ヨハネ福音書9:35~41
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
ヨハネ福音書9章全体を通して描かれている、キリストの盲人の癒しの出来事を読んでいます。9章全体は癒しの出来事を描いていますが、イエス・キリストが登場するのは、その始めと終わりだけです。目の見えず物乞いをしていた人をシロアムの池に行かせて、その目を癒されてから後、主イエスのお姿は描かれていません。
癒しの出来事の後、癒された人の方に焦点が当てられ、この癒された人に起こった奇跡に対してユダヤ人がどのように反応したのか、ということの方を描いています。癒しの出来事そのものではなく、癒しの後、癒された人がどうなったか、また、主イエスがいらっしゃらないところで、主イエスの奇跡の御業がどのように人々に影響を与えたのかということを伝えているのです。
主イエスのお姿が見えないところで、ファリサイ派の人たちは盲人だった人を尋問し、その証言が信じられなかったので、その人の両親まで呼び出しました。それでも納得がいかず、また癒された本人を召し出して尋問します。その人は、主イエスが行われたしるしそのものでした。その「しるし」を目の当たりにしても、ユダヤ人たちはナザレのイエスのことを神の子・キリストである受け入れることが出来なかったのです。
自分に起こったことをいくら証言しても信じてもらえず、自分を癒してくださった方のことまでかたくなに否定しようとするファリサイ派の人たちに向かって、盲人だった人は、「あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」と言いました。痛烈な皮肉です。
「あの方が神の元から来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」
ファリサイ派の人たちは、この人の言葉に怒りました。生まれながらに目が見えないことを、「罪の中に生まれた」と捉えていた彼らは、自分たちはモーセの弟子で、神の言葉である律法を学び、実践しているのに、罪びとのくせに生意気なことを言っている、と思ったのでしょう。
ついに、ユダヤ人たちは盲人だった人を会堂から追放しました。「会堂から追い出された」、ということは会堂の建物の中から追い出された、というだけのことではありません。信仰共同体から排斥された、ということであり、礼拝から追い出された、ということでした。
せっかく神の子に目を開けていただいたのに、人々の輪の中から追い出されてしまい、一人ぼっちになってしまいました。何かおかしなことになっています。
しかし、この人は一人になったのではありませんでした。会堂から追い出されたところで、イエス・キリストが再び出会ってくださったのです。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会われた」と書かれています。
追放され、一人となったその人の元に来られたのが、イエス・キリストでした。人々から避けられ 無視されても主イエスだけはそうではないのです。
詩篇27編9節から10節にこのような祈りの言葉が謡われています。
「あなたは私の助け。救いの神よ、私を離れないでください。見捨てないでください。父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せてくださいます」
自分にとって父母は、この世で一番の味方です。最大の味方である父母から万が一見捨てられるような悲劇の中でも、神が必ず自分を引き寄せてくださるという、最後の希望が神の招きにあるという信仰を歌いあげています。
盲人だった人が会堂から追い出された後、イエスが出会ってくださって感じたのはこの希望でした。この人は、ファリサイ派の人たちに対して、主イエスのことを悪く言うこともできたでしょう。「私は何もしていない。イエスという人が勝手に私のことを癒したのだ」と言い逃れすることだってできました。
しかし、彼は淡々と自分の身に起こったことを証言し、「私はあの方に会いたい」と主イエスを求めました。自分を癒してくださった方への信頼を貫いたことで、信仰の兄弟たちから追放されてしまいます。そしてその人を、イエス・キリストは放っておかれませんでした。
会堂から追放された時、この人はこの世での自分の無力さや、不条理を感じたでしょう。主イエスへの信仰を貫いたことで不利な立場に陥る、その場に居づらくなる、ということがあります。キリスト者であれば、大なり小なりそのような経験があるでしょう。
むしろキリストへの信仰を隠しておいた方が波風立てずに生きていけると感じることもあるでしょう。しかしそのような、弱っているキリスト者には希望があるのです。
信仰ゆえに苦しむ人、弱っている人のもとにこそ、キリストは来てくださいます。場所を失った人、道を見失った人にこそ、イエス・キリストは神の憐れみをもってその人のところにまで来てくださり、道を示し、場所を与えてくださいます。
イエスは6章37節でこうおっしゃっています。「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」
ユダヤの宗教的指導者たちは皮肉にも神の子に癒された盲人を追放しました。しかし神の子ご自身は、人々からはじかれそれでもご自分を求める人を決してお見捨てにはならなかったのです。
イエス・キリストの約束は、神の約束そのものです。創世記28章で、神は家から逃げ出したヤコブにおっしゃいました。
「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
「私はあなたを見捨てない」、この神の約束が全ての信仰者の希望の礎なのです。
イエス・キリストのために人々に背を向けられてしまったこの人は、それでも自分を癒してくださったキリストを求めました。そしてキリストがこの人のもとに来てくださり、信仰の光への入り口に立つようになります。
