4月9日の礼拝説教(イースター礼拝)

ルカ福音書23:26~43

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです』」(23:34)

イースターの朝を迎えました。十字架で殺されたはずのナザレのイエスの墓が空になり、人々が驚き怪しんだ朝です。そしてそれは同時に、イエス・キリストを信じ従っていた人たちが、復活なさったキリストに出会い、永遠の命の信仰を確かなものにした朝でもあります。

今日私たちは、ルカ福音書に記された、主イエス・キリストの十字架のお姿を見つめたいと思います。そして、この方の十字架によって私たちがどのように死の力から救われたのか、ということを学んでいきましょう。

主イエスが十字架に上げられたのは、「されこうべ」と呼ばれている処刑場でした。アラム語で「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリア」と呼ばれています。なぜそこが「されこうべ」と呼ばれていたか、というと、その処刑場が崖の上にあって、その崖が、少し離れたところから見ると骸骨に見えたからです。死を連想させる恐ろしい名前が付けられた場所でした。

古代の歴史家は、十字架刑のことを「最も憐れむべき死」とか、「奴隷に課せられる一番の拷問」という表現で記録しています。それだけ壮絶な苦しみを伴う処刑法だったということです。

十字架の罪人は自分が釘で打ち付けられる木を自分で処刑場まで運ばされました。イエス・キリストは9時に十字架に釘で打ち付けられ、それから6時間もの間苦しんで、死なれました。

この方の死は何だったのでしょうか。なぜこの方は死ななければならなかったのでしょうか。

私たちは、この方のことを、「犯してもいない罪で有罪とされ十字架に上げられた不運な人・悲劇の人」として見ることもできます。しかし聖書は、この方の十字架の死について、「非業の死を遂げた英雄」のようには伝えていません。預言によって伝えられてきた神の救いの御業の実現であると教えています。

はじめて福音書を読む人は、主イエスが十字架で殺されてしまったことを、不可解な悲劇として受け止めるのではないでしょうか。しかし、旧約聖書を見ると、この方の死は決して不可解なものでも、偶然でもなく、神が時を選んでご準備されていた救いの御業であったことがわかります。

旧約聖書の詩編の中に、信仰者が苦しみの中から神に祈り求める言葉があります。詩編22編や69編を見ると、このような詩人の嘆きの言葉があります。

詩編22:7~9「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう』」

詩編22:19「骨が数えられる程になった私の体を彼らはさらし者にして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」

詩編69:21~22「嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

十字架の上のイエス・キリストこそ、詩編で歌われ預言されていたる苦しみの信仰者の姿でした。

キリストの十字架の周りにいた人たちはどうだったでしょうか。民衆、ユダヤの指導者たち、ローマ兵たち、そして主イエスと一緒に十字架に上げられた二人の強盗がいました。

35節では、「民衆は立って見つめていた」とあります。日曜日に主イエスがエルサレムに入場された時には、民衆は歓喜の歌をもって、迎え入れました。しかし、金曜日の朝、たった五日で、民衆の喜びは消えました。「メシアではないか」と喜びをもって迎えたその人が十字架に上げられているのです。民衆は黙って主の十字架の前に立ち、そのお姿を黙って見つめるしかありませんでした。

民衆とは対照的なのが、ユダヤの指導者たち、ローマ兵、そして主イエスと一緒に十字架に上げられた二人の強盗の内の一人でした。ユダヤの指導者たちも、ローマ兵も、強盗の一人も、皆同じことを主イエスに向かって言いました。

「自分を救ってみろ」

確かにそうでしょう。これまで主イエスはたくさんの人たちを救ってこられました。病気を癒し、悪霊を追い払い、「あなたのもとに神の支配は届いている」と伝えて来られました。

「神からのメシアなら、選ばれた者なら、ユダヤ人の王なら、自分自身を救ってみろ。他の人たちのことは救えたではないか」と言うのが普通でしょう。世界に救いをもたらすメシアであれば、十字架で殺されるなんてことがあるはずがないのです。

しかし、御自分を嘲る人たちのために、主イエスは神にこう祈られました。

「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」

彼らが「知らなかったこと」とは何だったのでしょうか。

ヘブライ人への手紙9:12にこうあります。

「キリストは・・・ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです・・・ご自身を傷のないものとして神に捧げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです」

人々は、自分たちが十字架に上げて殺そうとしているこの方はキリストであり、御自分の血を流して、神との契約へと導き入れようとしてくださっているということを「知らなかった」のです。

イエス・キリストはご自分に苦しみを与える人たちのために執成して祈られました。

「父よ、彼らをお許しください」

この執り成しの祈りの言葉を、二人の強盗は隣で聞きました。強盗の一人は、主イエスを馬鹿にしました。自分が十字架に上げられているくせに、「彼らをお許しください」などと祈っているのが滑稽だったのでしょう。

