ヨハネ福音書6:22~35
「私がその命のパンである。私のところに来る人は決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」(6:35)
御自分を追いかけて来た群衆に、イエス・キリストが教えを示されている場面を読みました。
神の業とは何か?
天からのパンとは何か?
無くならない食べ物とは何か?
ヨハネ福音書を見ると、いろんな人たちが、キリストのしるしを見たり、体験したりしています。キリストからしるしを見せられた人々は、そのしるしを通して心を天に向けることを促されています。
しかし、キリストのしるしを見た人たちが皆主イエスのことをキリストであると信じるようになり、信仰の群ができていったか、というとそうではないのです。見せられたキリストのしるしを、世の人々はどのように見たのでしょうか。与えられたキリストの言葉を世の人々はどのように聞いたのでしょうか。どれだけの人が主イエスのことを神の子として信じるようになったでしょうか。反対に、どれだけの人が、自分勝手に解釈したり、信じたいように信じたのでしょうか。
しるしを見せられても、言葉を与えられても、全ての人たちが信じたわけではありませんでした。信じなかった人たち、また信じたとしても誤った信じ方をした人たちの姿が福音書にはありのままに記録されています。
これまでも何人かそのような人たちが登場しました。3章ではニコデモという人が出てきます。
「人は上から生まれなければ神の国に入ることはできない」という主イエスの霊的な言葉を、ニコデモは理解することができませんでした。「なぜそんなことがありえるでしょうか」と答えています。イスラエルの教師でありながら、ニコデモは目の前に現れた神の子の姿を正しく捉えることはできませんでした。
4章では主イエスとサマリア人の女性との会話が書かれています。水くみに来た女性は、「私には尽きることのない命の水がある」という主イエスの言葉を聞いて、「もう水くみに来なくてもいいように、その水をください」と言いました。女性もまた、ニコデモと同じように、主イエスの言葉の表面だけを理解したのです。
しかし、ニコデモもサマリア人女性も、時間をかけて主イエスの霊的な言葉を少しずつ理解していきました。そのように、主イエスに出会った人は、「この方は何者か」ということを、考えさせられることになるのです。そして、しるしと言葉を通して、「この方はメシアだ」という信仰に至るか、「そんな話は聞いていられない」とキリストに背を向けるか、というどちらかの道を選ぶことになっていきます。
山の上から主イエスを追いかけて来た群衆は、どうだったでしょうか。見ていきましょう。
いつの間にか主イエスと弟子達の一行がいなくなったことに気づいた群衆は、主イエスを探し求めて、湖の反対側のカファルナウムまで追いかけて来ました。群衆は主イエスに尋ねます。
「いつここに来られたのですか」
この言葉の中には「なぜ私たちから離れたのですか」という思いも含まれているでしょう。
彼らにはまだ主イエスによって五つのパンと二匹の魚によってお腹いっぱいにしていただいた興奮が残っています。せっかく自分たちの王様になってもらおうとしているのに、どうして自分たちから離れるのか、ということを不思議に思っているのです。
彼らは主イエスのことを、ニコデモが初めそう呼んだように、「ラビ」と呼んでいます。偉大な聖書の教師として見ているのです。同時に、主イエスのことを「やがて来ると預言されていた預言者」と信じ、「この方に自分たちの王様になってもらおう」と願っていました。
「ラビ、いつここに着かれたのですか」という群衆からの質問に対して、主イエスはお答えにならなっていません。むしろ、彼らの質問については全く無視されています。「どうして私たちから離れるのですか。せっかく王様にしようと思っているのに」という人たちの期待に対して、全く応じていらっしゃいません。
主イエスは彼らの心の中に何があるのかをはっきりおっしゃいました。「あなた方が私を求めるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。」
「自分の都合で私を求めているだけではないか」と痛烈な指摘です。ニコデモも、サマリア人女性も、初めは自分たちの目に見える範囲で主イエスの言葉を理解し、主イエスのお姿を捕らえようとしましたが、ここでの群衆も同じです。
主イエスは「無くなっていく食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさい」とおっしゃいました。「君たちは私に求めるものを間違っている。私は地上の王になりたくて業を行ったのではない」ということを、この言葉を通して示されます。群衆を霊的な理解へと導こうとされるのです。
イザヤ書にこういう神の呼びかけの言葉がある。
「渇きを覚えている者は皆水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。・・・なぜ・・・飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良い物を食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、私の下に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」
主イエスが山の上で5000人に行われた奇跡は確かに群衆を満腹させました。しかし、その時パンと魚を食べた人たちは、時間が経つとまたお腹が減るのです。群衆は奇跡をおこなわれた主イエスよりも、自分たちを満たしたパンと魚を欲していました。そのことにはまだ気づいていないようです。
イザヤ預言の言葉の通り、神がお示しになった豊かさは魂の豊かさであり、魂が命を得る、ということなのです。わずか一時、お腹が満たされた、ということで終わるものではありません。主イエスがおっしゃる「無くならない食べ物」とは何か、群衆は改めて考えさせられることになります。
