ルカ福音書24:13~35

「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主イエスは復活して、シモンに現れたと言ってきた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださった時にイエスだとわかった次第を話した。」(ルカ福音書24:33~34)

主イエスが殺された後、自分たちにも危害が及ぶのではないか、と恐れた弟子達はエルサレムで身を寄せ合って隠れていました。彼らのところに女性たちがやってきて、「イエス様の墓が空になっています。そして天使がそこにいて『あの方は蘇えられた』と言いました」と報告しました。しかし弟子達は、女性たちの言うことを信じませんでした。「たわごとだと思った」のです。

その後、主イエスの弟子が二人、エルサレムからエマオという村へと歩いていました。すると一人の人が横に来て、「あなたがたが話しているのは何のことですか」と声をかけ、肩を並べて歩き始めました。二人は数日前にエルサレムで起こったことを話し、自分たちは今失望の内にあることを伝えました。

声をかけてきた人は、復活なさったイエス・キリストご自身でした。しかし霊の目が開いていない弟子達はそのことがわかりません。主イエスは「なぜわからないのか」と、歩きながら聖書の言葉を一から説明なさいました。

その人の語る言葉を聞くと、二人は「心が燃え」るのを感じました。もっと話を聞きたいと思い、二人はこの人に自分たちと食事を共にするよう招きました。三人は食卓を共にしますが、面白い逆転が起こっています。誘ったのは二人でしたが、誘われた方の人が、この食卓の主人となって二人にパンを分け与えるのです。

この人からパンを受け取った瞬間、二人の弟子達の霊の目が開き、自分たちの目の前にいるのが復活なさったイエス・キリストであるとわかりました。しかし、主イエスの姿はその瞬間見えなくなってしまいます。

それでも、二人にとって主イエスの姿が見えなくなったことは大きな問題ではありませんでした。たとえ自分たちの目に見えなくても、キリストは生きて自分たちと歩みを共にし、導き、必要な御言葉を聞かせてくださることを知ったのです。

絶望の中エマオへと向かう彼らの歩みは、エルサレムへと引き返し希望を伝える歩みへと変わりました。

エマオ途上の二人の弟子達に起こったことこそ、私達に起こったこと(起こっていること)です。私達の歩みの中にキリストが来てくださり、聖書の御言葉を聞かせ、私達の信仰の目を少しずつ開いて下さる・・・そして、共に歩んでくださるその方によって歩む方向が変えられ、定められていくのです。

信仰生活の中で、失望を感じることはたびたびあります。しかし私達の信仰が行き付くのは失望・絶望ではありません。死から蘇られたイエス・キリストが、失望に沈む私達を永遠の命という希望へと連れ出してくださいます。