10月10日の説教要旨

マルコ福音書13:32~37

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)

エルサレム神殿の崩壊を預言された主イエスは「どんな苦難や混乱があっても、惑わされずにしっかりと信仰に立ち続けるように」と、ここまで弟子達におっしゃってきました。

エルサレム神殿崩壊の預言を聞いて戸惑う弟子達は、「これらのことが皆起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と聞かされます。エルサレム神殿以上に確かなものがあることを示されるのです。

たとえ神殿が崩れて、「この世界の終わりではないか」、と自分の足元が揺らいだとしても決して崩れない確かなもの、それはイエス・キリストの言葉なのです。

大切にしていたもの、変わることはないと信じていたものが自分の目の前から消えた時、人間は弱いのです。自分も一緒に消え去ってしまいます。自分も一緒に崩れてしまいます。

しかし、「何一つこの世には確かなものはないのではないか」と思うようなことがあっても、変わらず確かなものがある、とキリストはお示しになりました。それは「私だ」とおっしゃるのです。

この真理は、どの時代のキリスト者も慰めて来ました。いつの時代も、混乱の無い時などありませんでした。教会も、それぞれの時代の中でいつも揺り動かされて来ました。それでも、イエス・キリストの言葉は確かに揺らがずに立ち続けて来ました。たとえ天地が崩れ去ろうとも、キリストの言葉は私達の魂を支え続けてくださるのです。

今日私達が読んだところでは、主イエスは不思議なことをおっしゃっています。

「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

天使たちも知らないし、神の子イエス・キリストもご存じでない時のことです。

「天地が滅ぶとしても私の言葉は滅びない」とまでおっしゃったイエス・キリストでも、ご存じない「その日・その時」があるのです。

キリストでもご存じないその日・その時とは、何の時なのでしょうか。神殿が壊れることに伴う苦難とは別の、何か定められた時のことをお話しなさっています。

主イエスは弟子達に、主人が旅に出て不在にしている家の僕たちの話をお聞かせになりました。家の主人が僕たちにそれぞれ仕事を割り当てて、「私が旅から帰って来る時に備えていなさい」と言った、という話です。その主人はいつ帰って来るか、僕たちに言っていません。その主人も、自分がいつ家に帰ってくることになるのか、まだ決まっていなかったのでしょう。自分がいつ帰って来るかわからないから、いつ帰ってきてもいいように、僕たちに備えていなさい、と言います。

これはイエス・キリストと弟子達のことです。

そして「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」とおっしゃっているように、この主人と僕たちというのは、キリストと信仰者たちのことでもあります。

主イエスがここで「その日・その時」とおっしゃっているのは、ご自身が再びこの世に来られる「世の終わり」の時のことです。「世の終わり」には、私達が肉体の死という眠りから起こされて神の前に立たされることになります。我々は死の眠りから起こされ、裁きの場に立たされることになるのです。

「終わりの時とは、裁かれる時だ」と聞かされると恐ろしく思えますが、決してそうではありません。それはイエス・キリストが私達を迎えに来てくださり、それぞれの名前を呼び、復活させてくださる希望の時です。

信仰者は、その時がいつなのかはわかりません。だからただ、キリストが迎えに来てくださるその希望の時を目指して生きています。それが、信仰者の人生です。

我々信仰者の人生は、生まれて、生きて、死んで、それで終わり、というむなしいものではありません。私たちの生も死も、すべてキリストが受け止めてくださいます。信仰者は肉体の死を超えて、キリストをお迎えする希望の時を目指して生きているのです。そこには復活があり、永遠の命があります。

私達はイエス・キリストが実際に目に見えない中で今、信仰生活を送っている。信仰をもっていたって、希望を見失う時はあります。何を見据えて生きればいいのかわからなくなる時もあります。

しかし、私達は喜んでいいのです。私達が今、信仰をもって生きる、ということは、無駄ではありません。私達の信仰の試練・忍耐は、全てキリストが来てくださる時に報われるのです。私達は、そこに向かって生きているのです。

その日・その時を私達が知らない、ということは残念なことではありません。間違いなく、その日・その時へと時間は流れています。私達が生きている今は、そこに向かっている今なのです。だからこそ、我々の今には、苦難があろうが試練があろうが、意味があるのです。

