MIYAKEJIMA CHURCH

07月04日の礼拝案内

【次週礼拝(7月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:11~18

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、17番、269番、365番、頌栄540番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇7月3日(土) 役員会があります。

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火) 富士見町教会にて 東支区教師会、伊豆伝道委員会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

06月27日の説教要旨

マルコ福音書11:1~11

 「もしだれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)

ついに主イエスのエルサレムへの旅が終りました。これから私達は、エルサレムに到着し、入場されたイエス・キリストのお姿を見ていくことになります。そしてそれはイエス・キリストの最後の7日間のお姿ということになります。

主イエスがエルサレムに入場されたのは日曜日でした。この日から、ちょうど一週間後の日曜日の朝、過越祭の中で子羊が屠られる時間に、主は十字架に上げられて殺されることになります。

いつ、なんのために主イエスがエルサレムに来られたのか、ということを踏まえて、これからキリストの最後の七日間を見ていきたいと思います。

主イエスがエルサレムへと旅をされたのは、過越祭に参加するためでした。

過越祭は、イスラエルが昔、エジプトでの奴隷生活から神によって救いだされたことを記念する祭りです。エジプトから脱出する夜、イスラエルの人たちは、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神の裁きは子羊の血を塗ったイスラエルの家を過越し、エジプトを打ちました。

神の裁きの過越しによって自分たちの先祖がエジプトから救いだされた、という解放を記念するための祭りです。ユダヤ人にとってとても大切な祭りでしたので、この時期、エルサレムには世界中からユダヤ人たちが巡礼に来ていました。過越祭の前後1~2週間は、エルサレムには大勢の巡礼者が訪れるため、普段の人口の6倍になったと言われています。

大勢のユダヤ人が世界中から巡礼にやって来て集まり、外国の支配からの救いを記念する祭りを祝うのですから、ユダヤのナショナリズム・愛国主義が高まる時でもありました。ローマによる支配に対する反感が高まる時期であった、ということです。

そのため、この時期にはユダヤを占領していたローマ軍は、ユダヤ人たちが暴動を起こさないように警戒を強めていました。ユダヤ人の指導者たちも、ローマとのささいな衝突から反乱や戦争という大きな問題が起きないように、神経をつかっていました。

そのような中、「この方は預言者ではないか」と人々から期待されていたナザレのイエスが、ガリラヤからの巡礼者たちと共にエルサレムの都に入場してきたのです。ユダヤ人指導者たちからすれば、このイエスという人は、要注意人物でした。人々がナザレのイエスを担ぎ上げるようなことが無いように、イエスには、目立つことをしてほしくなかったのです。

当然、これからエルサレムの町の中で、主イエスとユダヤ人指導者たちとの間には緊張が高まっていくことになります。

さて、まず主イエスがどのようにエルサレムに入って行かれたか、ということを見ましょう。主イエスはベタニアという村に宿を取られた。ここは、エルサレムから3キロメートルほどのところにある村で、過越祭の巡礼者たちは、ここに宿をとってエルサレムに通っていました。

主イエスは、この最後の3キロメートルを、ご自分の足で歩いて、ではなく、弟子達にロバを借りて来させ、自分の服をロバの上にかけ、それに乗って入ってエルサレムに入場されました。

なぜそんなことをなさったのでしょうか。ガリラヤからここまで長く旅を続けてきて、最後の最後で疲れてしまったからでしょうか。

もちろん、そうではありません。これこそ、エルサレムの王の入場の姿でした。

旧約聖書のゼカリヤ書に、神が王としてエルサレムに来られる、という預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海は、大河から地の果てにまで及ぶ」

主イエスのエルサレム入場のお姿は、ゼカリア書に預言されているエルサレムの王、ダビデの子そのものそののです。ついにメシアがエルサレムに来たのです。

ガリラヤからの巡礼者たちは主イエスがなさることを見て、不審に思ったのではないでしょうか。主イエスは、エルサレムへの旅の初めに、弟子達にお尋ねになりました。「あなたがたは、私を何者だと言うのか」

弟子達は、そして人々は、ここでロバに乗ってエルサレムに入られる主イエスのお姿から問われことになります。

エルサレムに子ロバに乗って入場する私を見て、あなたは、私を何者だと言うか。」

子ロバに乗ってエルサレムに入場する、という、一見奇妙な主イエスの行動ですが、私達はゼカリヤの預言の実現を見ます。「エルサレムの王が来る、子ロバに乗って。王は戦車も武器もなくし、平和をもたらす」

