ヨハネ福音書7:32~39
「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」
イエスは仮庵祭りの最中、エルサレム神殿の境内で人々にお教えになりました。人々は主イエスの教えに対して、そして主イエスご自身に対して、様々な反応を示します。
7:30~31を見ると、「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった」「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った」と書かれています。主イエスを逮捕しようとする人たちもいたし、信じようとする人たちもいたのです。
ファリサイ派の人たちはこのような群衆のささやきを聞いて、ナザレのイエスのことをメシアとして認め始めている人たちが多くいることを知り、危機感を覚えました。そして祭司長たちと一緒に、ナザレのイエスを捕えるための下役たちを遣わしました。
私たちはまず、ファリサイ派と祭司長たちが「一緒に」そうした、ということに注目したいと思います。ファリサイ派と祭司長たちは、共にユダヤの最高法院の構成員でしたが、親密な仲間同士ではありませんでした。派閥が違うし、身分が違うのです。
ファリサイ派は、集会所の礼拝で律法を学ぶことに重きを置き、生活の中で律法の掟を実践することを大切にしていました。祭司長たちは神殿で活動し、生贄を捧げる儀式に責任を持っていました。律法や神殿のとらえ方や教えの重点が異なっていたので、普段から親密な関係にあった、ということはなかったでしょう。
祭司長たちは神殿の秩序を乱す者として、ファリサイ派の人たちは律法の教えを冒涜する者として、ナザレのイエスの存在に危機感を抱き、共通の敵と見なして手を組んで捕えようとしたのです。
人は、普段は仲が良くなくても、共通の敵を見つけると仲良くなれてしまいます。キリストを前にしたユダヤ人たちがそうでした。ナザレのイエスを殺すために、派閥を超えて一致していきました。そして最高法院にいるファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちは、派閥を超えて一致して、イエスに有罪を宣告することになります。
これは、歴史の中で繰り返されてきたことでもあります。ユダヤ人たちだけのことではなく、嘆かわしいことですが、キリスト教会の歴史の中でもそういうことがありました。また今の私たちの世界においてもそうでしょう。普段は敵対するもの同士が、自分たちの立場を脅かす新しい動きに対して、一緒に対応できるようになるのです。
しかし人間の歴史を振り返ると、そのような人間の愚かさの中にあっても神の御業は行われていったことを思わされるのではないでしょうか。
主イエスの十字架の後、イエスをメシアと認めないユダヤ人と、主イエスこそキリストであったと信じるユダヤ人に分かれることになります。キリスト教会を迫害するユダヤ人と、キリスト者として迫害されるユダヤ人に分かれました。
そのような中で迫害者の中からサウロが主イエスによって召され、使徒パウロとしてキリスト教会のために大きな働きを残すことになりました。キリストの迫害者の中から新たなキリスト者が召されてくるというのは、不思議なことではないでしょうか。不思議な仕方で神はご自分の御心をこの歴史の中に実現されていくのです。
主イエスのもとに祭司長たちの下役が遣わされましたが、主イエスはこうおっしゃいました。
「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をおつかわしになった方の元へ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない」
謎めいた言葉です。
これを聞いた人たちは、主イエスがユダヤから出て行って、地中海全域に離散して住んでいるユダヤ人たちのところに行き、ギリシャ世界に活動の場を移して自分の教えを広めようとしているのではないか、と考えました。それだったら、彼らが主イエスについていくことができない、という理由がわかります。
しかし、主イエスはそんなことをおっしゃったのではありませんでした。主イエスの言葉を地上的な意味でしか捉えようとしない人々には、本当の意味は分からなかったのです。
ヨハネ福音書は、主イエスがすべてのことにおいて、ご自分で時と場所をお選びになるということを強調しています。あれほど目立つことを嫌っていらっしゃった主イエスが、仮庵際の真ん中で神殿の境内に立ち、人々にお教えになりました。そして今、 主イエスは自分をお遣わしになった方のもとに戻るまで「今しばらくの時間がある」とおっしいます。
これはご自分の十字架と復活のことです。主イエスがおっしゃる「私の時」であり「栄光の時」のことです。
この秋の収穫祭から、次の春の過ぎ越しの祭りまでの6ヶ月間、主イエスはエルサレムに滞在なさることになります。それが、「今しばらく、私はあなたたちと共にいる」とおっしゃっている意味です。キリストはその過越祭において十字架で死に、ご自分を遣わされた天の父のもとに帰って行かれることになります。
主イエスの地上での時間が少なくなっていく中、残された時間で本当に大切なことは何でしょうか。イエス・キリストを求めることです。ユダヤ人たちに与えられたこの時は、「ナザレのイエスを逮捕する時」ではありませんでした。この方が理解し受け入れる時としなければならなかったのです。
今の私たちにも同じことが言えます。私たちがこの地上で生きている間に、キリストに対してどう向き合うか、ということが聖書を通して問われているのです。私たちの人生の時間は有限です。
