8月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:10~18

「自分から語る人は自分の栄誉を求める」(7:18)

主イエスはご自分の兄弟たちから「エルサレムでもたれる仮庵の祭りに行って、自分の奇跡の力を人々に見せてはどうか」と提案されました。そうすれば世間から評価されるようになるじゃないか、ということでしょう。

兄弟たちの思いは全くその通りだが、主イエスは「私の時はまだ来ていない。私はこの祭りには上っていかない」とお伝えになり、ご自分はガリラヤにとどまり、エルサレムに上っていく兄弟たちを見送られました。

しかし、そのあとすぐに人目を避けて隠れるようにしてエルサレムへと向かわれます。ガリラヤからエルサレムに向かう巡礼者たちの群れとは別に、お一人でエルサレムに行かれたということに、主イエスのお考えが隠されています。人々の思いではなくご自分の思いで、人間の計画ではなく神の御計画の中で、ご自分の歩みを進めていかれた、ということでしょう。

ガリラヤの多くの人たちが、主イエスの兄弟たちと同じように考えていたことでしょう。自分たちと同じガリラヤ出身のイエスに、何か偉大なことをエルサレムでしてほしい、ガリラヤから有名な人が出てほしい、という期待があったと思います。

しかし、主イエスは人々の期待を背負ってエルサレムに向かわれるのではありませんでした。そのような人たちと一緒にエルサレムに向かっては、いいように担ぎ上げられてしまいます。主イエスが担っていらっしゃったのは、人間の計画ではなく、神の計画でした。

一方で、エルサレムでもナザレのイエスを待っていた人たちがいました。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し『あの男はどこにいるのか』と言っていた」と11節に書かれています。

この「ユダヤ人」というのは、特に主イエスに対して敵意を抱いていたユダヤの宗教指導者たちのことを指しています。指導者たちは、「イエスはこの祭りにきっと来るはずだ」と考えていました。前の祭りの際、ナザレのイエスはベトザタの池で38年間病気で寝たきりだった人を癒しましたが安息日にその癒しを行ったのです。そのことが大きな議論に発展しました。安息日に仕事をしたことを指摘すると、ナザレのイエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と答えたのです。

それ以来ユダヤ人指導者たちは、安息日の規定を破り、神をまるで自分の父であるかのように呼び、自分を神と等しい者として語るイエスのことを危険視するようになりました。

そして今、「あのイエスはまたこの祭りに来る」、と警戒して待ち構えていたのです。

さらに、エルサレムの群衆もナザレのイエスを待っていたようです。12節の「群衆」の中には、エルサレムからガリラヤまで主イエスを追いかけてパンと魚で満たしていただいた人たちも含まれていたでしょう。あの5000人の人たちは、主イエスが「私が命のパンである・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」とおっしゃったのを聞いて、「実にひどい話だ」と皆離れて行きました。

群衆の間では主イエスは「いろいろとささやかれていた」と書かれています。「ささやく」というのは不平を漏らすという意味の言葉です。主イエスのことを「良い人だ」と言う人たちもいたようですが、「群衆を惑わしている」と言う人もいた、と書かれています。恐らく、主イエスのことを悪く捉える人たちの方が多かったのでしょう。

このように見ていくと、エルサレム全体が主イエスのことを敵意をもって待ち構えていたようだ。

ヨハネ福音書の初めを読むと、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。

「神の言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

この福音書は、神の愛をこの世がどのように拒絶したか、ということの記録なのです。

聖書を読むと、主イエスに出会った人たちの反応が分かれる様がよく描かれている。主イエスのことを信じる人と信じない人。また、信じたとしても、最後まで信じぬくことができなかった人。主イエスを通して何か自分を超えたものを見たり感じたりしたとしても、そのあと、実際の主イエスの教えを聞くと、「よくわからない」と言って多くの人は離れて行ってしまうのです。

信じるか、信じないか。そして、信じたとしても、信じ続けることができるか、離れてしまうか。今もまさに世界が、また教会がこの瞬間も問われていることではないでしょうか。

「世は言を認めなかった」というヨハネ福音書冒頭の言葉は、過去のことなのでしょうか。福音書に登場する、主イエスに出会い向き合う人たちは、まさに私たちの姿でもあるのです。我々の姿であり、そして我々の周りにある人々の姿です。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

これは主イエスがご自分を否定するユダヤの指導者たちにおっしゃった言葉です。今でもこの世全体に向けられているキリストの言葉ではないでしょうか。

エルサレムではナザレのイエスのことを人々はささやきあっていました。多くの人たちは、「ナザレのイエスは群衆を惑わしている」と考えていました。「惑わす」というのは、神の礼拝から人々を迷い出させる、ということです。それは深刻な罪であり、聖書の掟によれば、「死に値するほどの罪」だと言われています(申命記13:1~13)。

それでも、群衆は「ユダヤ人たちを恐れて公然と語ることはしなかった」と書かれています。ユダヤの民衆は、自分たちの指導者たちを恐れていたようです。自分たちが恐れる指導者たちが、群衆を惑わすイエスを待ち構えている・・・緊迫した空気がエルサレムに満ちていました。

主イエスはそのようなエルサレムでどうなさったでしょうか。仮庵の祭りの半ばで主イエスは神殿の境内に上って行って、教え始めらました。あれほど人目を避けていた主イエスが、一番目立つ場所で、突然このようなことをされたのです。

