3月19日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)

聖書は神がこの世界を七日かけて創造されたことをはじめに描いています。

1日目には「光あれ」という言葉と共に、昼と夜を創造されました。二日目には大空と水とを分けられ、三日目には、水を一つの所へとお集めになり、海と地を分け、地には草木が芽生えるようにされました。

四日目には天の大空に光るものをお創りになって、昼と夜を治めるようにされ、五日目に、水に生きるものと空に生きるものをお創りになり、それらの生き物を祝福されました。

神が六日目にお創りになったのは、地の上に生きるものでした。地の獣、家畜、土を這うものをお創りになり、それをご覧になって神は「よし」とされました。六日目の創造の業はそれだけでは終わりませんでした。続けて、神は人間という存在をお創りになったのです。

私達は今日、天地創造の六日目に目を止めて、神がどのような存在として私達人間をこの世界にお創りになったのか、そして神が我々人間に何を期待して、どんな使命をお与えになっているのか、ということを見て行きたいと思います。

創世記は、24節から31節まで、神が人間という存在をどんな思いでお創りになったのか、そして人間に何を期待してお創りになったのか、という六日目の創造の様子を、ほかの被造物の創造よりも詳しく書いています。神が人間という存在を、他の被造物と区別して、特別な存在として創造された、ということがわかります。

私達は、神がどんな思い・決心をもって人間をお創りになったか、神の心の声が記されています。

26節 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう」

この神の声を見ると、人間がこの世界の中に造られた、というよりも、世界が人間のために造られた、ということがわかります。世界にある全てのものが人間に与えられているというのです。

神は人間が生きるための秩序を整えて「よし」とされ、そこに人間の命を造られました。神は、ただ天地をお創りになったのではありません。人間が生きるための世界をお創りになったのです。

神は、人間をお創りになる際、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」とおっしゃっています。そして27節で、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、人間が神の似姿として造られたことを強調しています。

「人間は神の似姿である、」とはどういうことなのでしょうか。私達は自分について何か考える際には、そこから始めなければならないのです。この世界に今生きている自分という存在について考える際、「今、ここで生きている自分とは一体何者なのか。」という問いを持ちます。それに対して、聖書は、「あなたは神の似姿なのだ」と答えるのです。

それでは自分が神にかたどられて造られた「神の似姿」である、とはどういうことなのでしょうか。簡単に言えば、人は神からいただいていないものはない、ということです。身体も心も、全て神から与えられた聖いものであり、それは社会的な身分や民族などには関係なく、全ての人が、神の栄光を映し出す聖い器である、ということです。

古代においては、その国の王様が「神の似姿」と見られていました。王が、神の権威をもって自分の国を支配している、と考えられていたのです。

しかし、創世記で明らかになっているのは、特定の人だけでなく、この世界に生きる全ての人間が神にとって特別であり、神は全ての人に等しくそれぞれに聖い使命を託していらっしゃるということなのです。

ある人には特別に価値があり、ある人には全く価値がない、というようなことはありません。人間はそう考えたくなるでしょう。自分は誰かよりも上だ、とか優れているとかいうことに目が向いてしまいます。

しかし、創世記は、全ての人間は神の手によって造られた者であり、神の祝福を受け、それぞれが神の栄光を映し出す器としてこの世界に生かされていることを伝えているのです。

「人間が神の似姿に造られた」ということを読んで間違えてならないのは、人間がこの世界で自分が神のように振る舞ってもいい、ということではない、ということです。

この後、創世記を読んでいくと、アダムとエバが蛇の誘惑に負け、楽園を追放されることが書かれています。

「アダム」は、ヘブライ語では「人間」という言葉であり、エバは「命」という意味の言葉です。アダムとエバが楽園を失った物語は、「人間の命」が神の光から離れてしまった、という私たちの罪の現実を描き出しているのです。

これは今の私達に向けて発せられている警告の物語です。「神の似姿である人間・神に造られた人間が、創造主を忘れて自分が神になろうとすると滅びを招く」という敬称なのです。

蛇の誘惑は、「あなたはその実を食べると神のようになれる」というものでした。アダムもエバも「神の似姿・神の聖さをいただいた者」でした。神に造られた命が神になろうとしたとき、どんな破滅を迎えるのかを創世記は教えているのです。

聖書が私達のことを「神の似姿」と言っているからと、この世界で神のように振る舞っていい、ということではありません。神の栄光を映し出す器が、神になろうとしたとき、その器は耐えられなくなって壊れてしまうのです。

パウロは手紙の中でこう言っている。

「私達は神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。・・・イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」1コリ3:9~

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私達はこのような宝を土の器に納めています。・・・私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」2コリ4:7~

これらのパウロの言葉から考えると、人が「神の似姿」であるとは、私達が創造主の栄光を現わす器であり、イエス・キリストの命が現れる器である、ということがわかります。

そのことを踏まえると、私達は創世記に向き合いながら神に造られた者としてどうあるべきか、考えさせられるのではないでしょうか。他の被造物とは区別され、特別に祝福されたからと言って、思いあがって神のように振る舞うとどうなるのでしょうか。