何百年もの時を超えて、ゼカリヤの預言が実現しました。弟子達は主イエスの言葉通りに、ロバを探しに行くと、そこロバがいました。そしてそこにいた人たちに主イエスから言われたように伝えると、ロバを貸してくれました。

全て、主イエスがおっしゃった通りに物事が進んで行きます。決して偶然ではありません。全て、神のご計画でした。この弟子達と、ロバの持ち主との小さな会話まで、神は何百年も前から預言者の口を通してご準備されていたのです。

イエス・キリストがエルサレムにロバに乗って入場された姿というのは、滑稽だったと思います。普通、王様というのは、立派な馬に乗って兵隊を引き連れて、威厳をもって自分の城に入場するのです。

しかしイエス・キリストという王様は、小さなロバに乗って、とぼとぼとエルサレムに入って行かれます。とても強そうには見えません。弱く、低く、柔和で謙遜な王としてエルサレムに入られました。この方はイスラエルに軍事的な強さをもたらす救い主ではありませんでした。ゼカリアが預言していた、「平和の王」の姿です。

預言者ゼカリヤは、その王によってもたらされる救いについて、こう預言しています。「万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、10人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』。」

キリストがこの世にもたらしてくださったのは、全ての人が本当の神を知って生きるという平和でした。ゼカリヤ書には、このような預言がある。

「人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。」 Continue reading

06月27日の礼拝案内

【次週礼拝(6月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:1~11

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、16番、130番、507番、頌栄540番

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

06月20日の説教要旨

マルコによる福音書10:46~52

「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

マルコ福音書は、イエス・キリストの公の生涯を大きく三つに分けて伝えています。ガリラヤ地方での宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの最後の7日間です。今日の場面は福音書の第二部、キリストと弟子達のエルサレムへの旅の最後の所になります。

主イエスのエルサレムへの旅は終わろうとしています。エルサレムの手前にある町エリコに到着しました。これからエルサレムに入り、キリストの受難への秒読みが始まろうとするまさにその時、一人の目の見えない人が主イエスのお名前を叫びました。

バルティマイという名前の人でした。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」バルティマイは人々から「黙れ」と叱られても、主イエスを求めて叫び続け、その声は主イエスの耳にまで届き、バルティマイは目を開かれるのです。

イエス・キリストの旅は、ベトサイダという村で目の見えない人を癒されるところから始まっています。そしてこの旅は、エルサレムに到着する直前にバルティマイという人の目が癒されることで終わっています。

主イエスのエルサレムへの旅が、盲人の癒しで始まり、盲人の癒しで終わっている、ということには、象徴的な意味があります。イエス・キリストと共に歩む・生きるということは、「目が開かれる」、ということであり、霊の目が開かれた人はキリストと共に人生の旅を続けるということです。

皮肉なことですが、イエス・キリストの弟子達は、ガリラヤからエルサレムまで主イエスと旅を共にしながらキリストの教えの本当の意味、キリストの本当のお姿がまだ見えていませんでした。弟子達はまだ霊の目は開いておらず、信仰の道は見えていません。

エルサレムに入る直前になっても、弟子達が求めていたのは、主イエスが栄光の座にお着きになる時に自分もそのそばにおいてほしい、自分にも栄光の分け前が欲しいという、この世での偉さでした。

主イエスはこの旅の中で弟子達に繰り返し神の国の教えを語ってこられました。「神の国に入るには子供のようにキリスト・神を求め、受け入れなければならない」「この世で偉いとされている人は、神の国では偉いとはみなされない」「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」

しかし、そう言われても弟子達は理解できませんでした。弟子達がこの旅の間考えていたことは、「誰が一番偉いのか」ということでした。神の国に入るために小さい者になろう、皆に仕える者になろう、そして子供のようにイエス・キリストを求めよう、と考えるには至りませんでした。キリストのことを理解しないまま、エルサレムの手前まで来てしまったのです。

エリコは、エルサレムへと向かう巡礼者が止まる最後の町です。エリコに来るまでに、主イエスの一行にはたくさんの巡礼者たちが加わりました。もうすぐ過越祭があるのです。彼らは早く神の都エルサレムに入りたいと思っていました。それなのに、一人の目の見えない物乞いが大声を上げて主イエスを引き留めようとします。弟子達も巡礼者たちも、バルティマイを叱りました。このバルティマイという人が、これからエルサレムに巡礼に向かう人たちに、本当に求めるべき霊の宝を示すことになるのです。