エルサレムの人々の中に緊張がありましたが、イエス・キリストにも緊張がおありでした。神の救いの御計画の実現が迫っている、という、エルサレムの人たちとは別の、メシアとしての緊張感です。主イエスが「私の時」とおっしゃった時、十字架が近づいているのです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。出エジプトをしたイスラエルは荒野で神から水が与えられ、神ご自身が光となって導かれたことを記念します。ユダヤ人は、自分たちを生かす「命の水」「世の光」をこの祭りを通して記念するのです。

主イエスはその祭りの中でおっしゃいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書にかいてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」

「私は世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

主イエスは仮庵の祭りという時、神殿という場所を選んで、ついにご自分が何者であるかを公にされます。ご自分こそが命の水であり、世の光であることを宣言なさるのです。

神殿の庭は広く、柱廊玄関があります。普段、律法の教師たちはそこで教えを請う人たちを座らせて講義をしていました。たくさんの人々が主イエスの教えを聞くために足を止めていたことでしょう。

ユダヤ人たちは主イエスがお話しなさるのを聞いて驚きました。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

ユダヤ人指導者たちは、ナザレのイエスは聖書のことをよく知らないはずだと思い込んでいました。聖書を知らないから安息日の決まりを破ったり自分のことをまるで神の子であるかのように思い込んだりしているのだと思っていました。

しかし、彼らも認めざるを得ませんでした。イエスは聖書をよく知っている。普通であればユダヤの若い生徒は律法の教師の弟子となって律法や伝統を学びながら数年を過ごします。しかしイエスは誰かの弟子になって律法を学んだのではありません。それにも関わらず、文字が読め、律法の教えを説いたのです。

自分が誰かに律法を教える時、普通は「誰々先生はこう言った。一方で、誰々先生はこう言っている」という教え方をします。しかしナザレのイエスはそういう教え方をしないのです。「誰々先生がこう言った」ではなく、「これはこういうことだ」と自身の言葉で教えておられました。

エルサレムの群衆が驚いたのはこれでした。イエスが律法の言葉をご自分の言葉として教えた、ということ。神の言葉を、まるで神ご自身が語っておられるかのように、イエスは語ったのです。神の権威をもって神の言葉を語っていることに驚きました。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとする」5:30

だから主イエスは他の律法学者たちの言葉を引用する必要はなかったのです。

7章18節で、「自分から語る人は自分の栄誉を求めている」と主イエスはおっしゃっています。誰にとっても耳に痛い言葉ではないでしょうか。今、主イエスは人々の尊敬を得るためではなく、人々が神に心を向けるためにだけに神の言葉をお伝えになっています。

このことが、人々をまた、「イエスは一体何者か」という議論へと向かわせることになります。この方は一体何者か。これこそ、福音書が私たちに問いかけていることです。

福音書は、この方こそ救い主、キリスト、メシアであり、世の光であり命のパンであり命の水であり、神ご自身である、と証しています。そしてそのことを、私たちに「あなたは本当にそれを信じるか」と問いかける仕方で訴えるのです。

私たちはキリスト者として生きていますが、どうでしょうか。「この方は一体何者なのか」ということを、どれだけ疑い、そして真剣に日々考えているでしょうか。福音書では、繰り返し、「イエスとは何者か」「あなたは一体誰なのか」と人々が議論したり、主イエスに問いかけたりしています。実はこれこそ、私たちの信仰のあり様ではないでしょうか。

「あの方こそメシアです」と、いつでも全く揺らぎなく心から告白できる人は少ないでしょう。私たちが生きる歩みの中にある荒野や嵐の中に置かれる時、神に向かって、キリストに向かって、「あなたは本当にいらっしゃるのですか」「あなたは本当に見てくださっているのですか」と疑います。不平を言いながら祈りすがり、何かを見せられるたびに「この方は一体何者なのだろうか」と打たれるのです。このことの繰り返しではないでしょうか。

私たちはいつも信仰の足元がぐらぐらしています。荒野で不平を漏らし続けたイスラエルの民と同じです。だからこそ、神は私たちがいる場所にまで迎えに来てくださったのです。御許から離れてしまった私たちを迎えるために、この世にまで神が来てくださいました。ヨハネ福音書はその神秘を私たちに証しています。

ヘブライ人への手紙の中に、こう書かれている。

「彼はすべてにわたって兄弟たちと同じようなものにならなければならなかった。それは神の御前で、民のもろもろの罪をあがなうため、憐れみ深い忠実な大祭司となるためであった。彼自身、苦難を受けた時に試みにあったので、試みられている人々を助けることができるのである。」2:17

キリストは、私たちと同じ場所に立ってくださり、全ての試練をガリラヤで、エルサレムでお受けになりました。人々からの不満に思われ疑いをもたれても、ただ、神の招きをお伝えになりました。

キリストがお受けになった痛みは、十字架だけではありません。人々からの疑い不満、敵意が終始お受けになりました。ご自分が愛する人たちから拒絶される痛みを感じながら、神はそれでもその痛みにまさる愛をもって人々を招かれるのです。

それが、福音書が私たちに伝えている、この地上での神のお姿なのだ。