MIYAKEJIMA CHURCH

12月7日の礼拝案内

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書18:19~27

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番67番、94番、103番、頌栄541

【牧師予定】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月30日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:10~18

今日からアドベントに入ります。救い主の到来が預言され、その到来が本当に実現したという喜びと、私たちの今が、キリストが再び世に来られる再臨の到来を待つ時であるということをこの礼拝の中で覚えたいと思います。

何より、その救い主、キリストは、世の罪を背負って私たち一人ひとりのために死ぬために来てくださった方であったということを改めて心に刻みたいと思います。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリスト逮捕の場面です。ヨハネ福音書ははっきりと明確な場所を書いていませんが、キリストは弟子たちを引き連れて行かれたのは、オリーブ山のゲツセマネの園だったでしょう。

そこに、イスカリオテのユダによって手引きされたローマ兵たちと、大祭司とファリサイ派の下役であるユダヤ人の神殿警備兵がやってきました。ローマの千人隊長がいた、ということですので、イエス・キリストと弟子たち12人に対して、数百人規模の兵士たちがやってきた、ということです。

そこで兵士たちは主イエスを「捕らえて縛り、連れて行った」と書かれています。キリストは縛られてしまいました。私たちはこの、縛られるキリストのお姿をどう見るでしょうか。どんなに力強く教えを説き、神の業としか思えないような癒しの奇跡を行っても、権力の力、政治の力には勝てなかった、「負けた人」として見るでしょうか。

キリストは、「自らご自分に起こることをすべて知っておられ、進み出られた」、と4節に書かれています。弟子たちを後ろにかばい、あなたたちが探しているのは「私だ」とおっしゃいました。「私である」とおっしゃったイエス・キリストを見て、兵士たちは後ずさりして、地に倒れました。彼らは、神の栄光をこの方の内に見たのです。そしてキリストは、「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちの解放をお求めになり、ご自分1人が、自ら兵士たちの縄をお受けになりました。

この一連のお姿を見ると、神の子イエスは決して人の支配の中で敗北したのではなく、ご自分の救いの計画を進めるために、確かにその場を完全に支配なさっていることがわかります。

キリストは、救い主・神の子でありながら、人間の手によって縛られました。神の子でありながら人間に負けたのではありません。ご自分の主導のもと、神の御計画を進めていらっしゃるのです。

表面的には、キリストが人間の支配力に負けた、と見える場面ですが、霊的な意味においては、神の救いの御業が間違いなくキリストの意志によって進められています。

そのような中で、弟子たちはどうしたでしょうか。イエス・キリストは弟子たちの足を洗われた後、弟子たちに「あなたたちは私が行くところに来ることができない」とおっしゃいました。それを聞いた一番弟子のペトロは、「命をかけてもあなたについていきます」、と言いました。ほかの弟子たちも、ペトロと同じくらい強い気持ちでいたでしょう。

しかしそのような強い気持ちで訴えるペトロに対して、主イエスは、「君は私についてくるどころか、私のことを知らないと言うことになるのだ」とおっしゃいました。ペトロも、ほかの弟子たちも、その言葉は不本意だったでしょう。先生は自分たちの思いをその程度にご覧になっているのか、と残念に思ったでしょう。

主イエスを逮捕しに来た大祭司の下役たちの一人に、ペトロは剣を抜いてとびかかりました。そしてマルコスという下役の耳を切り落としました。4つある福音書すべてに、キリストの弟子の1人が下役に剣を抜いて立ち向かったことが記録されています。ヨハネ福音書だけ、それがペトロであったことを書いています。

マルコスというのは、ヘブライ語の「王様」という言葉から来ている名前です。剣を抜いたペトロの姿は、人間の支配に立ち向かう勇気の象徴のようにみることができるかもしれません。

イエス・キリストは兵士たちに、「誰を捕らえに来たのか。誰を探しているのか」とお尋ねになり、「あなたがたが探しているのは私だ」と自ら進み出られました。その後ろから飛び出て、ペトロはキリストの盾となり、ローマ兵とユダヤの神殿警備兵に立ち向かったのです。これは、ものすごい勇気です。その場にはローマの千人隊長がいたのですから、1,000人規模の軍団を相手に立ち向かった、ということです。