この人は、イエスという方がガリラヤで語られた神の国の福音について、また行われた数々の不思議な業について、エリコの町で物乞いをしながら伝え聞いていたのでしょう。そして、「そのイエスという方こそイスラエルのメシア」に違いない、と主イエスに会える時を待っていたのです。

「その方は過越祭のためにガリラヤからエルサレムに登って来るに違いない。その時には、エリコの町を通るはず。自分の目の前を通るはず。その時、自分の思いをぶつけよう。主イエスの足音を聞き逃してはいけない」と、道端で耳をすましていたのでしょう。

バルティマイは、キリストが目の前を通り過ぎる瞬間を逃しませんでした。そしてただ主イエスのお名前を呼び続けました。人々から「黙れ」と言われても。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。

バルティマイは、「ダビデの子」と繰り返し叫びます。「ダビデの子」というのは、預言者エゼキエルを通して預言されていた、イスラエルを導いて神の元に連れ戻す羊飼い、救い主のことです(エゼ34章)。神は、預言者エゼキエルの口を通して、「ダビデの子孫からイスラエルの羊飼いを起こす」、とおっしゃいました。

バルティマイは、ナザレのイエスこそ、その「ダビデの子、イスラエルの羊飼い」である、見抜きました。彼は確かに目の見えない人でしたが、誰よりも、霊の目はキリストに対して開いていたのです。

バルティマイの信仰の叫びは、イエス・キリストの足を止めました。そしてキリストの元に招かれ、目を癒していただいきます。キリストの足を止め、バルティマイに救いをもたらしたものは何だったのでしょうか。イエス・キリストは、「あなたの信仰が、あなたを救った」とおっしゃいました。

バルティマイがキリストを求める姿というのは、無様だったと思います。なりふり構わず叫ぶのです。彼は目の見えない、一人の物乞いに過ぎませんでした。有名な律法学者だったのではありません。

自分で主イエスの下に行くことが出来ないのです。近づいて、普通に自分の信仰を伝えることが出来ないのです。彼は、自分が物乞いをしている場所から大声を上げて、キリストを求めるしかありませんでした。無様に自分をさらけ出し、人々から「黙れ」と言われても、嫌われても、キリストを求め続けるしかなかったのです。そしてそのことが、バルティマイ自身を救った、とキリストはおっしゃいます。彼の人生を変えたのは、彼自身のキリストを求める心、彼自身の信仰でした。

そしてバルティマイの信仰は、自分だけでなく、周りにいた人たちも変えています。人々は初めはバルティマイに「黙れ」と言いました。巡礼者たちにとって、主イエスの歩みを止めようとするこの物乞いは、邪魔でしかなかったのです。

しかし、キリストがバルティマイの叫びを聞き、「あの人をここに連れて来なさい」と招かれると、人々のバルティマイに対する言葉が変わります。人々の「黙れ」と言う言葉が、「安心しなさい」という言葉に変わるのです。「安心しなさい。立ちなさい。あの方がお呼びだ。」拒絶の言葉から、励ましの言葉に変わりました。

救いを求める一人の信仰者の姿が、キリストを足をそこに止め、周りの人たちの心をも変えたのです。キリストへの信仰は、自分を変えるだけでなく、人々をも変えるのです。

私達は自分の信仰を振り返って、自分の信仰が持つ力の小ささに嘆くことがあるのではないでしょうか。「もっと影響力を持てないか、もっと自分に力があったら、キリストをたくさんの人に知ってもらえるのではないか」、などと思うのです。

しかし信仰の業というのは、このバルティマイの叫びのようなものなのです。沈みそうで溺れそうになっているその中からキリストに助けを求める叫び、祈り。その不格好な信仰者の業が、実は用いられるのです。

バルティマイは、雄弁に聖書を解釈して語れるような律法学者ではありませんでした。彼は、ただ物乞いしながら、みじめさを抱えながら、キリストの足跡が聞こえた時に叫ぶべき祈りの言葉を温めていました。そして叫ぶべき時に、「私を憐れんでください」と叫んだのです。これが、信仰の業です。このことが周りの人を変えるのです。

無様でもいい、いや、無様だからこそ、私達は祈るのではないでしょうか。その必死になって神の救いを求める人の姿が、キリストの憐れみを求める祈りの姿が、周りの人たちをも変えていきます。

バルティマイは、癒されました。それだけでは終わりませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。

キリストに出会い、目を開かれたその人は、その後、自分が歩むべき道が目の前に現れるのです。それはキリストが進まれる道です。信仰者はキリストの後ろを歩くようになります。羊飼いが羊飼いを先頭に立って導くようにキリストが信仰者を神の国に通じる道を先に立って導いて下さいます。

