3月3日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:16~21

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

おそらく、ヨハネ福音書の中で、いや聖書の中でも最も有名な言葉ではないでしょうか。「聖書の中の聖書」と呼ばれたりもする言葉です。聖書の全てがこの1節に凝縮されていると言ってもいいでしょう。

ニコデモというファリサイ派の議員が、夜主イエスの下にやって来て、二人だけで会話をしました。ヨハネ福音書は不思議な文体で書かれていて、この16節以下は、ニコデモとの会話の中でキリストが語られた言葉のようにも読めるし、福音書の解説文のようにも読めるし、キリストの独り言のようにも読めます。

3章はキリストとニコデモの出会いと会話として描かれてはいるのですが、よく読むと、10節まではキリストはニコデモに対して「あなたは」と語りかけていらっしゃいます。しかし、その後、3章の後半になると、「あなたがた」という言い方になり、だんだんニコデモの姿が消えてしまいます。

この言葉が、キリストご自身の言葉なのか、福音書の解説の一文なのか、またこれが、ニコデモに向けられた言葉なのか、キリストの独り言なのかは、よくわかりません。

ただ間違いなく言えるのは、この言葉は、ニコデモだけでなく、今この福音書を読んでいる私たちに向かって、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と証ししている、ということです。これは、ニコデモだけにお教えになった言葉ではなく、「神はそれほどにあなたを愛されているのだ、私はあなたのために命を差し出すのだ」という、世の全ての人に対する証しなのです。

今日私たちが読んだのは、ヨハネ福音書が世に向かって一番伝えようとしているテーマが凝縮されている箇所です。この福音書の頂点と言ってもいいような言葉が語られています。

福音書が書かれた当時のギリシャ哲学では、天上にあるものを崇高なものと捉え、地上のもの、私たちの目に見える者、手で触れるモノを劣ったものと考えました。そしてこの地上の物質世界から解放されることを目指していました。そのような時代に書かれた福音書なので、ヨハネ福音書は天の領域のものと地上の領域を対比させている表現が多く出てきます。

しかし、この聖書の福音、天と地を分けてはいるが、地上のものを全否定しているわけではありません。むしろ、天にいらっしゃる神が、この世・この地上に生きる我々人間を価値あるものとして愛してくださっている、ということを力強く描き出しています。天の世界・霊の世界が優れていて、地上の世界、物質の世界が劣っているから価値がない、などということは言いません。

そうではなく、「神はこの世を愛された」、と書かれています。しかも、独り子をお与えになるほどに、です。

天の世界は天の世界、地上の世界は地上の世界で別々に考えて生きればいい、というのではないのです。天地をお創りになった神が、地上に生きる私たちを愛し、この世の罪深い有様を憂い、天から地上に来てくださったように、この世に生きる私達も、天にいらっしゃる神に、また生きて私達を天の国へと導いていらっしゃるキリストに向かわなければ、聖書が伝える福音・喜びの知らせを理解することはできないのです。

ヨハネ福音書では、神が独り子を世に送られた、という表現が50回以上も出てきます。今日私たちが読んだところでは、神が独り子を何のために遣わされたのか、その目的が書かれています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

世を救う、ということは、神から離れてしまった世の全ての人をご自分の下に取り戻す、ということです。御子イエス・キリストの命は、そのために使われる、というのです。

「独り子の命を差し出す」、ということで思い出されるのは、アブラハムが自分の子イサクを生贄として捧げるよう神から命じられた出来事でしょう(創世記22章)。

なかなか子供が授からなかったアブラハムとサラに、ようやく愛する独り子が与えられました。それなのに、神から突然、「イサクを私に捧げなさい」、と言われるのです。アブラハムは黙ってそれに従いました。イサクも黙って生贄台に身を横たえました。そしてアブラハムがイサクを殺そうと手を挙げた時、神は「あなたの信仰はわかった」とおっしゃり、代わりに羊をお与えになるのです。

創世記のその場面を読むと、私たちには神はなんと残酷なことをなさるのだろうか、と思うのではないでしょうか。アブラハムの信仰を試すために、イサクの命をお用いになったのです。

なぜ神は、そこまでしてアブラハムを試されたのでしょうか。アブラハムは、75歳の時に、神の召し出しによって自分の故郷を捨て、外国へと旅立ちました。そして神が示される地に入り、神を礼拝し、その後も神に従い続けました。そこまで神への信頼を抱いていたアブラハムなのに、神は更に信仰を試されたのです。

神は、「モリヤの地に行き、あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」、とおっしゃいました。「モリヤの地」とはどこでしょうか。後にソロモンが神殿を建築することになる場所です(歴代誌下3:1)。そしてそこは後に、イエス・キリスト、神の独り子が生贄として十字架に上げられることになる場所なのです。

アブラハムが独り子をささげようとしたモリヤの地、エルサレムの山、まさにその場所で、神の独り子は十字架へと上げられました。

神は独り子をささげるほどのアブラハムの思いをご覧になったのです。だからこそ、神は同じ場所で、世を救うためにご自分の独り子をささげることを決断されたのではないでしょうか。アブラハムに与えられた信仰の試練は、時を経て、イエス・キリストの十字架という救いの実りへとつながっていくのです。

