇ったり下ったりする夢です。ヤコブはその夢の中で神の祝福の声を聞きます。
「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
兄を騙し、父親も欺いて、家から逃げることになったようなヤコブに、神は守りを約束されました。私達は創世記を読む際、「どうして神はヤコブのような人を追いかけて守ろうとなさるのだろうか」と不思議に思うでしょう。神の選びということは、私達にとっては不思議です。
ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」
これこそ、ナタニエルが思ったことでしょう。自分の目の前にいる人はナザレの村の出身で、ヨセフという大工の家に育った人でした。そんな人が、メシアであるはずがない、と思っていました。しかし、主イエスはそのように考えていたナタニエルを見出し、「真のイスラエル人だ」と言ってくださいました。ナタナエルは主イエスに出会い、「まことにメシアが私の目の前にいらっしゃるのに、私はわからなかった」と思ったでしょう。
その思いは、キリストを初めて知った際の私達の思いそのものではないでしょうか。
「キリストが今まで私を追い求めてくださっていたのに、私は知らなかった」
自分のために命を捨ててくださった方がいたのに、私は気づかなかった・・・それが私達の悔い改め・立ち返りの初めではなかったでしょうか。
私達は命の終わりまで・世の終わりまでキリストの後に付いて行った先で、天が開けるのを見ます。キリストが弟子達に「私は道であり真理であり命である」とおっしゃったのはそういうことでしょう。ヨハネ福音書は、最初から終わりまで、イエス・キリストこそ天の国への道であるということを証ししています。
逮捕される夜、キリストは弟子達の足を洗われました。その際、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。・・・言ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える」とおっしゃいました。
それを聞いて弟子のトマスは「どうしてその道を知ることが出来るでしょうか」と言います。それに対して主イエスはこうお答えになりました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない」
父なる神の元・・・それが私達の信仰の目的地です。そしてその道こそ、イエス・キリストなのです。だから、我々はキリストの後ろを生きるのです。
キリストは、最初アンデレに「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいました。次にガリラヤで出会われたフィリポには「私に従いなさい」とおっしゃいました。
私達はそのようにキリストを知っていくのではないでしょうか。
「イエスという方の下に行ってみよう、そうすればわかるかもしれない」
そして「この方に従おう。この方に付いて行こう」という信仰の決断になっていくのです。
ヨハネ福音書を最後まで読むと、キリストがペトロに「私に従いなさい」とおっしゃるところで終わっています。「あなたは、私に従いなさい」という言葉です。他の人がどうなのか、ではなく、「あなたは、私に従いなさい」、とキリストはおっしゃっています。
この福音書の最後で記されている「あなたは、私に従いなさい」というキリストの言葉は、ご自分を「知らない」と言って見捨てたペトロに向けられたものです。初めて会う人に言った言葉ではありません。ご自分を見捨てた弟子を許してもう一度信仰の道へと招かれる言葉です。
兄を騙したヤコブに、「私はあなたと共にいる。あなたを見捨てることはない」と神がおっしゃったように、キリストはご自分を捨てたペトロを招かれました。
イザヤ書にメシアの受難の預言がある。
「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された」
メシアは何のために十字架に上げられ、釘で打ち付けられたのでしょうか。私たちを癒すためです。「キリストを知らない」と言い、キリストを見捨ててしまう私たちの罪の痛みを、キリストは御自分が全て担うために、ゴルゴタの丘へと歩んでくださったのです。
旧約の預言者ゼカリヤが、メシアが来るときの幻を書き残している。
「主のみ使いは・・・言った。・・・『私は、今や若枝であるわが僕を来させる。・・・そして一日の内にこの地の罪を取り除く。その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうとイチジクの木陰に招きあう』」ゼカリヤ3章
今、私たちにとって「イチジクの木陰」は、キリストです。キリストの下で、信仰の友、信仰の兄弟姉妹・信仰の家族はいつもつながっているのです。ナタニエルの招きに、このことを学びたいと思います。