バルティマイが主イエスの後に従った、というのは、ただエルサレムに付いて行った、ということではありません。それはキリストの道を歩き始めた、そして一生キリストの道を歩きとおした、ということです。

「道」というのは、イエス・キリストに従う道のことです。使徒言行録にも「道」と言う言葉が使われています。単なる「道路」ということではなく、イエス・キリストに従う信仰の道という意味で用いられています。主の道、神の道などとも言われています。

バルティマイに起こったことは、全ての信仰者に起こることです。キリストを求める人がキリストに出会って霊の目を開かれ、歩むべき道に従っていく・・・それこそが、私達が洗礼によってキリストと契約を結び、共に歩むと決めた道なのです。

生きる中でいろんな試練や苦難があり、右往左往する私達であっても、先を行かれるキリストに付いて道を歩む限り、それは、まっすぐ神の国へと近づいているということなのです。

06月20日の礼拝案内

【次週礼拝(6月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書10:46~51

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、15番、252番、301番、頌栄540番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

06月13日の説教要旨

マルコ福音書10:35~45

「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない』」(10:42)

主イエスが「私はこれから殺されることになっている」とおっしゃったすぐ後に、弟子であったヤコブとヨハネの兄弟が、的外れな願い事をしました。「あなたが栄光の座にお着きになる時は、私達の一人を右に、もう一人を左においてください。」つまり、自分たち兄弟を他の弟子達よりも優遇してください、という申し出です。

このことは他の10人の弟子達にすぐにばれてしまいました。

他の10人の弟子達は怒りました。ヤコブとヨハネが、主イエスがお伝えになってきた神の国の教えが全く分かっていなかったからではありません。自分たちが求めていたものを、この二人の兄弟が誰よりも早く抜け駆けして求めたからです。ヤコブとヨハネが願い出なかったら、他の誰かが同じことを願ったのではないでしょうか。ヤコブとヨハネだけではなく、12人の弟子達全員が、イエス・キリストがおっしゃる神の国の教えを全く理解できていなかったのです。

ご自分の十字架が待つエルサレムを前にして、まだこんなことで言い争う弟子達をご覧になって、主イエスはどのような気持ちでいらっしゃったでしょうか。

あらためて、12人の弟子達全員におっしゃいました。

「あなたがたも知っているよう縫い、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

弟子達と一緒に過ごす時間がほとんど残されていない中、主イエスはとても厳しい口調でこのことをおっしゃったのではないでしょうか。

キリストの弟子として求めるべきものは、この時弟子達が求めているものと反対のものでした。誰かよりも上に立って、支配しようとすることではなく、誰かのために自分をひくくして仕える、ということ。権威をもって人を支配するのではなく、隣人の奴隷となってお互いに仕えあう、ということ。

主イエスは「異邦人はそうしているが、あなたがたはそうあってはいけない」という言い方をなさっている。異邦人と同じではダメだ、という言い方です。異邦人というのは、聖書の神を知らない人たち、ということです。特に、ここで主イエスがおっしゃる「異邦人」というのは、この時代ユダヤを占領し、ユダヤ人を支配していた、ローマ人のことです。

この時代、ユダヤ人たちは屈辱の中を生きていました。ローマの兵士たちが自分たちの国に駐屯し、自分たちを見張り、支配し、ローマに税を納めるよう求めていたのです。

キリストの弟子達もユダヤ人です。異邦人によって支配され、屈辱を感じていた者の一人だったはずです。ローマの軍隊に支配されて屈辱を感じているはずなのに、結局自分たちもそのローマ人と同じものを求めてしまっている・・・弟子達はまだそのことに気づいていません。

ローマ人であっても、ユダヤ人であっても、人は支配されるよりも支配する側にいたいと願います。その方が安心できるからです。しかし人間が同じ人間を自分の下に置くと、下に置かれた人間は、屈辱に耐えるしかなくなります。それが「人間の支配(人間の国)です。

しかし、イエス・キリストがお伝えになる神の支配(神の国)はそうではありません。皆、同じ神の支配のもとに生きるのです。皆同じ神の元に、上も下もなく生き、優越感も屈辱もありません。羊飼いに守られる羊のように、そこにはただ平等に安心と平和があります。

