12月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書18:19~27②

キリストが世にお生まれになった喜びと共に、キリストの誕生は十字架による世の罪の許しに向かうものであった、ということを覚えたいと思います。

一度読んで、礼拝の中で話を聞いた場面ですが、もう一度、今日は特にペトロに目を向けて読みたいと思います。

ヨハネ福音書は、尋問されるイエス・キリストと、大祭司の屋敷の中庭にいるペトロの姿を交互に描いて、私たちにその成り行きの緊張感を描き出しています。今日の場面は、大祭司アンナスの家へと連行されたイエス・キリストのお姿です。

キリストはアンナスからご自分の弟子のことや、ご自分が伝えてこられた教えについて尋ねられました。しかしキリストはご自分の弟子については何もおっしゃいませんでした。

それと同じ時、外ではペトロが「私はイエスの弟子ではない」と否定していました。おそらく、ペトロだけでなくほかの弟子たちも、「私はイエスの弟子ではない」と公に言い表すことがなくても、自分とイエスは無関係であるかのように振舞っていたでしょう。

それでも、キリストはご自分の弟子たちのことを守ろうとされています。キリストは弟子たちについて何かお答えになることはありませんでした。しかしご自分の教えについては何も隠されませんでした。

キリストはこれまで何も隠すことなくエルサレムで公に福音宣教を続けてこられました。これまで祭司も、律法学者も、ファリサイ派もサドカイ派も、エルサレムのたくさんの人たちが、実際に主イエスの教えに触れてきました。

エルサレムの多くの人はナザレのイエスが何を語ったのかを知っていたのです。アンナスだって、本当は伝え聞いて、その内容は知っていたでしょう。主イエスはアンナスに、「私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」とおっしゃいました。

確かに、被告であるイエスに聞くよりもそちらの方が中立に証言を集めることができ、正しい裁きを行うことができるでしょう。しかし、もしも民衆を集めて、イエスの教えが正しい教えで、イエスの正しさが多くの人たちによって立証されてしまうと、今度は逆にアンナスの方が立場的に不利になってしまいます。

主イエスとアンナスのやりとりを聞いていた下役たちは、主イエスの顔を打ちました。「大祭司に向かってそんな口のきき方があるか」と起こったのです。それでも主イエスはご自分の姿勢を変えられることはありませんでした。

「何か悪いことを私が行ったのなら、その悪いところを証明しなさい」

アンナスはもうそれ以上主イエスを追求することをしませんでした。そのまま、主イエスを縛ったままカイアファの元に送りました。この生意気な危険人物を、自分の甥であり大祭司であるカイアファ任せればいい、と思ったのでしょう。これで、アンナスとキリストとのやり取りは終わっています。

さて、福音書はまたここで場面を転換して、ペトロに目を向けます。ペトロはまだ同じところにいました。「先生はどうなっただろうか」、という思いと、「なんとかばれないように先生の近くにいよう」、という思いをもって、炭火の前に立って暖を取っていました。

一番弟子であるペトロが、イエス・キリストを三度否定したということは有名な話です。そのことからペトロは結局忠誠心の低い、人よりも弱い人のような印象を持たれがちではないでしょうか。

しかし、ほかの弟子たちが逃げ去っても、自分だけは何とか先生の近いところにいようと、大祭司の屋敷の中庭まで入り込むということは、とても勇気が要ったことだったはずです。主イエスを守ろうとして剣をもって兵士に立ち向かったり、なんとか主イエスの近くにいようと大祭司の屋敷までついてきたりしていたのです。

実際、18:15には「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」と書かれています。ペトロは、忠誠心が弱く、勇気がなかった人ではありません。むしろ逆でした。ここまで主イエスについてきた、ということだけでも、命がけのことなのです。彼は、「従った人」なのです。

以前、主イエスの後に従っていた人たちが「あなたの教えがよくわからない」、と離れ去った時、主イエスは弟子たちにお尋ねになりました。

「あなた方も私を離れていきたいか」

その時のことを、聖書はこう書いています。

「シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています』」

同じように、最後の夜の食事の席では、主イエスが自分の足を洗おうとするのをやめていただこうとしました。「あなたが私の足を洗うのですか」。それでも主イエスが弟子たちの足を洗おうとされるので、ペトロは意気込んで「足だけでなく体全部をお願いします」と言いました。

これらのペトロの言葉を見返すと、ペトロは常にイエス・キリストへの強い思いを持っていたこと、大好きだったことがわかります。

しかし、ここからペトロは少しずつ崩れていくことになります。何が何でも、少しでもキリストの近くにいようとするために、ここでペトロは小さな嘘をつきました。門番の女中から「あの人の弟子の一人じゃありませんか」と聞かれ、小さな声で「違う」と答えました。質問をしてきた女中1人だけに聞こえる、小さな声でした。

ペトロには罪悪感はなかったでしょう。主イエスに従い続けるため、大切なことを成し遂げるための、小さな嘘です。先生に従うための方便です。1人の、名もない門番の女中をそうやって簡単に躱しただけでした。

しかし、この小さな嘘が周りに波紋を広げたのです。キリストがアンナスから尋問され、下役たちから顔を殴られている時、ペトロは否定の言葉を重ねることになってしまいます。

ペトロの周りにはつい先ほど主イエスを逮捕し、自分自身も剣をもって戦った相手である大祭司の僕や下役たちがいました。

門番の女中とペトロのやり取りが周りの人たちにも聞こえていたのでしょう。放っておけず、周りにいた大祭司の僕や下役の人たちはペトロに「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と改めて尋ねました。