主イエスと群衆の間には大きなズレがあります。このことは、私たちもこの群衆の中に身を置いて共に考えなければならないことです。単なる物質的に満たされるということが、キリストの祝福を得る、ということではないのです。
聖書を読むことで、イエス・キリストを信じることで、その時何かが上手いってそれで終わり、というのが信仰者に与えられる祝福ではありません。キリストを信じていようが信じていまいが、私たちは、生きる上での荒野や嵐を体験します。信仰者がその中で神に祈ることを知り、祈りを通して神の御声をいただける、ということが祝福なのです。
生きる上での荒野においても、嵐においても、イエス・キリストが共にいてくださる、そして祈りを通して「インマヌエル・神我らと共にあり」という真理を身をもって学ばせていただけることこそが、神から与えられる「なくならない食べ物」なのです。
私たちは主の祈りの中で「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。それは、ただ「食べるものをください」、というだけのことではありません。イエス・キリストというパンを求める祈りです。インマヌエルを求め、神に生かされる恵みを求める祈りの言葉なのです。
それでは、主イエスは群衆に、また私たちに対してまず何をお求めになっているのでしょうか。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」
群衆は主イエスに尋ねました。「神の業をなしていくために、私たちは何を行えばよいのでしょうか。」自分たちが何をなすべきか、自分たちはどう生きるべきか、という根本を問うています。
「神の業」と聞くと、自分たちにはとてもできないような、例えば、海を二つに割るような奇跡のことが言われているのか、と身構えてしまうのではないでしょうか。しかし、そういうことではないようです。
「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」
主イエスご自身を信じる、ということがすでに奇跡であり、神の業だ、とおっしゃるのです。イエス・キリストを信じるということは、自分の業でもなく、人の業でもありません。キリストを信じて従うということは、実は神なしにはできないことなのです。
キリストを信じるということは、海を二つに割るよりも、簡単なことに思えるでしょう。しかし、キリストを信じてこの方に一生涯従い抜くということは、実は神の招きがなければできないことであり、人間の業ではなしえないことなのです。
私たちは、主イエスのことを「神から遣わされた神の子である」、と信じても、何かこの世の財産が得られるわけではありません。それでも全力でそれを信じ、その信仰をもって自分の人生の全てを貫くということは、ただ根気があればできるということではありません。
主イエスのお答えは言葉を変えると「私を信じなさい」ということです。「神の業を行うとは何か奇跡を行うようなことなのか」、と身構えた群衆は主イエスの言葉を聞いて「そんなことか」と拍子抜けしたかもしれません。想像していたよりもずっと単純なことだったでしょう。
彼らはもし神の業が「主イエスを信じる」ということであるならば、本当に主イエスが神の子であるしるしが欲しい、その証拠を見せてほしいと頼みました。何かそれらしい奇跡を見せてもらえれば、信じるのは簡単だと思ったのでしょう。
実はもうそのしるしはすでに与えられています。あの山の上で、五つのパンと二匹の魚が与えられたのです。たかがパン、たかが魚かもしれません。しかし、キリストの手から青草の上で5千人を養う糧が生み出されたのです。
群衆は出エジプトの際のモーセを思っていました。「イスラエルの先祖はモーセによって導かれた。この方はモーセと肩を並べるほどの方なのだろうか」ということを確かめようとしました。
主イエスは「私は山の上で、五つのパンと二匹の魚を通してそのことを見せたではないか」とおっしゃることもできたでしょう。しかしそういう言い方はなさいません。
主イエスは群衆に3つのことをおっしゃった。
1つ目は「イスラエルの民を荒れ野で養ったのは、モーセではなく神であり、その神は私の父である」
2つ目は、「それは食べたらなくなってしまうマナではなく、真の天からのパンである」
3つ目は「神は、昔そうなさったように、今も同じようにこの世に命を与え続けていらっしゃる」
群衆は言いました。「主よ、そのパンをいつも私たちにください。」人々は、すぐにそのパンを求めました。しかし、それは本当に主イエスがおっしゃっている「命のパン」のことなのでしょうか。彼らはまだ主イエスがおっしゃっているのは、文字通りのパンではないということに気づいていないようです。
「私がその命のパンである。私のところに来る人は決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」
それは、もうパン屋さんに行かなくても良くなる、ということではありませんでした。キリストを信じたらもうおなかが減ることはない、などという安易なことではないのです。
イエス・キリストが命のパンである、ということ。そしてキリストという命のパンを食べる、ということが、どういうことなのか。
それはキリストが私たちのためにくださった命によって私たちが生かされる、ということです。私たちは自分の力で生きて行こうと思うし、自力に頼って生きようとします。しかし、そのような私たちをまるごと生かしてくださっている方を知り、従う、ということが、「天からのパンを食べる」、ということなのです。
キリストの言葉遣いはまだ抽象的で、分かりにくいかもしれません。しかし、「私が命のパンである」という言葉を踏まえて、キリストの十字架を見上げると、キリストが「私のもとに来なさい」と招いてくださるのは、ご自分の命の重みをもった招きであることを知ることができるのではないでしょうか。