ヨハネ福音書14:22~30
イエス・キリストが「私は去っていくがまたあなた方の所へ戻って来る」とおっしゃると、弟子たちの心は騒ぎました。これから先生が自分達から離れて行かれるということを聞かされるたびに、弟子たちのうち誰かが主イエスにもっと詳しくどういうことか聞かせてくださいと質問しました。
「私が行くところにあなたたちは来ることができない」と言われると、一番弟子のペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しました。
「私の父の家には住むところがたくさんある・・・行ってあなた方のために場所を用意したら戻ってきてあなた方を私のもとに迎える・・・私がどこへ行くのかその道をあなたがたは知っている」と主イエスがおっしゃると今度はトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分りません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」
主イエスはお答えになります。「私は道であり真理であり命である。・・・今からあなた方は父を知る。いやすでに父を見ている」
すると今度はフィリポが「主よ、わたしたちに御父を示してくださいそうすれば満足できます」と言いました。
主イエスは「私を見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし永遠にあなたと一緒に居るようにしてくださる。・・・私はあなた方をみなしごにはしておかない。」
今日私たちが読んだのは、ペトロ、トマス、フィリポに続いてなされた、イスカリオテでない方のユダの質問です。「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜでしょうか」
このユダという弟子について、私たちは何も知りません。ただ福音書や使徒言行録の中でユダという名前だけが出てくるだけでこの人の背景や人格がどういうものであったのかということは何も書かれていません。
ユダの質問は単純なものでした。「どうせなら、先生がおっしゃっていることを自分たちだけでなく世に向かってすべてお示しになればいいのに」という思いからの言葉です。
7章でも、主イエスの家族が同じようなことを言っています。主イエスが仮庵祭の時期にエルサレムに登って行こうとなさらないのを見て主イエスの兄弟たちは言いました。「ここを去ってユダヤに行きなさい・・・公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには自分を世にはっきり示しなさい」
「この世の中でどんどんしるしを行えばいい。どんどん奇跡を行えばいい。たくさん神の国について語ればいい。」主イエスの兄弟たちはそう思いました。主イエスの兄弟たちでなくユダのように弟子たちもそう思っていました。私たちだってそう思うのではないでしょうか。弟子を12人にしぼったりせず、弟子達にひそかにお示しになることを、どんどん公の場で人々に訴えればいいのに、と思うのです。
しかし主イエスはいつどこでどのようなしるしを行われるのか、誰に向かって神の国の言葉を語られるのか、どういう状況で伝えられるのかを見極めていらっしゃいました。
実際にはイエスはこの世の中でたくさんのしるしを行って来られました。しかしここまで一体何人の人が主イエスについて来たでしょうか。この世の人たちは主イエスの言葉を聞きしるしを見てもここまで従ってくる人たちは12人の弟子たちだけだったのです。
主イエスは、「私の掟を受け入れそれを守る人は私を愛するものである」「私もその人を愛してその人に私自身を表す」とおっしゃいました。主イエスのことを本当に愛しその掟を守り主イエスの道を行こうとする者でなければ、メシアのしるしを見てもメシアの言葉を聞いても理解はできないのです。
一度は主イエスを受け入れようとした人たちも、「人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちのうちに命はない」という主イエスの言葉を聞いて皆離れていきました。あれだけ主イエスがたくさんのしるしを行ない神の国の教えを説かれても、主イエスを追いかけてきたあの何千人もの人たちはもうここにはいないのです。
主イエスはユダにこうお答えになりました。「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され父と私とはその人のところに行き一緒に住む。私を愛さない者は私の言葉を守らない」
どれだけたくさんの奇跡を見ようともイエス・キリストを愛そうとする心がなければ何も起こらないのです。これが、キリストのユダに対するお答えでした。
しかし、それではこの夜弟子たちが主イエスのおっしゃることを全て理解したかというとそうではありませんでした。主イエスご自身、弟子たちがすべてを理解するだろうと期待していらっしゃいませんでした。
14:26で主イエスはおっしゃいます。「父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」
主イエスはこの夜、弟子たちの足を洗われました。弟子たちにはその意味がわかりませんでした。「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言うペトロに対して主イエスはおっしゃいます。「私の知っていることは今あなたにはわかるまいが、あとでわかるようになる」