神の子イエス・キリストは、私たちのために神と共に生きる道を示そうと命をかけてくださいました。そうであるなら、私たちもそれに対して命を懸けなければならないのではないでしょうか。アブラハムのように、命を懸けて神と共にいる道を行くか、命を懸けて神から離れるか、決断がうながされているのです。

いつでも、私たちには目の前に二つの道が置かれています。

BC6世紀、預言者エレミヤは、差し迫るバビロンの軍隊を前にして、ユダの王にこう告げました。

「主はこう言われる。見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」エレ21:8

信仰者は、命の道と死の道を常に選択する岐路に立たされているのです。

使徒パウロも手紙の中でこう書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」ロマ6:16

洗礼を受けたからと言って、私たちの信仰生活が完結する、完成する、ということはありません。洗礼を受け、そこから信仰の歩みが始まる、というだけのことです。むしろ、洗礼から、信仰の本当の試練が始まるのです。

信仰者にこそ、サタンの誘惑はやって来ます。

「キリストから離れてはどうか。あなたが救い主になってみてはどうか」という声が近寄ってくるのです。

私たちは一生涯をかけて、私のために命を捨ててくださったキリストと共に歩みぬく、という信仰の戦いを続けることになります。その際に何度も立ち返るのが、今日私達が読んだ、キリストの言葉ではないでしょうか。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

私たちは、この夜、イエス・キリストのことを理解できなかったニコデモと、キリストを裏切ることになるユダを比較することが出来ます。

この夜、ニコデモは無理解でした。しかし、エルサレムでしるしを行い、福音を告げるイエスという方のことを少しずつ理解し、キリストの十字架を見て、キリストの下に立ち返っていくことになります。独り子をお与えになるほどの神の愛を見出したのです。闇の中から、光の下へと立ち返ったのです。

しかしユダは、キリストと一緒にいて共に旅を続けてきましたが、夜、闇の中へと出て行き、キリストを引き渡すことにしました。そしてその後もキリストの元へと立ち返ることなく、自らの命を絶ってしまいました。

ニコデモとユダ、それぞれが選んだ道に現われているように、命の道と死の道は、私たちの目の前に常に置かれているのです。罪の僕となるか神の僕となるか、私たちはいつでも問われています。このことは、ユダを見ればわかるように、私たちの命に関わることなのです。

「御子を・・・信じない者は既に裁かれている」と主イエスはおっしゃっています。

神から離れている、神に背を向けている、ということは、光から離れている、光に背を向けているということです。キリストの下に来ない人は、今闇の中に生きている、ということだ。

「既に裁かれている」ということは、「滅びに至る道を歩んでいる」ということだ。

それは、言い方を変えると、「私があなたを迎えるために世に来た今こそ、闇の中から出て来て、私という光に来なさい」というキリストの招きなのです。この招きの言葉は、少しずつニコデモの心に沁みこんでいきました。

キリストが世に来られた今、光に至る道と闇に至る道、どちらを選び取るかを、聖書は常に私たちに問いかけています。主イエスの到来はこの世の人々に決断を促した。裁きの時を迎えた今、あなたはどうするか、ということです。

光が世に来た、ということは、影ができた、ということでもあります。全ての人が光を好んだわけではありませんでした。影の中に生きることを好む人たちもいました。神が世に来られて全ての人を招かれても、全ての人が応じたわけではなかったのです。

しかし、そしてその時わからなくても、後になってキリストとの出会いの意味に気づくことがあります。ニコデモのように。

私たちもそうではないでしょうか。「あの時、自分では気づかなかったが、確かにキリストが私を招いてくださっていた」と思い返すことがあるのではないでしょうか。

今、私たちは「主の日」の秒読みの時を生きています。「主の日」とは、神が来られる日、イエス・キリストの再臨の時です。キリストの再臨の日、それは、裁きの日でもあります。

旧約聖書の創世記で、ソドムの町からロトの一家を救い出そうとなさる神の救いが書かれています。その際、主なる神はロトにおっしゃいました。

「命がけで逃れよ。後ろと振り返ってはいけない」

私たちがキリストと共に生きるかどうか、神の光を求めるかどうか、ということは、実は私たちの命に関わることであり、「命がけ」のことなのです。ヨハネ福音書が伝えている神から離れた闇、罪の暗闇は、私たちが「後ろを振り返らず命がけで逃れる」べきものなのです。

キリストの弟子のペトロが、後に手紙の中でこう書いています。

「主は・・・一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです」Ⅱペトロ3:9

今この時も、神は聖書の言葉を通して、一人でも罪の闇から救おうと忍耐していらっしゃいます。ニコデモが置かれていたあの夜の闇は、私たちにとって他人事ではありません。これから先、またあの夜の闇に戻ることだってあるのです。

それでも、私たちはその闇の中で、何度でもキリストの言葉を聞かせていただけます。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

キリストが命をかけたこの招きの言葉に、自分の身を委ねていきましょう。