ヨハネ福音書8:21~30
「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
2000年前、一人のユダヤ人の若者がガリラヤとユダヤで神の国の到来を宣言し、教えを残し、奇跡の業を行いました。そしてその人生は、十字架による死で終わりました。その十字架の後、「ナザレのイエスとは一体何者だったのか」ということが大きな謎として人々の間に残されました。イエスの墓が空になり、たくさんの人たちが、「復活したイエスに出会った」と証言したからです。
あのイエスという人は何者だったのか・・・ヨハネによる福音書は、冒頭の一章でそのことを記しています。「神の言」「命」「光」「栄光」「恵み」「真理」と、様々な言葉で表現しています。そして「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」と記すのです。
ヨハネ福音書は冒頭で、世に来られた神に対して人々がどのように向き合ったか、ということを書いています。「暗闇は光を理解しなかった」「世は言を認めなかった」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
「この地上に来られた神を、人間は受け入れなかった」ことを、そして「どのように人間が神の子を排斥したのか」ということを福音書は全体を通して描くのです。今この福音書を読んでいる私たちに問いかけるのです。
「あなたはどうなのか。あなたはイエスを何者だと言うのか」
私たちは仮庵祭での主イエスとユダヤ人とのやりとりを見ています。主イエスは、私は「命のパン」「命の水」「世の光」であると、祭りの中で声を大にしておっしゃいました。
それに対して、エルサレムの人たちはさまざまな反応を示しました。「あの人は良い人だ」と言う人もいれば、「いやあの人は群衆を惑わしている」という人もいました。主イエスのことを信じようした人たちも、主イエスの語られる言葉を聞いて、皆離れていきました。主イエスの謎めいた言葉に、ついていけなかったのです。
今日私たちが読んだところでも、主イエスは謎めいた言葉をおっしゃっている。
「私は去っていく。あなたたちは私を探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行くところに、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちはこれを聞いて、「イエスは自殺でもするのだろうか」と話し合いました。
7:33以下でも主イエスはこうおっしゃっています。
「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない。私のいるところに、あなたたちは来ることができない。」
その時も、ユダヤ人たちは、「私たちが見つけることはない、とは、一体どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか」と主イエスの言葉を理解することはできませんでした。
主イエスの言葉はたしかにわかりにくいかもしれません。一つわかるのは、主イエスが人々の前からいなくなる時が迫っている、ということです。「迫りくる時」とは何の時なのでしょうか。それは主イエスがご自身が「上に」帰って行かれる時、ご自分の十字架と復活の時のことです。
人々は主イエスの死を始めましたが、主イエスの言葉を見ると、ご自分を受け入れない人たちに訪れる死のことをおっしゃっていることがわかります。「世の光」を受け入れないということは神の光の支配、恵みの支配から離れる、ということです。それは罪の闇に陥るということであり、神から離れた命、すなわち死に至る、ということなのです。
今日私たちが読んだところに出てきた人たちを見ればわかります、人間は目の前のことしか見てないのです。自分が見えるもの、自分が理解できるものがすべてであり、自分に入りきらないものは受け入れようとしないのです。
主イエスの十字架の死、そして三日目の復活を体験していない人には確かに難しいでしょう。「ナザレのイエスは一体何者だったのか」・・・そのことを知ろうと思えば、私たちは主イエスの十字架と復活、そして昇天を知らなければなりません。イエス・キリストの十字架と復活なしにキリストを信じるということはできないのです。
目の前だけを見ている人々に、しかしキリストは、世の終わりに心を向けるようおっしゃいます。私たちが世の終わりに心を向け、そこから今を捉えなおした時、私たちは自分の今が天の故郷へと向かう歩みであり、この世は仮住まいであることを知るのです。
私たちは世の終わり立って今の自分を見つめる視点を持たなければなりません。そこから今の自分を見てどうでしょうか。キリストが命をかけて永遠の命・メシアの宴を示してくださったのに対して、自分はそれをどれだけ信じることができているだろうか、と信仰を省みるのではないでしょうか。