この夜、弟子たちは後々思い出すべき時を過ごしていたのです。このキリストと過ごす最後の夜は、後の自分たちが、信仰の歩みにおいて常に立ち返るべき時となるのです。
主イエスが弟子たちにこれからご自分が去って行かれることを説明されたことで弟子たちは不安になり心がかき乱されました。しかし主イエスは弟子たちが離れ離れになっても、それで全てが終わりではないとおっしゃいました。聖霊を彼らにお与えになりキリストは彼らと共にいることになる、と約束されたのです
弟子というのは学ぶ者という意味の言葉です。彼らは一体何を学ぶのでしょうか。我々キリスト者はこの信仰の生活の中で何をキリストから学ばせていただくのでしょうか。
学びにもいろいろあるでしょう。聖書や教会のことを学問的に学んで知識を増やして行くという学びもあります。しかし神学の知識を増やして行くということが信仰者としての学びなのでしょうか。
キリストが聖霊を通して自分と共にいてくださっている、ということこそが、本当の信仰の学びなのです。たとえその姿が見えなくても一度もその実際の声を聞いたことがなくても、「今あの方は確かに私の傍らにいらっしゃる」という確信があれば、それこそがイエスキリストがこの夜弟子たちに伝えようとした真の学びなのです。
40年間荒れ野を歩き続けたイスラエルの民は、その歩みの中で何を学んだでしょうか。申命記の8章にはこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」
私たちの人生・一生涯は、荒れ野です。荒れ野を歩む時、すぐに「神は本当に共にいてくださっているのだろうか」と疑うのです。
キリストの弟子達は、嵐の中の小舟で、キリストに向かって叫びました。「私たちがどうなっても構わないのですか。」これは私たちの叫びであり、祈りです。私たちは荒野の中で、嵐の中で、神に祈りをぶつけるのです。
荒野でこそ、嵐の中でこそ、私たちは学びが与えられます。「まだ信じないのか、信仰の薄いものたちよ。」私たちはそこでイエス・キリストの声を聞かせていただけるのです。あれの中で嵐の中でこそ私たちはパンだけではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって自分は生かされているということを学ばせていただくのです。
弟子たちはこの夜イエスキリストがなさったことおっしゃったことを本当の意味で理解することはできませんでした。しかし復活のキリストを知り聖霊をいただき地の果てまでキリストの福音を伝えようとする中で、何度も何度もこの夜のことを思い出したでしょう。
「ことが起こったときにあなたがたが信じるようにと今そのことを起こる前に話しておく」と主イエスがおっしゃったように、この夜彼らに示されたことは、後々の弟子達にとって、信仰の原点となったのです。
キリスト者は、長い人生の中でキリストの弟子として信仰の成長を続けます。その信仰生活の中で私たちが一番気をつけなければならないことは自分が信じたいことだけを信じ、学びたいことだけを学ぶということです。私たちに与えられる学びを自分の都合のいいように解釈したいというのが私たちの自然な思いではないでしょうか。
聖霊はイエス・キリストの名のもとに来るとおっしゃっています。しかし聖霊の言葉でない言葉に私たちは魅力を感じてしまうのです。この世の誘惑の言葉に飛びついてしまったとき、私たちは正しく聖書の言葉に立ち返らなければなりません。
何かを学んだと思った時、何かを悟ったと思った時に、それが本当にイエス・キリストの求めていらっしゃることかどうかを聖書を通して冷静に吟味しなくてはならないのです。
マタイによる福音書で主イエスご自身おっしゃっています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し天地が消え失せるまで律法の文字から一転一画も消え去ることはない」
ヨハネの黙示録にもこうあります。「この書物の預言の言葉を聞くすべてのものに私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。またこの預言の書の言葉から何か取り去るものがあれば、神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都からその者が受ける分を取り除かれる。」
この世の荒野を生きる中で、私たちは畏れを持って聖書に向かい、自分に与えられている神の教えを冷静に吟味しなければならないのです。
主イエスはおっしゃいます。「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない」
この平和というのは、ヘブライ語でシャロームという言葉です。シャロームは、ただこの世を生きる中で争いがないという意味の平和ではありません。そこに生きる人たちの健康で、生きる意味をかみしめて、文字通り「生き生き」と生きる、という内面まで含んだ言葉です。
この夜、イエス・キリストはご自分の十字架と復活の後、弟子たちが思い出すべき言葉を語られました。彼らはみなしごにはされない。
たとえ離れ離れになったとしても、聖霊を通してイエス・キリストと弟子たちは共に生きるのです。そして神が彼らの内にいてくださり彼らが神のうちに住むようになるとおっしゃいます。
弟子たちがこの夜イエスキリストから受け取ることになった平和、そして今に至るまで我々キリスト者に伝えられてきた平和はこの神が共にいてくださる平和、インマヌエルのシャロームであるということを覚えたいと思います。