05月23日の説教要旨

使徒言行録2:14~21

「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る』」(2:16~17)

ペンテコステは、「五旬祭」と呼ばれるお祭りでした。収穫のお祝いであると同時に、エジプトから脱出したイスラエルが、シナイ山で律法を与えられたことを祝う祭りでした。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目に当たる日、つまり、イエス・キリストの十字架と復活の出来事から50日を数えた時に起こった出来事が記されています。聖霊が降り、教会が造られた瞬間です。

イエス・キリストが十字架で殺されてから三日目の朝、その墓が空になり、そのことがキリストの弟子達に伝えられました。しかし「あの方は墓の中から、死人の中から蘇られました」と伝えられても弟子達は、はじめは信じられませんでした。

復活なさったキリストは弟子達と、ご自分を信じて従っていた人たちにご自分を現わされました。

主イエスは弟子達におっしゃいました。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられる」

これを聞いた弟子達は期待しました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達にとって、主イエスが、当時ローマに占領されていたイスラエルをローマから解放して、自分たちに支配を取り戻してくださることが「救い」だったようです。

しかし、主イエスはこうおっしゃいました。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる。」

神が歴史の中で用意してくださっていた「救い」と、弟子達が期待していた「救い」は、どうやら違っていたようです。

天に昇って行かれる主イエスを見送った弟子達、また主の復活を見た人たちは、その後一か所に集まって祈り始めました。その祈りはペンテコステの日まで続きます。その祈りの群れの上に、聖霊が注がれたのです。

こうして見ると、教会というのは、人間が作ったものではない、ということがわかります。主イエスを慕っていた人たちが、「一緒に教会というものを作ろう」と相談して、計画してできたものではありません。教会は、我々人間の力で建ち上げたものではなく、神の創造の御業によって創造されたものなのです。そして神に造られた教会が今日までイエス・キリストへの祈りを捧げ続けて来た、ということも、時代を超えた聖霊の働きによるものなのです。

三宅島伝道所は、昨年度から毎週の主日礼拝を再開しています。38年間、三宅島伝道所には定住の牧師がいませんでした。それでも三宅島のクリスチャンは信仰をすてず、祈り続けました。その間、噴火があり、避難生活がありました。伝道所の礼拝堂は溶岩で燃えてしまい、礼拝の場所を失った三宅島のキリスト者は一人、二人と減っていきました。

しかし、今、こうして、新しい礼拝堂が備えられ、牧師が招聘され、新しい信仰者も導かれ、こうして三宅島伝道所の礼拝が新たに創造されたのです。

信じられないような奇跡だと思います。もちろん、三宅島伝道所を支えるためにたくさんの人たちの働きがありました。東京の諸教会が三宅島伝道所のために祈り、支え、牧師たちが御言葉を伝えるために島に通い続けてくれました。

しかし、三宅島伝道所を支えてくださったそのたくさんの信仰者を起こしたのは、聖霊の働きなのです。もし、教会が人の手によって、人間の力、人間力によって造られていくものだったとしたら、世代が変わるとすぐにダメになってしまうでしょう。教会は上から造られたものであり、上から造られ続けるものである、ということを覚えたいと思います。

さて、ペンテコステに聖霊が注がれ、炎のような舌が与えられたキリストの弟子達、信仰者たちは、突然それぞれがいろんな国の言葉で話し始めました。それを周りで見た人たちは驚きました。

この時、周りにいたのは、過越祭や五旬祭を祝うために世界中からエルサレムへと巡礼に来ていたユダヤ人たちでした。

当時、ローマ帝国のいろんな場所にユダヤ人たちは散らばって住んでいましたが、彼らはこの時、過越祭やペンテコステの祭りを祝うために、それぞれ住んでいた場所から巡礼に来ていたのです。

その人たちは、キリストの弟子達がいろんな言葉で話しているのを見て、「あの人たちは酒に酔っているのだ」と言いました。そのように考えて納得するしかなかったのでしょう。

しかし、それを聞いた主イエスの一番弟子であったペトロは、立ち上がって言いました。「我々は酒に酔っているのではありません。我々がいろんな言葉で神の御業について語っているのは、預言者が残していた預言の実現なのです。」

ペトロは、旧約聖書の預言書の一つ、ヨエルの預言を周りの人に言って聞かせます。「神は言われる。終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・。」

彼らがいろんな言葉で神の偉大な御業について語り始めた、ということ、それはまさに「終わりの時に神が全ての人に霊を注がれ、神の言葉を語り始める」というヨエル預言の実現だったのです。

ヨエルが預言した「終わりの時」とは裁きの時のことです。神の前に全ての人が立たされ、裁かれる時・・・ペトロは「それが今なのだ」と言います。

私達が今日読んだこのペンテコステの出来事は、今でもキリスト教会に起こっていることです。私達が今ここに集まり、祈りを一つにする、そして聖書の言葉を聞き、賛美を神に捧げる・・・これは周りの人達から見たら、「あの人たちは一体何をしているのか」と笑われるようなことかもしれません。

しかし、私達は、あの時のペトロのように、自分たちの礼拝。祈りを通して、この裁きの時にどう生きるべきか、人々に示すのです。そして、今こそ神を知り、神に立ち返って、神と共に生きることが求められているのだ、ということを伝えるのです。

今、私達は岐路に立たされています。神の前に立たされた今、イエス・キリストの許しの御業を見上げ、招きの言葉に耳を傾けるか、それとも、キリストに背を向け、神を捨てて生きるか、問われているのです。神の裁きの時を迎えている、ということを我々はどれだけ真剣に捉えているでしょうか。

復活なさった主イエスは弟子達にご自分のことを「地の果てまで」伝えなさい、とおっしゃいました。そしてペンテコステの日に聖霊が注がれ、キリストの弟子達はいろんな言葉で福音を語り始めました。いや、「語らされた」と言った方がいいでしょう。

神が、地の果てまで語り伝えるべき言葉を教会に注ぎ込んでくださったのです。福音はそこから世界中に、地の果てまで広まっていくことになります。

そして、あの時、ペンテコステの際に人々が聞いた福音は、ここにまで届いています。「地の果てまで告げなさい」とキリストがおっしゃった福音は、時代を超えて、三宅島にまで届けられました。

教会の外にいる人たちから見れば、「礼拝堂に集まって毎週礼拝など捧げて何の得になるのだろうか」、と思われるかもしれません。しかし、私達は何か得になるようなことがあって、教会に集まっているのではないのです。神が独り子の命を犠牲にして私達の罪を救いだしてくださった、その神の愛にすがっている、ただそれだけです。

神と共に生きるのか、神に背を向けて生きるのか、私達は選択の時を過ごしています。今こそ、神の裁きの時であり、神の許しの言葉に耳を傾ける時だ、とペトロは伝えました。私達はこの島で、あの時のペトロのように、イエス・キリストの復活の証し人として聖霊に用いられて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」というヨエルの預言を伝えるために用いられます。