使徒パウロは、イエス・キリストのことを、「死を永遠に滅ぼされる方」として手紙の中で書いています。「キリストは、神がすべての敵をキリストの足元に置く時まで、支配することになっている。最後の敵として死が滅ぼされる」1コリ15:26
イエス・キリストが私たちのために用意してくださっている最終的な目的、また最後の目的地は死が滅ぼされた世界、永遠の命なのです。
主イエスは地上のものと天からものとをはっきり分けてお話しなさっています。ユダヤ人たちにこうおっしゃいました。
「あなたがたは下からのものであり、私は上からのものである」。そしてご自分を信じない彼らに向かって「あなたがたは自分たちの罪の内に死ぬであろう」とおっしゃいました。
「死」とは何でしょうか。神から離れた暗闇に留まることです。それは罪の支配、死の支配です。創造主から離れた被造物は、創造主の御手から離れた場所では生きられません。自分が神になるか、自分のために神を作り出すかしかなくなってしまいます。被造物らしさ、人間らしさを失うのです。
主イエスは「わたしはある」ということを知らなければならないとおっしゃいます。「わたしはある」と聞いて思い出すのは、出エジプト記でモーセが神に名前を尋ねる場面でしょう。神はお答えになりました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」
神は、共にいてくださる神であることをモーセに示されました。その名が示す通り、40年間の荒野を神は片時もイスラエルから離れず、昼も夜も共にいて約束の地へと導いてくださいました。
そして今、インマヌエル「神我らとともにあり」と呼ばれるメシアがこの世にお生まれになったのです。
人々は、イエス・キリストを前にして、「わたしはある」という方であり、この方を通して神は共にいてくださることを学ぶのです。共にいてくださるインマヌエルの神から離れようとするのであれば、私たちは闇と死の中に生きることになります。そしてそれは、本当の自分らしさを失う、ということなのです。
創造主である神が私たちに望んでいらっしゃるのと反対の生き方をすれば、私たちはどんなにあがいても、破滅へと向かっていきます。だから、キリストは「私のもとに来なさい」と招かれるのです。
キリストは「時が迫っている」ことを繰り返されます。共観福音書に帰ってきた主人の例え話が語られています。旅に出た主人が、突然家に戻ってきて、僕たちを裁く、という話です。任されていた仕事をきちんと果たしていた部下は「よくやった私のよいしもべよ」と褒めてもらえましたが、「主人はもう帰って来ないだろう」と思って任された仕事をしていなかった僕たちは主人から厳しく裁かれることになった、という話だ。これは世の終わりに私たちを待つ裁きを指すたとえ話です。
イエス・キリストはいつでも世の終わりにある裁きに目を向けるようおっしゃいます。しかし、世の終わりというところに人間はなかなか目を向けることができません。今自分の目の前にあることだけを見て、目に見えることだけで判断して生きてしまうのです。
使徒パウロは手紙の中で書いています。「すべての者は自分自身の事柄は熱心に求めるが、イエス・キリストの事柄は熱心に求めはしない。」フィリ2:21
私たちが自分自身のことしか考えないのであれば、この世の歩みの中で失望することになります。肉体の死を間近に見た時、希望を持てなくなるのです。そこで終わりだ、と思うからです。
しかし神が用意してくださっている永遠の命を信じる者にとっては、その肉体の死は終わりではありません。それは絶望ではないのです。その向こうにまでキリストのお姿を見るからです。
信仰者はいつでもキリストの姿を見ようとします。生きている間も、死の向こう側にも。そしてイエスキリストが私たちの肉体の死の向こう側に用意してくださっている永遠の命を見ようとします。キリストと共に囲むメシアの宴を見据えます。
メシアの宴の席で、「よくやった良いしもべよ。あなたは私が与えた地上での時間を私に忠実に生きてくれた。あなたがしたことは小さな種まきだったが必ずその種を私が大きく育てる」とキリストから言っていただけることを信じるのです。
イエス・キリストから託されている賜を一人一人に与えられたこの地上での時間の中で充分に用いて行きたいと思います。
小さなことでいい。
小さな礼拝でいい。
小さな祈りでいい。
小さな働きを聖霊が必ず大きく用いてくださいます。
神は私たちに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお示しくださいました。インマヌエル、「神我らとともにあり」、と呼ばれるキリストが世に来て、私たちを招いてくださいました。肉体の死の向こうにあるメシアの宴を目指していきましょう。