3月26日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:3)

聖書にはこの天地がどのように神によって造られたのか、そして神が人間にこの世界でどう生きてほしいと願われたか、ということが記されています。我々人間にとってのこの世界の意味と、この世界に生きる自分という存在の意味ということから描き始めるのです。

今日私たちは六日目と七日目の神の創造の御業に注目していきます。

神は人間を祝福してこうおっしゃいました。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」

神が人間にこの大地を「従わせること」と、この世界に生きる生き物を「支配する」ことをお求めになっています。「従わせる」とか「支配する」という言葉がつかわれているので、ここを読んで誤解してしまう人は多いのではないでしょうか。「人間は神から大地を『従わせる』ことと、生き物を『支配する』ことが許されているのだから、この世界の中で自分たち本位で何をしてもいいのだ、人間さえよければいいのだ」という誤解です。

果たして聖書は、この世界における人間至上主義のようなことを伝えているのでしょうか。「地を従わせよ」とは、我々人間が土に対して何をしてもいいということなのでしょうか。「生き物を支配せよ」とは、人間はこの世界で特別な存在として造られたから、他の生き物に対して人間の優位にふるまっていい、人間だけがこの世界で尊厳をもつものである、ということなのでしょうか。

29節の神の言葉を見ると、そうではないことがわかる。

種を持つ草、種を持つ実をつける木が人間に与えられ、土に育った大地の実りで世界の生き物が養われていく・・・神がお創りになった世界の秩序はそういうものでした。人間が大地の土を食いつぶすということは自分の命を食いつぶすことである、ということはすぐにわかります。土は人間だけのものではないのです。大地は、全て命あるものを生かすために恵みを実らせていくものなのです。

「従わせる」「支配させる」という表現を理解する上で、天地創造の第四の日の神の御業を見ておきましょう。神は、天の大空に光る物を造り、昼と夜を分け、季節・日・年のしるしとして、大地を照らされました。二つの大きな光る物と星を造って、大きな方に昼を「治めさせ」、小さな方に夜を「治めさせられた」とあります。「従わせる」「支配させる」という言葉は、「治めさせる」という言葉と似ています。

太陽は昼を、月は夜をどのように治めているでしょうか。太陽は昼を昼とし、月は夜を夜としている・・・それぞれが昼の秩序、夜の秩序を守る、という治め方です。

このように、「支配させる」とか「従わせる」というのは、ここでは、人間が神の創造の秩序の中で、人間が大地に対して、生き物に対して重要な責任を与えられている、ということなのです。太陽と月が、昼と夜という神の秩序を正しく治めているように、人間は大地を、土を、種を実を、青草を、そして空、陸、海の生き物の営みを、神の光の秩序の中に正しく支配しなければならない、ということなのです。

創世記は誤解されやすい書物だと思います。一つ一つの言葉を丁寧に見て、神が一日一日創造の御業を振り返る際に「よし」とされた、ということを踏まえると、人間至上主義・人間中心主義がこの世界の秩序を壊してしまう、ということが分かります。

人間も、この世界の秩序の中に置かれているのですから、人間が創造主・被造物に対する敬いをなくした時、自分たちが秩序の崩壊に巻き込まれることになる・・・その当たり前のことがここで警告されているのです。

「人間は男と女に創造された」、とあります(26節)。男と女は神に「かたどって」造られた、神の似姿ででした。

ここも、いろんな誤った読み方がされるところではないでしょうか。「神に似せて男と女に造られた、というのであれば、男と女、どちらが神に似ているのか」、「そもそも神は男なのか、女なのか」などという議論になってしまうのです。創世記を読みながらそんなことを議論することは無意味です。人間の性別をいきなり神に当てはめて考えても答えは出ません。

神の似姿として男と女が造られた、ということは、人間は男も女も全ての人が神の祝福のもと造られ、神の栄光を与えられ、この世界の「支配」に等しく責任を持っている、ということです。神の創造の光に即して、世界を守り、世界を天地創造以前の「混沌の闇」に戻さないという厳粛な使命を、男・女、という性別にかかわらず持っている、ということなのです。

神は六日かけて天地の秩序を整えられました。1章の最後、31節を見ると、「神はお創りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」とあります。御自分の発する言葉によって造られたこの世界を、わが子のように、御自分の分身のように愛された、ということだ。

