マルコによる福音書13:3~13
「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい』」(13:5)
主イエスは神殿から出て行かれ、谷を挟んで向かい側にあるオリーブ山に登り、そこからエルサレム神殿の方を向いて座っていらっしゃいました。当時大改修が進められていた美しく荘厳なエルサレム神殿をご覧になりながら、何を考えていらっしゃったのでしょうか。
オリーブ山から神殿を眺めていらっしゃる主イエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人が「そのことはいつ起こるのですか」とおそるおそる尋ねて来ました。
エルサレム神殿の境内から出て行く際、「この神殿の一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」という主イエスの言葉を聞いたのです。弟子達は言葉を失いました。「聞き間違いではないか」、と信じられなかったでしょうし、弟子達同士で「先生がおっしゃったことは本当に起こるのだろうか」と話し合いもしたでしょう。
弟子達は、オリーブ山まで来てようやく、「そのことはいつ起こるのですか。その時にはどんな徴があるのですか」と質問してきたのです。
マルコ福音書の13章全体が、この弟子達の二つの質問に対する、主イエスの言葉です。しかし、この13章全体の言葉を読むと、主イエスは弟子達の質問に直接はお答えになっていないことがわかります。「何年後に神殿は壊れるだろう、そしてその前にはこんな徴が見られるだろう」とはおっしゃっていないのです。
主イエスは、弟子達に謎めいた言い方で何かをお教えになっています。
13章全体を通して一貫して弟子達が言われているのは、「惑わされないように気を付けていなさい」ということでした。
主イエスは、弟子達には神殿の崩壊を始め「この世の終わり」とも思えるような苦難が起こるが、どんな時にも惑わされず、ただ神を信頼して、神が定めてくださった時を待ちなさい、ということを集中しておっしゃるのです。
弟子達は、本当はもっと具体的に神殿が壊れるのがいつなのか、その時にはどんな前兆があるのか、ということを知りたかったでしょう。
しかし主イエスがこの時見据えていらっしゃったのはむしろ、エルサレム神殿が崩れた後のことでした。「いつ神殿が壊れるのか」、ということ以上に、「神殿が壊れた後もあなたがたは混乱の中も惑わされずに福音を宣べ伝え続けるのだ」、ということをお伝えになっているのです。
主イエスはあと数日のうちに十字架で殺されることになります。そして三日目に復活なさって、天に昇られます。弟子達はこの地上に残されることになります。
主イエスはここではっきりと弟子達におっしゃいます。
「あなた方は地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれるだろう」
地方法院や会堂、というのは、ユダヤ人がいるところです。ユダヤ人にキリストを宣べ伝える際に直面するという試練があるだろう、ということです。
更に、「私のために総督や王の前にたたされて証しをすることになるだろう」とおっしゃいます。
総督や王というのは、異邦人支配者のことです。異邦人にキリストを宣べ伝える際にもキリスト者は試練が与えられるのです。
実際に、エルサレム神殿はこの40年後に崩れることになります。しかし、弟子達はこの時の主イエスの言葉を何度も思い出したのではないでしょうか。「エルサレム神殿が崩れても、まだ世界の終わりではない、とあの方はおっしゃった。惑わされず、イエス・キリストの福音を確かに宣べ伝えいこう」、と弟子達は、そして教会は働き続けました。
主イエスは信仰者たちが受ける苦しみを、「産みの苦しみ」とおっしゃいました。主イエスご自身、ご自分の十字架の痛みをもって、世の人々を神の元へと通じる道を切り開かれました。教会は、そのキリストの十字架の痛みに与ります。誰か一人を神の元へと導く、誰か一人をイエス・キリストの信仰へと導くことは、痛みを伴うことです。
自然に誰もが神を求め、キリストを信じるようになる、というのであれば、どれだけ楽でしょうか。しかし、キリストは「自分の十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃいました。それは、イエス・キリストの下へと誰かを導こうとする痛み・重荷を背負いなさい、ということです。
キリストの弟子達の時代から、今に至るまで、どれだけの痛みを教会は担って来たでしょうか。「信仰を捨てた方が楽だ」、という時代にあっても、多くのキリスト者は時代の波に惑わされず、戦争・地震・飢饉・偽メシアの出現の中で信仰を守ってきました。
その痛みを通して、新たな信仰者が教会へと導かれてきました。教会は、産みの苦しみに耐え続けて来たのです。1世紀の始めから教会は苦しい時を過ごしてきました。無数の、痛みを伴う信仰者たちの証しの姿がありました。信仰ゆえの苦しみの姿です。
主イエスはその苦しみを「産みの苦しみ」とおっしゃいます。単なる苦しみではありません。何かを生み出す苦しみです。