主イエスはおっしゃいます。「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

そこから、神の国に生きる、ということが始まるのです。

全ての人が互いに、僕になって仕えあう・・・そう聞くと、確かに美しい世界のように思う。しかし、本当にそんな世界は実現可能なのか、と思ってしまうのではないでしょうか。言葉としては、理念としては美しいが、そんなことは理想論ではないか・・・。

だからこそ、イエス・キリストは、まずご自分が十字架を通して、誰よりも低くなって仕える、ということの模範を世に示されました。私達は今日読んだところのキリストの最後の言葉を特に心に留めたいと思います。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエス・キリストがこの世に来られた理由がはっきりと言われています。

主イエスはご自分のことを、「人の子」とおっしゃいます。ご自分が、旧約聖書のダニエル書に、この世界の全ての支配を神から任される「人の子」であることを示されています。

しかし、天と地を支配する王として世に来られた「人の子」であるイエス・キリストの支配は、ローマがユダヤを支配していたように、軍事力によるものではありませんでした。羊飼いが自分の羊を柵の中に入れ、守りの中に置く・・・愛の支配です。

このイエスという方がなぜ十字架にかけられて殺されなければならなかったのか、ということは、謎でした。何も悪いことをしていません。むしろ人々を癒し、悪霊から救い、神の国の教えを説いて来られた方です。だから弟子達も主イエスの受難予告を真剣に捉えることが出来ませんでした。

イエス・キリストの十字架の苦しみの意味を預言しているのが、イザヤ書です。イザヤ書には、「苦難の僕の歌」と呼ばれる、いくつかの歌があります。神が、一人の僕を世に遣わされ、その僕が、罪人の罪を全て身代わりとなって背負って死ぬ、ということが歌われています。

イザヤ書53章

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」

「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」

人々は、やがてキリストの十字架に、イザヤが預言していた苦難の僕の姿を見るようになりました。

私達は、キリストの十字架を見つめなければならないと思います。「ほかの人よりも偉くなりたい」というこの時の弟子達こそ、生身の人間の姿です。教会の中でさえ、私達は、この時の弟子達のように、「誰が一番偉いのだろうか」などということを気にしてしまいます。

使徒パウロは、フィリピ教会にこう書き送っている。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」

主イエスはご自分の十字架を前にして、弟子達に最も大事なことを、お伝えになりました。

弟子達が互いにどうあるべきか、そしてご自分の十字架の死の意味は何か。ということを。

イエス・キリストの救いの御業を歌い上げる「キリスト讃歌」と呼ばれる歌があらいます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に跪き、全ての舌が『イエス・キリストは主である』と公にのべて父である神をたたえるのです」(フィリピ2章)

人に仕える、という神の御心に命をかけて、最後まで従順になる、ということをキリストは見せてくださいました。そして、そのお姿が人々を神の元へと招いたのです。

この後、この世の偉さをも求めたヤコブとヨハネ、そしてほかの10人の弟子達も、キリストの十字架と復活を見ることになります。彼らは変わります。この世の偉さ以上に、「あの方こそ主である」と世に伝えることに価値を見出し、そのことに一生をささげました。

神の御心に従い人に仕えるキリストの「苦難の僕」としてのお姿が私達の信仰の模範です。私達は弟子達のように、十字架に至るまで従順であられたキリストのお姿を見据える中で、この世の偉さよりも尊いものを見出していきます。

この世の宝に勝る天の宝を求めて私達がイエス・キリストの前に低くなる時、それを見た世の人々は、イエス・キリストがもたらしてくださった、神の愛による支配を見るのです。

06月13日の礼拝案内

【次週礼拝(6月13日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書10:35~45

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、14番、247、291番、頌栄540番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

06月06日の説教要旨

マルコ福音書10:35~40

「イエスは言われた『あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか』」(マルコ福音書10:38)

主イエスはエルサレムへの旅の最初に、「私は殺されることになっている」と弟子達におっしゃいました。そのことで、弟子達の間の雰囲気が変わります。弟子達は主イエスがいなくなった後のことを現実的に考え始めたのです。

「主イエスがいなくなったら自分たちはどうなるのだろう」、それは、この時の弟子達にとっては、「自分たちの序列はどうなるのだろう」ということでもありました。12人はやがて、「弟子達の中で誰が一番偉いのだろう」ということを歩きながら議論するようになります。

そのような弟子達に、主イエス何度も「神の国では先の者が後になる」「子供のように神の国を求めなさい。神の前に子供のようになりなさい」とおっしゃってきました。しかし弟子達は神の国以上に、この世での偉さというものに心を支配され、主イエスの神の国の教えが入らなくなっていました。