しかし、もう一人の強盗は、その主イエスの姿に何かを見出しました。そして主イエスを馬鹿にするもう一人の強盗をいさめ、自分の罪を告白します。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」

この強盗は、主イエスと面識があったわけではないのです。十字架の上で捧げられた主イエスの壮絶な執り成しの祈りの言葉を聞いて、この方こそメシアであると確信したのです。

この二人の強盗を比べて見ると対照的です。主イエス罵った強盗は、「自分と我々を助けろ」と言いました。しかし、もう一人の強盗は、「私を助けてください」ではなく、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」という言葉でした。

この人が望んだことは、自分の命が助かることではなく、このイエスという方に自分を思い出してもらうことでした。この人は、自分の地上の命以上に価値のあることを、十字架上のイエスという方の中に見出したのです。

主イエスはこの人に向かって「あなたは今日私と共に楽園にいる」とおっしゃいました。イエス・キリストは、最後の最後まで、十字架の上においてまで、神との和解・神への立ち返りを罪びとにお与えになり、御国への道を拓かれたのです。

十字架の上にも、楽園はあるのです。イエス・キリストが共にいて、自分のことを思ってくださるのであれば、たとえ十字架の上であってもそこは楽園となるのです。

ヘブライ人への手紙にこう書かれている。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪をつぐなうために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです」

神の子イエス・キリストは我々と同じところに来られました。

神の子でありながら、洗礼をお受けになり、神の子でありながら血を流して神の御心を祈り求めていかれました。そうやって、神を信じる信仰者としてどう生きるべきかを、ご自身のお姿を通して示されたのです。

我々信仰者は、このイエス・キリストの歩みに倣います。「キリストの歩みに倣う」ということは、「キリストの御跡を行く・キリストの足跡を踏んでいく」、ということです。

今日読んだ場面には、キレネ人シモンという人が出てきます。シモンは、イエスという罪人の十字架を無理やり運ばされました。それはシモンにとっては屈辱だったと思います。

26節を見ると、人々はシモンを「イエスの後ろから運ばせた」とあります。シモンは文字通り、「イエス・キリストの後ろ」を行ったのです。「キリストの足跡を踏んだ」のです。シモンはその時、そのことには気づかなかったでしょう。しかし、この時のシモンの歩みは、私たち信仰者の歩みの象徴です。

27節には「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」とあります。主イエスはご自分のために嘆く民衆に向かっておっしゃいました。

「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」

どういうことなのでしょうか。主イエスは旅をしてエルサレムに近づき、都が見えた時、涙を流しておっしゃいました。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない」

その時、主イエスには不信仰のエルサレムがこれから向かって行く滅びが見えていたのです。

我々信仰者は、このイエス・キリストの涙に倣います。キリストに従う、ということは、神から離れた人たちのために涙を流されるキリストの後に従う、ということでもあります。神は、ご自分から離れてしまった人たちを求めて泣いていらっしゃるのです。だから我々も神・キリストと共にその涙を流します。

信仰者は、神を知らず闇を生きている人、空しさに苦しむ人、何を求めていいのかわからずさまよっている人のために私たちは執り成しの祈りを続けていきます。十字架の上のキリストのように。だから、私たちには信仰ゆえの痛みがあります。

しかし、全ての涙がぬぐわれる時が来ます。

ヨハネ黙示録21:3 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」

主イエスは十字架の上で死なれました。しかし、神の救いの御業は、神の子の十字架の死では終わりませんでした。十字架の死から三日目の朝、夜明けの光と共に復活の希望の光が照り輝いたのです。主イエスの復活は、地上の命の先に、復活の命・永遠の命があることを示しています。

私たちはキリストを信じ、従う中で、私たちもあの強盗が十字架の上で聞いたのと同じ言葉を聞きます。

「あなたは今日、私と共に楽園にいる」

主イエスが私たちと共にいてくださる時、どこにいてもそこは楽園となります。苦難・悲しみの中にあっても、たとえ十字架の上であっても、墓に入れられた死の眠りの中にあっても、キリストが共にいてくだされば楽園となるのです。そしてそこには、永遠の命へと向かう復活の希望があるのです。

イエス・キリストは十字架の上で、父なる神に祈り続けられました。「父よ・・・父よ・・・」と最後まで呼びかけていらっしゃいます。キリストは最後まで神から離れられることはなかったのです。キリストと神の愛の結びつきは、絶えることはありませんでした。

私たちはキリストの血によって、その神との愛の契約に入れられています。キリストが復活なさった朝、喜びをもってこの新しい命に感謝しましょう。