しかし、キリストよりも前に出て後ろにかばい、忠義心を見せたペトロに、キリストはおっしゃいました。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」

ヨハネ福音書では、ほかの福音書とは違い、「弟子たちが逃げ去った」という記述はありません。しかし、もうペトロ以外の弟子たちの姿はこの場面から消えています。弟子たちは、逃げたのです。

しかし、ヨハネ福音書の焦点は、弟子たちがキリストを置いて逃げ出した弱さに置かれていません。キリストが「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちを守られた、そのことによって、弟子たちはこの場を無事に離れることができた、そのキリストの献身に焦点を当てています。

キリストと弟子たちのつながりは確かにここで一度途切れてしまいます。しかしそれは一時の離別です。キリストが事前におっしゃったとおりです。このことさえも、神の御計画の内にあった、ということを聖書は伝えているのです。

兵士たちは主イエスをまず、アンナスのところに連れて行きました。ローマ総督でもなく、大祭司カイアファのもとでもなく、アンナスという、前の大祭司のところです。

アンナスは紀元6年から15年まで大祭司を務めた人でした。今はアンナスの甥であるカイアファが大祭司となっています。このことを考えると、当時アンナスとカイアファの一族がどれほどの権力を握っていたのか、想像できるでしょう。

アンナスは公にはもう引退した身でした。しかし、兵士たちがまずアンナスのもとに主イエスを連れて行ったということが、アンナスが陰でまだ実効支配力を握っていたことを示しています。この人は、現職の大祭司カイアファ以上の影響力をもっていたのでしょう。

主イエスがアンナスのところへと連れて行かれたとその時間、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入っていました。そこには、ペトロともう1人の弟子の姿がありました。この弟子の名前は、ヨハネ福音書には書かれていません。この弟子は、「イエスが愛された弟子」とだけ記されています。この弟子が大祭司の知り合いであったことから、ペトロも大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。

さて、ここでいくつかの言葉に注目して、聖書がここで何を描き出そうとしているのかを見たいと思います。興味深い言葉の対比が見られます。「中庭」「門」という言葉に注目したいと思います。

「中庭」というのは、ここと、10章にしか出てこない言葉です。10章の初めで、キリストは、「羊の囲い」のたとえをお話されています。ご自分の支配、つまり神の恵みの支配に生きる信仰者を、羊に例えてお話なさいました。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかのところを乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。」

キリストは「羊の囲い」という言葉をつかっていらっしゃいますが、この「囲い」というのが、ここで使われている「中庭」というのと同じ言葉なのです。

ペトロは大祭司の屋敷の中庭にいたということは、イエス・キリストという羊飼いの囲いから、大祭司という人間の支配の囲いの中に身を移してしまった、ということが暗示されているのではないでしょうか。

「門」という言葉も、さきほどの10章のたとえ話の中で使われている言葉です。

キリストは、「私は羊の門である」とおっしゃいました。「私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」

これまで、ペトロは、イエス・キリストという救いの「門」を通って、キリストの「囲い」の中に生きていました。しかし今、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入る「門」を通って、大祭司の「囲い」の中に入ってきた、ということが暗示されています。

私たちはこの中庭のペトロの姿を通して、聖書から問われるのです。

「あなたは今、誰の囲いの中に生きているのか」「あなたは今、どのような救いの中に身を置いているのか」

この中庭でのペトロのことを、誰も他人事として見ることはできないでしょう。

自分はペトロとは違う、と言い切れるでしょうか。「あなたのためなら命を捨てます」と言って、大祭司の手下に剣をもって立ち向かった、あのペトロはまさに私のようだ、と言えるでしょうか。大祭司の屋敷の中庭でおびえているペトロと私は違う、と言えるでしょうか。

なんとか主イエスの近くにいようとしてここまで来たペトロは、この中庭の門番であった女性から声をかけられました。

「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」

ペトロはすぐに「違う」と言いました。これは、元の言葉では「私はそうではない」という言葉です。 Continue reading