ヨハネ福音書で、主イエスは弟子達にこうおっしゃっている。
「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産む時、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」
教会は世に生きる中で痛みを感じます。しかし、それはただ、痛みで終わるのではなく、その痛みを通して、不思議な仕方で福音が広められていく喜びを与えられるのです。
使徒言行録に、キリストの使徒たちの信仰の姿が描かれている。
ナザレのイエスなど知らないと三度否定したペトロは、主イエスの復活の姿を見ました。そして復活のキリストを伝え続けました。
「イエスが復活した」と宣べ伝えていたペトロは牢に入れられました。そして最高法院で大祭司から尋問されます。
「今後イエスの名によって誰にも話すな」と言われますが、ペトロとヨハネは「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私達は、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えました。弟子達は、苦難を超えて福音のために働き続けたのです。
また別の時、使徒のステファノが捕らえられ、殺されました。ステファノが殺された日、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった」とあります。
キリストの福音はそこで終わったか、というとそうではありませんでした。「散って行った人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります。
迫害を受けてその地域から追い出された人たちは、追い出され逃げた先で、福音を伝えていきました。そうやってキリストの福音が広がったのです。そして、ステファノの殉教の中で、迫害者の一人として働いたサウロという人が、やがてパウロと呼ばれるキリストの使徒へと変えられます。
こうして見て行くと、教会の成長、福音の広がりというのは不思議ではないでしょうか。世の中で迫害を受け、逆風の中にあっても、不思議な仕方でキリストの復活を信じる人たちが教会へと導かれていくのです。そこには、確かに、聖霊の働きがあります。だから、主イエスは弟子達に「惑わされるな」とおっしゃったのです。
主イエスは「地方法院に引き渡されて、会堂で打ちたたかれても、総督や王の前にたたされることになっても、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」と断言されました。
実際に、使徒言行録やパウロの手紙を読むと、イエス・キリストを信じたキリスト者の群れ、教会は外から迫害を受け、内からは信仰を惑わす人が現れたりしていたことがわかります。捕らえられたり、差別されたり、多くの人が殺されたりしました。
教会の中にも、「キリストの復活など信じない」と言い出す人や、「もう世界の終わりは来ている」と言って極端な信仰に走る人も出たりしました。
主イエスは、「その時には私を名乗るものが大勢現れて、多くの人を惑わす」とおっしゃっています。自分こそこの世界の救い主であると自分で信じる人が現れるのです。「自分に正義がある、この世界は自分の正義に従わなければならない」という人間が出て、影響力をもった時に、多くの人の血が流されることになります。そのような人は、自分を礼拝するように求めはじめる。
戦争や、地震や飢饉、救い主を自称する人たちの出現・・・それらは今の私達もニュースや新聞で見ることですし、それこそ、教会を取り巻く現実です。
私達はいつの時代にも、「もう世の終わりではないか」と不安になります。しかし、キリストは「惑わされるな。そのようなことがあっても、まだその時ではない」と弟子達に言葉を残されました。その言葉があったからこそ、教会は信仰を捨てず、どんなときにもキリストが備えてくださっている時を信頼して歩んで来ることができたのではないでしょうか。
教会は、キリストの弟子達の時代から今まで、キリストの教えを守り、福音を宣べ伝えて来ました。キリストの弟子達、使徒たち、また昔の信仰者たちが立派だったからではありません。聖霊がキリストの弟子達、使徒たち、信仰者たちを用いたからです。教会に、聖霊が語るべき言葉を与えられてきたからです。
私達はこの世に生きる中で、惑わされないようにしたいと思います。いろんなことが次から次に起こります。世界で起こること、社会で起こること、また私達の日常、家庭内で起こること、全てが試練です。自分を無くしそうになる時こそ、聖書の言葉に耳を傾けましょう。語るべき言葉、聞くべき言葉が必ずそこにあります。
足元が揺らぐような中で、惑わされずキリストを信頼する私達の祈りの姿、礼拝の姿が、不安定な世に向かって確かなキリストの福音となって伝わるのです。
弱いからこそ、キリストを求める私達の礼拝そのものが、聖霊の力によって、大きな証しの業として用いられていきます。