2月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~15

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

夜、誰にも知られずにイエス・キリストを訪れたニコデモは、「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と言われ戸惑いました。「あなたは神の元から来られた教師ですね」と尊敬の意を示したのに、主イエスから「あなたはまだ私について何もわかっていない」ということを示されてしまったのです。ファリサイ派でありユダヤの議員であったにも関わらず、「上から生まれ変わらなければならない」と言われたニコデモは「どのようにして生まれ変われるというのか」と無理解でした。

ヨハネ福音書は、主イエスが天から来られ、天の言葉を世に聞かせてくださった方であることを1章で証ししています。全ての初めにあった神が、人となり、この世に人間として生まれ、世に向かって神の言葉を伝えた、それがあのイエスという方であったという、この福音書を読む上での大前提を示しています。

ヨハネ福音書を通して私たちはイエス・キリストの公の生涯を見ていますが、その前提を無しにこの方の業と言葉に向き合うと本当には何も理解できないことになってしまいます。

この夜のニコデモがそうでした。そして、当時にユダヤ人たちがそうでした。主イエスは神殿でお怒りになって商人たちをそこから追い出された時、ユダヤ人たちから詰め寄られました。その際、「この神殿を倒して見なさい。三日で建て直していせる」とおっしゃいました。ユダヤ人たちは、「46年もかけて建築して来たこの神殿を三日で建て直すのか」、と表面的にしか主イエスの言葉を理解できなかったことが記されています。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、十字架の死から三日目に復活なさった御自分の体のことでした。弟子達が主イエスの十字架と復活を見た時、初めて、「あの時主イエスが神殿でおっしゃったのは、御自分の体のことだったのだ。キリストご自身が、今、新しい神殿となられたのだ」と悟ることになりました。

世の人々は、主イエスがなさること、おっしゃることをこの世の基準で見ようとしました。だから、皆、理解できなかったのです。主イエスが「神殿を三日で建て直して見せる」とおっしゃったことも、「人は新しく上から生まれなければならない」とおっしゃったことも、字義通りのこととして、そして世のものさしでしかとらえることが出来なかったのです。

ニコデモは、「どうしてそんなことが出来るでしょうか」「どうしてそんなことがありえるでしょうか」と言い続けました。この主イエスとニコデモのやりとりを通して、私たちも今日、主イエスがお伝えになろうとした霊的な意味を探っていきたいと思います。

キリストは不思議なことをおっしゃっています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

これは、「風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く」という言葉です。原文のギリシャ語で「風」という単語には「霊」という意味もあるので、「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く」と訳してもいい言葉です。

主イエスははっきりと、ニコデモに、「あなたは実は今、霊の声を聞いている」とおっしゃっているのです。霊の声はきこえているはずなのに、あなたは聞こうとしていないのだ、と暗におっしゃっているのです。

ニコデモには霊の声、目の前にいらっしゃる神の子が話される神の言葉を捉えることができませんでした。このニコデモの霊的な無理解は、私たちにとって大きな警告となるのではないか。

神が語りかけてくださっているのに、聖霊の招きが自分に確かに及んでいるのに、自分の心がそちらに向いていないのであれば、この夜のニコデモのように、私たちはキリストの前に「どうしてそんなことが出来るでしょうか、どうしてそんなことがあり得るでしょうか」と、ただ、自分の理解を超えたものに対して心を閉ざすことを続けてしまうことになります。

風が吹くように、神の霊は吹いているのです。風の音が聞こえるように、実は私たちは霊の声が聞こえているのです。私たちは普段、風の音など気にしていません。いつ、どこで風に吹かれたか、など、意識して生きていません。それと同じように、霊の声に心を向けなければ、どれだけキリストの言葉を聞いても、聖書を読んでも私たちは何とも思わないのです。

この夜の主イエスとニコデモの噛み合わないやりとりは、この福音書を通じて、主イエスとユダヤ人との間に続いていくことになります。「あなたは一体何者なのですか」と尋ねてくるユダヤ人たちに主イエスがいくらお答えになっても、ユダヤ人たちは理解できませんでした。

ユダヤ人たちだけでなく、弟子達もそうでした。十字架に上げられるために逮捕される夜、主イエスは弟子達の足を洗われた際、おっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」

しかし、それを聞いた弟子の一人トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」と言いました。

弟子達も、主イエスと一緒に三年以上寝食を共にして旅を続け、教えを聞いていたにも関わらず、主イエスがおっしゃる言葉の本当の意味は理解できていなかったのです。

天にある神の御心を知る、ということに、地上に生きる我々人間がどれだけ心を向けることができていないか、ということを思わされます。私たちは自分自身を天の領域へと上げることができません。いつも自分のことで手一杯です。自分が聞きたい言葉だけを選び、聞きたくないことには心を向けようとしないのです。自分の中にある言葉を空っぽにして、聖書の言葉を迎え入れようとする隙間をなかなか作ることができません。