キリストに対して無関心に生き、一生知らないまま人生を終える人もいます。キリストに敵意を抱き、積極的にキリストに背を向けて人生を終える人もいます。
人は生まれてから死ぬまでの地上での日々の中で、聖書を通して招かれています。しかし、どれだけの人がその招きに応じているでしょうか。どれだけ招きに応じ続けているでしょうか。
この地上で私たちに与えられている時間は、キリストに出会い、キリストと対話し、学び、キリストと共に生きるために与えられた時間なのです。私たちはそのためにもがくのです。聖書を通して、信仰を通して、私たち自身に与えられている今という時、また人生全体の意味を考えさせられています。
キリストの謎めいた言葉は人々にはなかなか理解されませんでした。人々は主イエスのことをよく知っていたからです。神の子としてではなく、自分たちと同じ人の子として、です。
ナザレ出身でヨセフとマリアの子であるイエスが、何を言っているのだろうか、という感覚から抜け出ることができませんでした。天の地なる神のもとから来られ、間もなくそこに戻られるということをこの時点では誰もわかりませんでした。
イザヤ書55:6「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいます内に。・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる」
旧約時代の預言者と同じことをイエス・キリストはおっしゃいます。全ての機会を用いて、いついかなる時も、神に立ち返ることを訴えています。私たち人間が、いかに簡単に神が示してくださっている時を逃しているか、ということだ。
皮肉なことにこの仮庵祭から約70年が経った時、ヨハネ福音書福音書が書かれた紀元100年前後には神殿はローマ軍によって破壊され、祭司たちもいなくなっていました。逆に、ユダヤの外のギリシャ世界で、ユダヤ人でない異邦人の中にイエス・キリストを信じる人たちが増えていました。神の御業の不思議を思わされます。
イエス・キリストに反対する力、抵抗する力がありながらも、キリストの招きは絶えることがありません。聖霊の力は消えません。敵意や迫害の中にあってもキリストの招きの言葉は消えないのです。
水の祭りでもある仮庵の祭りの最終日、最大に祝われるその日に、主イエスは「立ち上がって大声で」叫ばれました。人々が自分たちの仮庵をこれから片付けようとしている時に、主イエスは大きな声で宣言なさいます。
イザヤ書55章に、神の言葉が預言されています。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」
預言者が伝えた神の招きの言葉を、神の子イエス・キリストが神の家である神殿で叫ばれたのです。イザヤの預言では、「水のところに来るがよい」ですが、主イエスは「私のところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。「私こそ、預言者たちが伝えてきた命の水の源泉なのだ」とご自身を示されたのです。
仮庵際は、収穫を祈る祭りです。それは雨を求める祭りでもありました。仮庵の祭りは秋の祭りで、ユダヤでは、これから雨が増える時期でもあります。祭りの間、毎日シロアムの池から大きな瓶に水を入れて、それが神殿に運び込まれます。神殿では水が祭壇の周りに注がれます。人々はそれを見ながらイザヤ書や詩編の言葉を歌いながら、迎えます。
イザヤ書12章3節にはこうあります。
「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」
人々は、シロアムの池から汲み上げられた水に向かって讃美の声を上げていました。その人たちに向かって、主イエスはご自分がその水に勝る命の水であることを叫び、本当の命の水へと招かれたのです。
主イエスは以前、サマリア人女性にこうおっしゃいました。
「私が与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
今、同じことをエルサレム神殿で叫ばれます。
「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって溢れ出るようになる」
詩編78編に、出エジプトの荒野で神がどのようにイスラエルを養われたのかが謡われています。
「荒野では岩を開き、深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。岩から流れを引き出されたので、水は大河のように流れ下った。」
私たちは天の故郷へと帰っていく荒野を生きています。水がなければ生きていけません。今、この地上の荒野を生きる私たちにも、救いの岩が示されています。神が岩を開いてイスラエルに水をお与えになったように、イエス・キリストという岩から私たちは命の水をいただきつつ、約束の地へと向かうのです。
預言書ゼカリヤ書にはこのように預言されている。
「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて収める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」
神が唯一の神としてご自身をあらわされる時に、エルサレムから命の水が湧き出でるとゼカリアは言います。この言葉を踏まえて、神殿で叫ばれる主イエスのお姿を見ると、ゼカリア預言が伝えきた「時」が来た、そしてゼカリアが預言した唯一の主とは、このイエスという方であるということがわかるのではないか。
主イエスがおっしゃる「水」とは「霊」のことであった、と福音書は解説しています。私たちは今、キリストの霊をいただきながら、魂を生かされ、御国へと向かっているのです。