10月24日の説教要旨

マルコ福音書14:1~11

「12人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)

聖書は、シモンの家での香油の注ぎの出来事の前後に、主イエスのいらっしゃらないところで何が起こっていたか・どんな計画が進んでいたか、ということを書いています。

祭司長たちや律法学者たちがなんとかしてナザレのイエスを捕えて殺そうと狙っていた、とあります。そしてベタニアで主イエスが香油を注がれた後、弟子の一人、イスカリオテのユダが主イエスを彼らに引き渡そうとして取引しに行った、ということが書かれています。

祭司長や律法学者たちは、主イエスがガリラヤにいらっしゃった時からずっと彼らは主イエスを殺そうと考えていました。「危険人物であるあのナザレのイエスが今、エルサレムに来ている、自分たちの手の届くところにいる」、そう思っても、簡単には手が出せないでいました。

過越祭には多くの巡礼者が神殿に詣でていて、その巡礼者の群衆は主イエスのことを熱心に支持していたのです。皆、喜んで、神殿の境内で神の国の教えを語る主イエスの言葉に耳を傾けていました。もし、そのような人たちの目の前で無理やりナザレのイエスを捕えたりすると暴動になる危険性があります。日中、ナザレのイエスはずっと神殿で過ごしていて、群集が一緒にいるのです。祭司長や律法学者たちがナザレのイエスを捕まえて殺るのであれば、夜を選ぶしかありませんでした。しかし、それは簡単ではなかった。

10万人以上が過越祭の巡礼でエルサレムに来ていたと言われています。エルサレムの町の中にそれだけの人数を収容することはできないので、巡礼者たちは、夕方になるとエルサレムの外に出て、周辺の村々に宿泊していました。10万人の中からナザレのイエス一人だけを見つけ出すことは困難でした。

ユダヤの指導者たちは、イエスとその弟子達が夜どこに泊まっているのか、どこに行けば誰の目にも触れずにイエスを逮捕できるのか、詳しい情報を求めていました。そこにイエスの弟子のユダがやって来て、「イエスと他の弟子達が夜の間どこにいるのか教えましょう」と言ったのです。これこそ指導者たちが求めていた情報でした。彼らは喜んで、ユダにお金を与える約束をしました。

我々は今日特に、このユダという人に注目したいと思います。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの弟子でありながら、キリストを最後に裏切った人物として、とても有名な人です。聖書を読んだことがない人でも、キリスト者でなくても、このユダという人のことを知っている人は多いでしょう。

ユダは、脅されて主イエスを引き渡そうとしたのではありません。自分の意思によってそうしたのです。

ユダの裏切は突然で、驚かされます。寝食を苦楽を共にしてきた主イエスと他の弟子達を、彼はなぜ裏切ったのでしょうか。主イエスを裏切って、金をもらう約束を取り付けた、ということを見ると、ユダは狡猾で悪い心をもっていた人物だった、という印象を受けます。

ユダはお金に目がくらんだのだのでしょうか。他の福音書を見ると、ユダが主イエスを裏切って受け取ったのは、銀貨30枚だった、と記録されています。銀貨30枚というのは、30日分の同労賃金、一か月分の収入ぐらいの額です。一生遊んで暮らせるだけのお金をもらえるというのなら、わかりますが、その程度の金額のために、一年以上従い続けて来た主イエスと他の弟子達を売り渡す、ということは考えにくいでしょう。

ユダの裏切の理由について、与えられている情報から、多少推測することは出来ます。

12弟子の中でもユダだけ、特別に、「イスカリオテのユダ」という呼び方がされています。「イスカリオテ」というのは、ユダの苗字ではありません。これは「ケリヨトの人」という意味の言葉だ。「ケリヨトの人、ユダ」と彼は呼ばれていたのです。ケリヨトはユダヤ地方のずっと南にある町で、ユダはここの出身だったようです。ユダだけが「イスカリオテのユダ」と呼ばれていた、ということはつまり、ユダは弟子達の中で一人だけ、ガリラヤ人ではなかった、ということです。

主イエスは「ガリラヤの預言者」として人々から称賛を受けていました。他の弟子達も主イエスのことを「自分と同じガリラヤ人の預言者・メシア」という同郷意識をもって見ていました。

しかし、ケリヨトの人であったユダには「我々ガリラヤ人」というような同胞意識はありませんでした。ユダは冷静に客観的に主イエスを見極めて、自分の意思で、「このガリラヤの先生に従おう」と思って従っていたのです。

ユダも他の弟子達同様、このイエスという方がいずれイスラエルをローマの支配から救い出してくださる指導者だと信じて従っていたでしょう。主イエスが「エルサレムに行く」とおっしゃった時には、皆「先生はこれからエルサレムに行って、いよいよ王座に着かれるのだろう」という期待を持ったでしょう。