元の言葉を見ると、これは、否定を期待する尋ね方です。「まさかとは思うが、あの男の弟子の1人ではないよな」というような言い方です。「もちろん違う」という答えを想定した質問です。ペトロの周りにいた人たちは、質問しながらも、ペトロが主イエスの弟子だとは思いませんでした。ここではただ、確認しているだけです。

さっきは1人の人に聞かれて、小さな声で「違う」というだけでよかったのです。しかし今回は周りにいた人たちから「どうなのか」と尋ねられたので、はっきりと大きな声で、その場にいる人たち全員に聞こえる声で、「違う」と言わなくてはならなくなりました。

ペトロは後戻りできなくなりました。そして、はっきりと大きな声で「違う、私はイエスの弟子ではない」と言いました。

そこで終わりではありませんでした。ペトロにとって、運の悪いことに、そこにはペトロが耳を切り落とした兵士マルコスの親戚がいたのです。ペトロはつい先ほど、マルコスの耳を切り落としたばかりですので、中には、その顔を覚えている人がいてもおかしくありません。しかも、その人はマルコスの親戚なのですから、より鮮明にパウロの顔を覚えていたでしょう。

その人が今度は確信を持ってペトロの顔を認識しました。

「お前は確かにあの場にいた。私の親戚のマルコスの耳を切り落としたのは、イエスの弟子であったお前だ。そうだろう」と詰め寄ってきました。

これは、最初の二回と違って強い口調の質問の仕方です。最初の二回は、「まさかそうではないですよね」と、否定を期待する質問の仕方でした。しかし、この三回目の質問は、「間違いなくお前、そうだろう」という、肯定を期待する聞き方です。

ペトロは逃げ場を失いました。勇気を持って最後まで主イエスに従おうとしたからこそここまで来たのです。しかしそのために窮地に陥りました。ペトロはもう、キリストに従うために、一時しのぎに「違う」とかわすことはできなくなりました。そこにいる全員を納得させるために全力でイエス・キリストの弟子であることを公に否定しなければならなくなったのです。ペトロは再び、自分が主イエスの弟子であることを打ち消しました。

ペトロが三度目に自分がイエスの弟子であることを否定した時、にわとりが鳴きました。聖書は、この時のペトロに対して、何も評価を下していません。「ペトロは不信仰だった」とか、「ペトロは頑張ったがだめだった」とか、そんなことは何も書いていません。他の福音書はここで ペトロがイエスに言われたことを思い出して泣いたことを書いたりしていますが、ヨハネ福音書は淡々と場面を描くことを終えています。

ただ、こう書いています。「すると、鶏が鳴いた」。ヨハネ福音書は、実は、この一行に力を込めています。ペトロの心情よりも、鶏が鳴いて夜が明けた、ということに焦点を当てて伝えています。

「鶏が鳴いた」とはどういうことでしょうか。夜が終わった、と言うことです。暗闇の時間が終わったということです。イスカリオテのユダが明かりを持ってキリストを裏切った夜、弟子たちがキリストから離れた夜、ペトロがキリストの弟子であることを否定した夜・・・この世の無理解を凝縮したような、世の罪を全て象徴しているような「夜」が明けた、ということです。

ペトロのイエス・キリストへの愛はペトロ自身を大祭司の屋敷の中庭へと連れて行きました。しかし、そこでペトロの勇気は崩れ落ちキリストを否定してしまいました。

しかし、夜が明けるのです。信仰の足元が崩れ去っても、また光の朝は来るのです。ユダが裏切り、ペトロが主イエスの弟子であることを否定した夜が明けると、イエス・キリストは世の闇の罪を背負って十字架へと身を差し出してくださることになります。

そしてキリストの愛は、ご自分を知らないと言ったペトロを、ご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを、もう一度引き寄せることになります。キリストは弟子たちにご自分の十字架と空っぽになった墓と、復活の姿をお見せになり、聖霊の風によって彼らを新たな福音宣教の旅へと押し出すことになります。

ご自分を逮捕し、むち打ち、無実の罪を負わせ、十字架へと上げたすべての人たちを許すために、キリストはこれからご自分の命を使われます。それは、この世の夜明けと言っていい時でした。

「すると鶏が鳴いた」というこの一文は、そのことを描き出しているのです。「その時、鶏が鳴いた」という福音書の言葉には、罪の闇が支配する夜が終わり、救いの夜明けが来た、キリストによる救いの時が来た、という強い思いが込められているのです。

弟子たちは、またイエス・キリストという道へと戻ってくることになります。ペトロだけではなく他の弟子たちも、天の国へと続く道を進みながら、天の国を指さし、その道へと人々を招くことになります。

アンナスをはじめ、最高法院の人たち、エルサレムの人たち、ユダヤの人たちは、主イエスに向かって「あなたは一体何者か」と聞きたかったでしょう。そのはっきりとして答えを、本人の口から聞きたいと思ったでしょう。

主イエスはその問に対して、十字架に上げられたご自分の姿をもって、お答えになるのです。

「私は、世の罪を贖う、子羊である。私は、あなたの許しのために死ぬ」

イエス・キリストにつまずいたとしても、何度でも夜明けが訪れます。回復の道が示されることになります。あの十字架、あの空になった墓、あの復活のキリストを見て、世の信仰者は新しい光の中を歩むようになりました。私たちも今、その光の中に入れられているのです。

クリスマスにこの世に与えられた小さな光、「世の光」は、私たちの天の故郷への道を、確かに照らしています。