3月30日の礼拝説教

 ヨハネ福音書11:45~57

イエス・キリストがラザロという若者を墓の中から蘇らせる、という神の栄光を現わされました。「死者を起こす」ことは、これまでキリストが行われた奇跡の中で一番大きなものでしょう。

キリストがラザロを墓から起こされた意味は、ただ「非科学的なこと成し遂げた」、というだけのことではありません。「世の終わりに起こる」とされていた死者の復活を人々の前でお見せになったことで、この世の終わりの時が近いことをお示しになったのです。そしてラザロの復活こそ神の救いの御業であり、その業を行うご自分こそがキリストであるということの証でした。

多くのユダヤ人たちはそれを見て信じました。墓から出てきたラザロを見て、そこに神の栄光を見たのです。しかし、ラザロの復活という神の栄光に満ちた御業を見ても、まだ信じない人もいたことが書かれています。主イエスの御業を前にして、また、信じる人と信じない人とに分かれました。

ヨハネ福音書に証されているキリストの福音宣教は、この連続です。これまでもキリストを通して神の御業が見せられても、それを神の御業として見る人と、悪霊の業として見る人に分かれてきました。

私たちは、人間が持っている不信仰がどんなに根強いものであるのか、ということに驚かされるのではないでしょうか。ラザロを墓の中から起こされたという事実さえも、すべての人を信仰に導くことはなかったのです。

人が何かを信じるようになること、そして人が何かを信じ続ける、ということがどんなに難しいことかを見せられるのではないかと思います。何かを見て、一瞬信じる、一時信じるということはよくあります。しかし、時間がたって熱が冷めると、すぐに忘れてしまうことがほとんどです。たとえ素直に信じるようになっても、一生信じて自分の身を委ね続けるということはさらに難しいのです。

死者の復活を見ても主イエスがなさったことを「神の御業」として信じられなかった人たちは、「ナザレのイエスがまたエルサレムの近くに戻ってきて、こんな奇跡をおこなった」、とファリサイ派の人たちに告げ口をしました。

ファリサイ派の人たちは、聖書の言葉の研究に力を注いでいた人たちで、これまで、主イエスと対立してきました。安息日に癒しを行ったということでナザレのイエスのことを聖書の掟に違反している者として見ていたのです。そのイエスがエルサレムの近くでまた不思議な業を行い人々の心をつかんでいる、ということを快く思いませんでした。

ナザレのイエスのことを危険視したのは、ファリサイ派の人たちだけではありませんでした。ファリサイ派の人たちは、事を重大視して、最高法院を召集しました。最高法院には、ファリサイ派以外の派閥、そして祭司長がいました。

ファリサイ派以外の最高法院の人たちには、また別の心配がありました。サドカイ派や祭司長は、このイエスという人物のせいで、ユダヤ人全体がローマから弾圧されるのではないか、と恐れました。

祭司長、またサドカイ派は、ユダヤの政治的・宗教的な権力を持っていた人たちです。神殿でいけにえを捧げたり、祭りを司ったりする立場にある彼らは、ユダヤ人の安定した宗教生活の担い手でした。

ローマ帝国は、帝国にとって害や危険がなければ、その宗教に対しては寛容でした。しかしローマ帝国にとって危険な要素があれば、軍隊でその宗教を取り締まっていました。

ユダヤの政治・宗教を司る立場として、最高法院の人たちは、ナザレのイエスのせいでローマから危険視されるのではないか、イエスが群衆を扇動して、ローマ軍から目を付けられるような騒ぎを起こすのではないかと思ったのです。

最高法院の会議の中で、ナザレのイエスへの対策が話し合われました。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

彼の心にあったのは、イエスは本当に神のメシアなのかどうか、ということではありません。自分たちをどうローマから守るか、ということでした。

この会議の中で大祭司であったカイアファが言いました。

「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む法が、あなた方に好都合だとは考えないのか」

この人は紀元18年から36年まで大祭司だった人です。イエス・キリストは、最後にはこの大祭司の考えによって十字架に上げられることになります。

恐ろしいカイアファの言葉ではないでしょうか。国を守るためには一人の人間を犠牲にすればいい、という恐ろしい考えです。

9章で、主イエスは目の見えない人を癒された際、謎めいたことをおっしゃいました。「私が世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる」

それを聞いた時、ファリサイ派の人たちはこれを聞いて怒りました。

「我々も見えないということか」

これに対して主イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」とおっしゃいました。

カイアファは、主イエスの御業を見ていながら、主イエスをメシアとして見ることができません。あの主イエスの言葉に照らし合わせて考えると、「カイアファの罪は残る」、ということになります。