だからこそ、天にいらっしゃる神が、天の言葉を伝えるために、この世にまで来てくださったのです。

主イエスはニコデモに「はっきり言っておく」とおっしゃっています。主イエスはこの夜だけで、ニコデモに三度、この言葉をおっしゃっています。ヨハネ福音書全体では、25回もおっしゃっています。

これは、直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という言葉です。

主イエスは、ナタナエルをご自分の弟子として召される時、おっしゃいました。

「天が開いた状態になり、人の子の上に神のみ使いたちがのぼったりくだったりしているのを、あなたがたは見ることになる」

「人の子」というのは、主イエスご自身のことです。主イエスが、創世記でヤコブが見たというあの天と地を結ぶはしごとなられる、とおっしゃるのです。

そのように、主イエスはナタナエルやニコデモをはじめとして、世の人々に「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」と、天の言葉をお伝えになります。そうやって、天と地を結ぼうとされるのです。

「アーメン、私はあなたに告げる」と、キリストは今でも私たちにおっしゃっています。私たちは、風が吹く音が聞こえているように、霊の声が聞こえているのです。その音、その声を聞こうとするかどうかです。

この夜、ニコデモが聞かなければならなかったことは何だったのでしょうか。イスラエルの教師として、思い出さなければならなかったのは何だったのでしょうか。

BC6世紀の預言者エゼキエルが、バビロンで捕囚とされていたイスラエルの人たちに神の言葉を告げました。

「『イスラエルの家よ・・・お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ』と主なる神は言われる」

エゼキエルの口を通して、神は、イスラエルの背きからの立ち返りをお求めになりました。その際、「新しい心と新しい霊を造り出せ」とおっしゃっています。神から離れた場所から、神の元へと戻ってくる、ということ。神を知るということは、新しい命を生きることなのです。

この夜、ニコデモは、「新しく上から生まれなければ神の王国には入れない」と言われ、理解できませんでした。しかし、もし聖書の言葉に詳しいはずの律法学者のニコデモが、このエゼキエルの預言を思い出していたらどうだったでしょうか。今こそ真の神の元に立ち返り、新しい命に生きる時が来た、と理解できたはずでしょう。

主イエスは14節で、こうおっしゃっています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

民数記21:4以下で、イスラエルの民が神とモーセに逆らった時のことが記されています。荒野を歩く生活に嫌気がさしたイスラエルの民は怒って不満をぶつけました。

「なぜ私たちをエジプトから導き上ったのか。私たちを荒れ野で殺すためか」

神の救いを非難した人たちは、罰を受け、毒蛇にかまれてしまいました。人々は「私たちは罪を犯しました」と言って、モーセに助けを求めました。神は、モーセに蛇の像を作らせ、それを仰ぐ人を助けられました。そうやって、神は、御自分に逆らう人たちに救いの道を備えてくださいました。

主イエスはその事件を引き合いに出して、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とおっしゃいます。つまり、「人々が救われるために、私は十字架に上げられなければならない」、とおっしゃっているのです。

荒れ野で滅びそうになったイスラエルは、神から示された救いのしるしを見上げて助かりました。今、世に与えられた救いのしるしは、十字架へと上げられたイエス・キリストです。痛めつけられ、釘で打ち付けられたあの方のお姿に、自分の罪の重さと、主の痛みと引き換えに与えられた救いの恵みを知るのです。

人間が考えた死刑の道具の上で、神の子は永遠の命に至る許しを示してくださいました。神が、人間の罪の痛みを全てになって赦してくださったというのです。大きな恵みです。

さて、最後に、11節以下のキリストの言葉を見たいと思います。奇妙なことに、11節以降、ニコデモの姿が消えてしまいます。

主イエスは、「あなた」とニコデモに語りかけていらっしゃいましたが、ここからだんだんニコデモの姿が薄れていき、「あなたたち」という複数形が使われています。ニコデモに語りかけていた言葉が、いつの間にかイエス・キリストの独り言のようになっています。そして語りかける相手が、「あなたたち」と、この福音書を読んでいる私たちに向けられているような書き方がされているのです。

ヨハネ福音書はここで不思議な文学技法を用いていています。いつの間にか私たちがキリストの前に立たされ、キリストから直接語りかけられているのです。夜に交わされた主イエスとニコデモの会話は、いつの間にか、聖書と私たちの会話になっています。

キリストは聖書を通して、直接私たちに今、語りかけてくださっています。

「私は天上のことをあなたたちに伝えている。思いを天に向けて、私の言葉に聞きなさい。そして、十字架に上げられた私を、天に上げられた私を見上げて、霊の声を聞きなさい」

ここからニコデモは少しずつ変わっていくことになります。十字架に上げられた主イエスを見上げた時、ファリサイ派でありユダヤの最高法院の議員であった彼が、自分で主イエスの埋葬のための金を出し、遺体を引き取って埋葬することになるのです。

私たちも今、聖霊が吹く音を聞き分け、キリストの十字架へと心を向けるところへと日々新たにされているのです。