いよいよ主イエスと弟子達の旅は、目的地であるエルサレムが近づいた時、ヤコブとヨハネの兄弟が行動を起こします。ヤコブとヨハネは「あなたが栄光の座におつきになる時には、私達をあなたの右と左においてください」いう厚かましいお願いをしたのです

ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスにこう願い出たのは、主イエスによる最後の受難予告の直後でした。二人は何を聞いていたのでしょうか。主イエスがもうすぐお受けになるであろう痛みや苦しみに関して、まったく心に留めていません。主イエスのことを全く考えていません。他の弟子達のことも考えていません。主イエスがこれまでお伝えになって来た神の国の教えも、心に残っていません。二人は、ただ、自分たちだけの栄達だけを考えています。

主イエスはあらためて二人に質問されました。「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」。二人は簡単に「できます」と答えました。ヤコブもヨハネも、主イエスがおっしゃる「杯・洗礼」についてよく考えて返事をしたのではありません。上辺だけの答えです。

主イエスがおっしゃる杯とは何か・・・この後福音書を読んでいくとわかります。それは十字架の苦しみのことでした。

ヤコブとヨハネは、祝福の杯、祝杯のようなものを考えていたのでしょう。主イエスが栄光の座に着いて、その栄光を自分たちも分けていただける、そして勝利の杯もって一緒に乾杯する・・・そのような情景を思い描いていたのでしょう。

エルサレムで逮捕される直前、ゲツセマネで面にひれ伏し、震えながら祈られました。「御心ならばこの杯を過ぎ去らせてください」。本当は、主イエスがヤコブとヨハネにお尋ねになった「杯」というのは、そういうものなのです。

ヤコブとヨハネの目を曇らせてしまったものはなんだったのでしょうか。自分だけを見つめるエゴイズムです。人は結局、自分、自分、自分なのです。主イエスが「私は十字架で殺されることになっている」とおっしゃっても、弟子達が最終的に気にしたのは、「それでは、自分はどうなるのか」ということでした。

この世には真理を見えなくさせるものが多いのです。この世の栄達、富の誘惑、地位、名誉、財産、名声・・・弟子達の目を曇らせていたのは、「自分だけを見ていればいい、自分のことだけを考えていればいい」という誘惑の声です。

福音書を読んでいると、「ヤコブとヨハネは愚かだ」と私達は思うでしょう。しかし、この二人こそ、私の本当の姿ではないでしょうか。ヤコブとヨハネの願いから2千年たった今、私達は神の国の価値観を自分のものにどれだけできているでしょうか。価値観から抜け出せないでもがいているはずです。

学ばない罪人の姿、それが人間です。そういう私達だからこそ、救いが必要なのです。立派で、救いなど必要としない人たちではなく、このどうしようもない、自分のことしか考えられない、神に向かって目を上げることを知らない人間だからこそ、キリストは命を投げうってくださったのです。

私達を変えるのは、イエス・キリストの十字架です。自分の罪を背負って十字架の上に死んでくださったそのキリストのお姿を見る時、私達の目から曇りが取り去られ、視界が開け、神の救いの御業が見えてきます。

ヤコブもヨハネも、まだ主イエスの十字架を見ていません。まだ自分のことしか考えていません。しかし、もうすぐ二人は、主イエスの十字架と復活を見て、この時言われた「杯」とは何だったのかを悟ることになります。

ヤコブとヨハネは、それが「苦しみの杯」であるとわかっても、その杯を捨てませんでした。イエス・キリストが飲まれた杯を自ら飲むことを選んびます。使徒言行録12:2で、ヤコブの殉教が記録されています。ヨハネも、言い伝えによれば、パトモス島の牢獄で死んだ、と言われています。

キリストへの信仰を貫いて、二人は最後には殺されてしまったのです。それでは信仰というのは、結局は空しいだけのものなのでしょうか。そうではないでしょう。この世の栄達・繁栄以上に価値のあるものを、彼らはイエス・キリストに見出したのです。そして二人は自分の一生・自分の命をキリストのために使うことを、自分で決めたのです。

彼らの人生は空しいものではありませんでした。命をかけるだけの価値があるものを見出した人生でした。弟子達はイエス・キリストを通して、死に勝るものを見たのです。

私達が何よりも見なければならないのは、キリストの十字架と復活です。

ヤコブとヨハネを変えたものが、私達をも変えました。

「子供のようにならなければ神の国には入れない」

「小さい者が大きい者になる」

「先の者が後になり、最後の者が先になる」

キリストの言葉が響きます。