主イエスは以前、「羊は羊飼いの声を知っている。しかし、羊飼い以外の者たちの声にはついていかない」とおっしゃいました。カイアファも自分のことをイスラエルの羊飼いと考えていただろう。しかし、彼は果たして何を見ていたのでしょうか。イスラエルの羊飼いとして見るべきものが見えていません。死者を復活させたメシアを目の前にしても、彼はメシアを犠牲にして自分たちが守られればいい、と考えていたのです。

主イエスはこうおっしゃいました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

それに対してカイアファは「一人の人間を犠牲にすれば、民が助かる」と言いました。

全く反対のことを言っています。大祭司でありながら、カイアファは命がけでイスラエルを守りこの世を救おうとなさるメシアを殺そうとしているのです。

普通にここを読むと、カイアファという人の悪意を不快に感じるのではないでしょうか。しかし、このカイアファの思惑に関して、福音書は不思議なことを書いています。

「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのである。」

カイアファの恐ろしい言葉はカイアファ自身の言葉ではなく、預言であった、神から与えられた言葉であった、というのです。キリストの死の意味が、ここに示されています。イエス・キリストは、カイアファをはじめとしたユダヤ人指導者たちとの権力争いに負けて十字架に上げられたのではないのです。もっと大きな、神の救いのご計画のうちに十字架へと運ばれていったのです。

カイアファの残酷な思惑は、イザヤ書53章に預言されている苦難のしもべの死を思い起こさせます。

「私たちの聞いたことを誰が信じえようか。・・・彼は軽蔑され。人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだと。彼がさし貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎ためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された。」

カイアファをはじめ、最高法院の人たちはナザレのイエスを神の名のもとに排斥しなければならないと考えました。悪意からではない。純粋な彼らの思いからです。イスラエルを守ろう、神の掟を守ろう、そのためにナザレのイエスを殺そう、と考えました。誰も、主イエスの死が自分の罪を背負うための死であるとは考えませんでした。イザヤが預言した通りです。

カイアファたちの企みですら、神はご自分の救いのためにお用いになるのです。聖書にはそのような不思議がたくさん記されています。

旧約聖書の創世記にヨセフ物語があります。兄たちに恨まれ、エジプトに奴隷として売られたヨセフは、エジプト王ファラオの夢の解き明かしをして、やがてエジプトの宰相になりました。そして最後に、自分を奴隷として売った兄たちと再会を果たします。

その際、ヨセフはこう言いました。

「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・・神が私をあなたたちよりも先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生きながらえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」

奴隷として売られたヨセフも、ヨセフを奴隷として売った兄たちも、自分たちの思惑の中で生きていました。自分たちに降りかかる様々な試練の中で、木の葉のように揺れながら生きていました。

しかし、時が来ると、神の御心が明らかにされたのです。兄たちとヨセフの確執も、ヨセフの奴隷としての試練も、すべて、神の救いのご計画の中で用いられていた、ということを知りました。

ヨセフは最後に兄たちに言います。

「あなた方はわたしに悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」

メシアが十字架で殺されるという、私たちには計り知れない神の救いの中で、カイアファの思いも不思議な仕方で用いられているのです。

主イエスはもはや大っぴらにユダヤ人の間を歩かれることをなさいませんでした。エルサレムから北に20㎞ほどのところにあるエフライムという町に退かれます。ファリサイ派と祭司長たちは、イエスの居所がわかれば届け出よとの命令を出しました。主イエスを逮捕するためです。

「果たしてナザレのイエスはこの後過越祭に来るだろうか」、と人々は噂しました。「私にはまだ囲いに入っていない羊がたくさんいる」とおっしゃった主イエスは、十字架がご自分を待っているのをご存じで、エルサレムにいらっしゃることになります。

さて、最後に考えたいと思います。神の救いのご計画は、歴史の中でどのように実現したのでしょうか。ヨハネ福音書の2章で主イエスはエルサレム神殿の代わりに、ご自分の復活の体が新しい神殿となることをおっしゃいました。皆、それを聞いた時、馬鹿にしました。壮大なエルサレム神殿が壊れる訳がない、何十年も工事を行って建築した神殿を三日で立て直せるわけがないと考えたのです。

しかし主イエスの十字架から40年後、エルサレム神殿はローマ軍によって本当に破壊されることになります。その時、神殿をよりどころとしていたサドカイ派の人たち、祭司長たちは力を失うことになりました。そしてキリストの復活を信じる人々の群れであるキリスト教会が、「キリストの体」として立ち続けることになったのです。

「あなたたちの罪は残る」とおっしゃった主イエスの預言は、このように実現していきました。

キリストの使徒パウロはこう手紙の中で書いている。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」ロマ8:28

私たちが何気なく歩んでいる日々の生活の中にも、神の御手は働き、私たちの弱さや不完全さまでも、神は用いてくださっていることを覚え、今私たちが教会へと導かれていることの不思議を忘れずにいたいと思います。