キリスト教会が、イエス・キリストから離れ、キリスト者がまるで自分がキリストであるかのように振る舞ったらどうなるのか・・・聖書は私達に警鐘を鳴らしている。

神の救いのご計画のために用いていただく器として謙遜に自分を差し出すことこそが、神に造られた者・キリストに救われた者として一番「人間らしい」生き方なのだ。

神は、ご自分にかたどってお創りになった人間に、「生き物を全て支配せよ」とおっしゃいました。

28節 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の取り、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

これも、誤解されそうな言葉です。我々人間には世界の被造物を支配することが求められています。しかし、それは自分が好きなように何でもしていい、ということではありません。神が人間にどのような支配をお求めになっているのかということを考えなければならないのです。

神は「光あれ」という言葉でこの世界の秩序を整えていかれました。この世界は本来、神の光の支配、神の光の秩序です。人間に託された「支配」はそれなのです。神の創造の光を正しく管理する責任が、人間に特別に与えられている、ということです。人間はこの世界を無責任に好き勝手に使っていいということではなく、神の光の秩序の管理者としての責任を真剣に考えなければならないのです。神が「光あれ」とおっしゃる前の、あの「混沌の闇」に世界を戻さないようにすることこそ、ここで人間に託された「支配」ということの意味なのです。

イエス・キリストが世に来られて、福音宣教をお始めになる時、「神の国は近づいた」と宣言されました。「神の支配が来た」という意味の言葉です。

イエス・キリストが来てくださった、ということは、「神の支配がこの世界に来た、神の創造の光がまたこの世を照らした」、ということでした。今キリストの光の内に生きている我々キリスト教会こそ、一番真剣に自分たちの使命に向き合わなければないのではないでしょうか。

パウロは、自分がキリストの使徒であることについて、こんな風に考えている。

「人は私達をキリストに仕えるもの、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」1コリ4:1~2

私達はそれぞれ、神から何かを託され、使命を与えられてこの世界に生きるものとされました。それぞれに、宝が託されています。その使命を、神がお望みになる仕方で忠実に管理することが求められています。終わりの日に私達は問われるのです。「天の宝を、どう管理したか、どう用いたか。」

ルカ福音書に、イエス・キリストがお話しなさった「ムナ」のたとえ話があります。

ある人が王の位を受けるために、遠い国に旅立つことになりました。そこで、その人は10人の僕に自分の財産、10ムナの金を渡して、商売してその金を増やすように命じました。それぞれ、1ムナを受け取った僕たちは、自分に託された主人の金を増やそうと努めました。

やがて主人が返ってきた時に、ある僕は1ムナを10倍に、またある僕は5倍にしていました。主人は、それらの僕たちをほめます。

しかし、任せられた1ムナを増やそうとせず、布に包んでしまっておいた僕もいました。損失を出すことを恐れたのです。主人はこの僕を叱り、「この僕から1ムナを取り上げて、10ムナ持っているものに与えなさい」と言いました。

もちろんこのたとえ話は、地上の富のことが言われているのではありません。このたとえ話に出てくる主人と僕は、イエス・キリストと私達です。私達には管理を任されている天の宝があります。

そしてその宝を、キリストが戻って来られるまで増やすことが求められているのです。自分の内に保管するだけで用いようとしない、増やそうとしないと、終わりの日にこのようにキリストから叱られてしまうことになります。

天地創造の始めから神は人間にこの世界の管理を託されました。神の光の支配が壊れないように、そして神の光が少しでも広げるように管理することが求められているのです。

私達がこの世界で生きていく中で忘れてはならないのは、全て神からいただいたものである、ということです。この世界も、この自分の命も、です。神からいただいたこの命を、キリストに救われたこの命を、神が・キリストが喜ばれる仕方で用いていく・・・これが私達の使命です。イエス・キリストの命が現れる器となって生きることです。

パウロは、ローマの信徒たちに、こう書いています。

「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」

この世界も、私達自身も、全て神から出て、神のよって保たれ、そして神に向かっています。もし私達が、神から全てをいただいていることを知らず、神に向かわない生き方をするのであれば、それは的外れに生きている、ということでしょう。託されている天の財産を無駄にしている、ということでしょう。

それでは、私達は具体的に何をすればいいのでしょうか。パウロは続けて、こう書いています。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生贄として捧げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなたがたは、この世に倣ってはなりません」

神を忘れてしまっている「この世」から自分を区別して、神を礼拝しなさい、と言っています。私達にとって、神によって造られた「神の似姿」としての最も相応しい姿は、実は礼拝の姿なのです。

礼拝を通して、我々は神に創造された最も「人間らしい」ものとされていきます。一週、一週の礼拝を通して、私達は人間らしさを保ち、本当の人間らしさを取り戻していく・・・そして神の似姿・神の聖さを映し出す器としての歩みを続けて行くのです。

私達は神から、天の宝を託されています。これは、イエス・キリストが血を流して私達のために取り戻してくださった宝です。

主人のために、忠実に宝を管理した僕は、祝福の報いを受けました。

「よい僕だ。よくやった。お前はごく小さなことに忠実だった」

私達も、終わりの日に、そう言っていただけるよう礼拝生活を続けて行きたいと思います。それが、キリストの十字架に報いる、ということなのです。