主イエスの弟子のペトロは後に、教会に向けて手紙の中でこう書いています。

「主は、信仰の厚い人を試練から救いだす一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」

我々信仰者が試練の中を生きているのを、神は今まさにご覧になっています。私たちの信仰を苦しめる人も、苦しめることも、神はご覧になって、神が報いてくださいます。そして我々の信仰も吟味していらっしゃるのです。

ペトロはこうも書いている。

「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやってきます。」

神が、忍耐してくださっている、とペトロは言います。我々が一人も滅びないように。

「主の日」は、世の終わりにイエス・キリストがもう一度世に戻って来られる時のことです。「主の日は盗人のようにやってくる」という表現が、新約聖書の中で何度も出てきます。

主イエスご自身、マタイ福音書ではこうおっしゃっている。

「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」

私達は、もし今夜自分の家に泥棒が来るとわかっていれば当然警戒します。しかし、「いつの日か神が来られる、キリストが来られる」、と言われるとどうでしょうか。どれだけ現実味をもってそのことに備えようとするでしょうか。

いい例が、旧約聖書の創世記に記されているソドムとゴモラの滅びの出来事に出てくる人たちです。

悪がはびこっていたソドムとゴモラの町に、神のみ使いが実際に行きました。そこには、アブラハムの甥のロトの一家が住んでいました。神のみ使いはロトの家に行き「実は私達はこの街を滅ぼしに来たのです」と言って、身内の人をこの町から連れて逃げるようにロトに言います。

ロトは自分の娘たちが嫁いだ先に行き、「明日、この町は神によって滅ぼされる」、と言ったが、誰も信じませんでした。「神が来て、そうおっしゃっている」ということを、誰も信じなかったのです。

結局、ソドムから逃げ出したのは、ロトと妻、二人の娘たちだけでした。ソドムとゴモラの町は、天からの火によって滅ぼされました。ここに、信じた人と信じなかった人の分かれ道があります。

滅びの中を生き残ったロトの一家と、滅びの中で死んでしまった人たちを分けたのは何だったのか・・・単純なことです。神の言葉を信じたか、信じなかったか、ということでした。

このソドムとゴモラの出来事は、時代を超えて私達にとって大きな警告となります。私達はこの出来事から学びたいと思うのです。聖書の言葉・キリストの言葉に、我々はどれだけ現実味を感じているでしょうか。本当に切羽詰まった、救いと滅びの分かれ道に自分が立っている、とどれだけ思っているでしょうか。

イエス・キリストがおっしゃった世の終わりの裁きに対して、ロトのように、その言葉を聞いて備えるか、それとも、馬鹿にして信じず、何もしないか・・・その選択によって、命に至るか、死に至るかが決まるのです。

私達には、キリストの言葉を信じない、という選択肢もあるのです。しかし、キリストご自身は、神の権威をもって、「目を覚ましていなさい」とおっしゃいます。私達を愛してくださっているからです。私達を一人も失いたくないと思っていらっしゃるからです。

この終わりがいつなのか我々にはわからない。キリストがいつこの世に再び来られるのか、それは神だけがご存じです。このことこそ、私達の信仰の一番の謎であると同時に、希望だ。

我々には再びお迎えする主がいます。そして、確かに、その時に向かってすべては進んでいます。神は、全ての人がその時に備えるのを、忍耐して待ってくださっています。

聖書は、私達の命がどこに向かっているのか、ということを教えてくれています。。

神のみがご存じの、キリストの到来の時・・・私達の生活は、生と死は全て、そこに向かっています。

私達にできることは、備える、ということだけだ。

主イエスはたとえ話の中でおっしゃっている。

「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたにはわからない」

私たちはただ、いつキリストが天から来られてもいいように、毎日を、瞬間瞬間、備えて生きるだけです。

私達の日常は目まぐるしいもので、「キリストがいつか来られる時が来る」、ということなど忘れてしまいがちです。しかし、自分があの方の到来を待っている僕である、ということを忘れなければ、私達の生き方、姿勢はおのずと定まって来ます。

天の住民のとして日々を生きたいと願います。あの方の声、あの方の到来に備えていきましょう。