創世記1章を読むと、この天地の形は実際には6日間で造られた、ということがわかります。しかし天地創造にはあと一日、七日目がありました。七日かけて神が天地を創造された、ということは有名なことですが、実際は六日で造られ、七日目に神は何もお創りになっていません。7日目に神がなさったのは、休む、ということでした。

「仕事の手を止めて、休む」ということまでが、神の天地創造の業に含まれる、ということは不思議に思えるのではないでしょうか。しかし実はこのことが、大事なのです。天地創造の御業の中で、7日目に神が休まれた、そしてその日を特別に「聖別された」ということが、実は創世記が描いている天地創造の場面で一番大切なことなのです。

我々は神がお疲れになるとか、神にも休みが必要だった、などということはあまり考えないのではないでしょうか。「神なんだから言葉一つで簡単に世界を造った」ように決めつけてしまいがちです。

しかし、この世界の秩序をお創りになる神のお言葉の一つ一つにどれほどの重みがあったのか、ということもまた考えなければならないことではないでしょうか。

神は言葉によって世界を六日間かけて創造され、そして御自分が世界にお与えになった言葉、そしてその世界を、手を止めて見つめるための特別な一日を加えて初めて「天地創造」の完成とされました。逆に言えば、その7日目がなければ、6日間の創造の業は本当の意味では完成してはいなかったということです。

それではこの7日目にはどのような意味があるのでしょうか。「仕事の手を止めて休む、ということには、何の生産性もないではないか」、と考えるかもしれません。しかし、この7日目の「安息」こそが、他の6日間の創造の業に意味を与えるものなのです。

神が人間のために働かれた六日間と、神がご自分のために休まれた一日が、「天地創造の七日間」となりました。この七日間が、私たちがこの世界に生きる時間の秩序となっています。七日が一週間となり、私たちは七日をひとまとまりとして時間を数えています。

天地創造の7日目は、神がこの世界に礼拝を創造された日であると言いでしょう。私たちは自分たちのために日々働き、そして週に一度、働く手を止めて礼拝の時を持っています。私たちは礼拝の中で神の安息に倣い、この世界とその中に生きている自分自身を見つめ、そしてこの世界と自分を造られた神に心を向けます。神が手を休めてこの世界を見つめられたように。私たちは礼拝を通して、この創世記一章に記されている原点に戻るのです。

もしも、天地創造の7日目にもたれた神の安息がなかったとしたらどうでしょうか。人間は、自分たちだけのために生きて、土も、種も、実も、生き物も、自分のためだけにあるものだ、と人間至上主義に陥り、時間の秩序も作れず、滅びに至るのではないでしょうか。

我々は、自分を生かすために働く手を止め、本当に自分を生かしてくださっている神に心を向けます。そうやって、この世界を、自分を、神を見つめています。私たちが本当に人間らしくあれるのは、この時間が神から与えられているからなのです。

「人はパンだけで生きるのではない」、という神の律法、イエス・キリストのみ言葉は、私たちが神の安息に入れられ、礼拝の静けさの中で教えられていく真理なのだ。

そして私たちが忘れてならないのは、聖書が伝えているのは、人間がこの天地創造の光の秩序を壊してしまっているのではないか、という警告である、ということだ。聖書は、「あなたは創造の秩序を正しく『支配』しているか」と問いかけています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で書いています。

「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます」

だから、私たちには弁解の余地がない、とパウロは言います。

「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなった・・・自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」ロマ書1:18以下

創世記は、天地創造の場面を通して、「あなたは神の秩序を壊していないか」と問いかけてきます。この天地創造で、神がご覧になって「極めてよかった」と思われた世界は、実は人間が失ってしまった世界なのです。

この世界は、神がお創りになったものなのだから、パウロが言うように、神の栄光に満ち溢れています。しかし、人間はどれほどそれを見出しているでしょうか。

聖書は、この世界に神の栄光を見失って空しさを覚えている人に立ち返るべき世界・立ち返るべき創造主を示し、希望を与えようとしています。

イエス・キリストは人間が神から離れた罪を全て十字架で担ってくださいました。御自分の肉を裂かれ血を流し、それによって神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いて、創造主へと立ち返る道を拓いてくださいました。

私たちは創世記の天地創造を読みながら、キリストが痛みをもって示してくださった神の国を見せられているのです。今、この礼拝へと、そしてこの天地創造の景色へと導いてくださったイエス・キリストに感謝したいと思います。私たちが立ち返るのは、ここなのです。