ところが、エルサレムに出発する際に、主イエスは「私はエルサレムで殺されることになっている」と、ご自分の運命を弟子達に明らかにされました。弟子達は皆驚きました。主イエスがローマからイスラエルを解放し、栄光の座に座るだろうという期待を持っていたからこそ、ここまで従ってきたのです。ユダも、自分の従いの先には栄光があると期待したから、ケリヨト人でありながら、ガリラヤの教師である主イエスに従っていたのです。

それなのに、エルサレムに旅を続ける中で「私は殺されるのだ」と主イエスは何度も繰り返されました。そしてエルサレムに入ってからは、神殿から商人を追い出したり、神殿の崩壊を預言したりなさっています。ベタニア村のシモンの家で香油を注がれた際、主イエスは「この人は私の葬りの準備をしてくれた」とおっしゃいました。「やはり先生はここで死ぬ覚悟でいらっしゃるのだ」と、彼は失望したでしょう。

ユダにしてみれば、「先生が殺されるのを見るためにここまで従ってきたのではない」という思いが強かったでしょう。このままだと本当に主イエスも弟子達も自分も、殺されてしまう。先生は彼らと戦う意思をもっていらっしゃらない。むしろ死ぬ覚悟を決めていらっしゃる。これ以上、指導者たちを刺激しないためには何をすべきか、自分や他の弟子達まで巻き添えにならない方法はないか、ユダは考えたのではないでしょうか。

このように、与えられた情報を集めて、ユダの裏切の理由を推理していくことは、ある程度は可能だ。しかし、結局のところユダの本当の思いというのは、ユダ本人に聞いてみないとわかりません。聖書が、あえて、ユダの裏切の理由を書いていない、ということにも、大きな意味があるのでしょう。

ただ言えることは、ケリヨトの人でありながら、ガリラヤの教師に従って長い期間苦楽を共にしてきたユダが、主イエスと弟子達を裏切ろうと決意するまでには多くの葛藤があっただろう、ということです。ユダという人は、極悪人でも、詐欺師でもなく、心の中にいろんな葛藤をもった、普通の人だったのです。裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、実は、我々と何ら変わりない、人間的な弱さを抱えた人だったのです。

ユダは、イエス・キリストに自分の未来を見出すことが出来なくなってしまいました。主イエスは、ご自分の受難と一緒に「三日の後、復活する」と、復活の希望を予告してこられました。しかし弟子達は主イエスの受難予告だけを聞いて、復活予告を聞き逃してきています。

もしも、ユダが、主イエスのことを本当にキリストであると最後まで信じぬくことができたのであれば、主イエスの死の向こうには復活の希望があると考えることが出来たのではないでしょうか。

しかし、ユダにとって主イエスの死は全ての終わりでした。

我々は、ユダの姿を通して、イエス・キリストに希望を見出すことができない人間の人のもろさを見ることができるでしょう。誰でも、自分の全てをかけていた希望を失った時に、どれだけ簡単に崩れてしまうのか、ということを、このユダの姿は我々に教えてくれます。

使徒パウロはコリント教会にこう書き送っています。

「立っていると思うものは、倒れないように気を付けるがよい。」

我々はキリストを信じ、真っすぐな思いを持っている時には「自分は今しっかりと立っていて、どんなことがあっても揺らがない」、と思い込んでいます。しかし、本当は、我々の信仰の足元はいつもぐらついているのです。次の一歩で躓いて倒れるかもしれない、ということをすぐに忘れてしまいます。12弟子の一人でさえそうでした。

しかし、キリストを信じる人は、躓いてもそれで終わりではありません。

パウロはこのようにも書いています。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられない様な試練に合わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

どんな試練があっても、苦難があっても、我々にはイエス・キリストという最後の希望があることを忘れなければ、我々はふらつきながらでも立ち続けることが出来るのです。

生きる中で、自分が行き止まり・行き詰りにいる見える時もあるでしょう。しかしそれでも、今の私達には見えないところで、神が新しい道を用意してくださっている、ということを聖書は我々に訴えています。

このユダという人さえいなければ、主イエスは十字架で殺されることはなかったのではないか、と誰もが考えます。しかし、このユダの裏切という、想定外のことのように思える人間の罪も、神の救いご計画の中でもちいられた、という神秘に思いを馳せたいと思います。

我々信仰者がこの人生の中で与えられる葛藤も、苦難も、神はご自分の救いのために用いてくださいます。

パウロはローマの信仰者たちに、こう書いている。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、我々は知っています」

我々は、ユダの裏切を他人事のように見ることは許されません。ユダの中に自分と同じ弱さがあることを見つめ、今自分に与えられている許しの大きさをかみしめ、今我々が抱いている弱さや葛藤さえも、神は恵みをもって用いてくださることに感謝したいと思います。

キリストを信じることは、苦難や葛藤を伴うことです。しかし、その苦難や葛藤を乗り越えさせてくださるのも、キリストなのだ、ということを覚えたいと思います。