主イエスはこの人にお尋ねになりました。
「あなたは人の子を信じるか」
「神を信じるか」ではなく「人の子を信じるか」とお尋ねになっています。これはどういう意味でしょうか。ご自身のことを、「人間となって世に来てくださった神であると信じるか」、とお尋ねになっているのです。
癒された人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのです」と言いました。シロアムの池に遣わされて目を洗ってから見えるようになったので、この人は主イエスの顔を知らなかったからです。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
こう言われて、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。「ひざまずいた」というのは、「礼拝した」という意味の言葉です。
私たち「信じる」とか「信仰」とかいう言葉を使います。それをどういう意味で使っているでしょうか。
「神を信じる」ということは、ただ「神が存在すると信じている」ということではありません。神が自分を愛し、自分をもっともよい道へと導こうとしてくださっていることを信じ、信頼し、自分をゆだねる、ということです。それが、自分の礼拝や祈りの姿に現れるのです。
私たちが使っている信仰という言葉は、そこまでの意味が含まれています。その方に信頼して従って生きる、という、生き方の決断まで問われている言葉なのです。
主イエスはご自分のことを「人の子」とおっしゃって、人となって世に迎えに来られた神であることを信じるか、そしてご自分の導きに身をゆだねるかどうか、その信仰を確認されました。この、盲人だった人が主イエスに出会い、従うようになるこの姿に、私たちは信仰の歩みに踏み出す、新しい信仰者の姿を見ます。
この人は、「その方を信じたい」と言いました。「もう信じている」ではありません。「それはあなたと話している私である」と主イエスはおっしゃいました。
これはサマリア人女性におっしゃった言葉と同じです。井戸に水くみにやってきたサマリア人女性は、はじめ主イエスのことをただのユダヤ人の旅人として見ていました。それが話をするうちに「預言者だとお見受けします」と言い、最後にこの人はキリストかもしれないと思うようになっていきます。
少しずつ、「この人には預言者以上の何かがある」と思うようになり、「いつかキリストが来ることを知っています」と言う女性に、主イエスは「それはあなたと話している私である」とおっしゃいました。
人は突然キリストを信じるようになるのではありません。自分に歩み寄ってくださるキリストに対して、警戒し、探りを入れ、疑いながら、それでも求めつつ、この方が自分にとって本当に救い主なのか、本当に身をゆだねていい方なのかを確かめようとするのです。
その信仰の戦いの中で、私たちは「それはあなたと話している私である」というキリストの声を聴く時が与えられます。霊の目が開かれる時が、必ず与えられるのです。
どこかに救いを求める中で「本当にキリストが私に出会ってくださった」という何かがあって、私たちもキリストに跪く生活、つまりキリストを礼拝する生活が始まったのではないでしょうか。
主イエスに癒された盲人は、この方こそキリストであると信じるようになりました。肉の目だけでなく、霊の目が開かれました。しかし、ファリサイ派の人たちはそうではありませんでした。彼らははじめから主イエスのお姿が見えていたのに、神の子としての姿を見出すことができなかったのです。
主イエスはおっしゃいます。「私がこの世に来たのは裁くためである。こうして見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる」
ファリサイ派の人たちは、主イエスのことが見えないのではありません。見ようとしないのです。ファリサイ派の人たちは「我々も見えないということか」と怒りました。「自分たちは見えている。そして見るべきものも全て見ている」と彼らは自分では信じていました。
それこそが、彼らの罪でした。主イエスはそのような世の人々の闇の中に迎えに来てくださったのです。
ルカ福音書で、主イエスはたとえを話されている。
「盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。・・・あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。・・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」
盲人の道案内をする盲人、これこそこの時のファリサイ派の人たちの姿です。自分には見えていないものがあるということを知っている人こそ、キリストの言葉を受け入れることができます。自分が今神から離れているということを知っている人だけが、本当に立ち返ることができるのです。
私たちは物事を知れば知るほど、知識や経験が増えるほど、自分のものの見方に固執します。自分が今見ているものに固執するのです。そうやって、キリストの光が見えにくくなっていきます。
だからこそ 天から来られた光のもとに進みでなければならないのです。だからこそ、何度でも聖書の言葉に立ち返らなければならないのです。
忘れてならないのは、キリストという光が世に来られたということは、影も生まれたということです。私たちはその陰に逃げ込んで神から隠れるか、光のもとに進み出でインマヌエルの歩みに踏み出すか、決断が迫られています。
「神はその独り子を世にお与えになったほど世を愛された」この聖書の証の言葉の中に、私たちが立ち返るべきは神の光であるという理由の全てが含まれているのではないでしょうか。