06月06日の説教要旨

マルコ福音書10:35~40

「イエスは言われた『あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか』」(マルコ福音書10:38)

主イエスはエルサレムへの旅の最初に、「私は殺されることになっている」と弟子達におっしゃいました。そのことで、弟子達の間の雰囲気が変わります。弟子達は主イエスがいなくなった後のことを現実的に考え始めたのです。

「主イエスがいなくなったら自分たちはどうなるのだろう」、それは、この時の弟子達にとっては、「自分たちの序列はどうなるのだろう」ということでもありました。12人はやがて、「弟子達の中で誰が一番偉いのだろう」ということを歩きながら議論するようになります。

そのような弟子達に、主イエス何度も「神の国では先の者が後になる」「子供のように神の国を求めなさい。神の前に子供のようになりなさい」とおっしゃってきました。しかし弟子達は神の国以上に、この世での偉さというものに心を支配され、主イエスの神の国の教えが入らなくなっていました。

いよいよ主イエスと弟子達の旅は、目的地であるエルサレムが近づいた時、ヤコブとヨハネの兄弟が行動を起こします。ヤコブとヨハネは「あなたが栄光の座におつきになる時には、私達をあなたの右と左においてください」いう厚かましいお願いをしたのです

ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスにこう願い出たのは、主イエスによる最後の受難予告の直後でした。二人は何を聞いていたのでしょうか。主イエスがもうすぐお受けになるであろう痛みや苦しみに関して、まったく心に留めていません。主イエスのことを全く考えていません。他の弟子達のことも考えていません。主イエスがこれまでお伝えになって来た神の国の教えも、心に残っていません。二人は、ただ、自分たちだけの栄達だけを考えています。

主イエスはあらためて二人に質問されました。「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」。二人は簡単に「できます」と答えました。ヤコブもヨハネも、主イエスがおっしゃる「杯・洗礼」についてよく考えて返事をしたのではありません。上辺だけの答えです。

主イエスがおっしゃる杯とは何か・・・この後福音書を読んでいくとわかります。それは十字架の苦しみのことでした。

ヤコブとヨハネは、祝福の杯、祝杯のようなものを考えていたのでしょう。主イエスが栄光の座に着いて、その栄光を自分たちも分けていただける、そして勝利の杯もって一緒に乾杯する・・・そのような情景を思い描いていたのでしょう。

エルサレムで逮捕される直前、ゲツセマネで面にひれ伏し、震えながら祈られました。「御心ならばこの杯を過ぎ去らせてください」。本当は、主イエスがヤコブとヨハネにお尋ねになった「杯」というのは、そういうものなのです。

ヤコブとヨハネの目を曇らせてしまったものはなんだったのでしょうか。自分だけを見つめるエゴイズムです。人は結局、自分、自分、自分なのです。主イエスが「私は十字架で殺されることになっている」とおっしゃっても、弟子達が最終的に気にしたのは、「それでは、自分はどうなるのか」ということでした。

この世には真理を見えなくさせるものが多いのです。この世の栄達、富の誘惑、地位、名誉、財産、名声・・・弟子達の目を曇らせていたのは、「自分だけを見ていればいい、自分のことだけを考えていればいい」という誘惑の声です。

福音書を読んでいると、「ヤコブとヨハネは愚かだ」と私達は思うでしょう。しかし、この二人こそ、私の本当の姿ではないでしょうか。ヤコブとヨハネの願いから2千年たった今、私達は神の国の価値観を自分のものにどれだけできているでしょうか。価値観から抜け出せないでもがいているはずです。

学ばない罪人の姿、それが人間です。そういう私達だからこそ、救いが必要なのです。立派で、救いなど必要としない人たちではなく、このどうしようもない、自分のことしか考えられない、神に向かって目を上げることを知らない人間だからこそ、キリストは命を投げうってくださったのです。

私達を変えるのは、イエス・キリストの十字架です。自分の罪を背負って十字架の上に死んでくださったそのキリストのお姿を見る時、私達の目から曇りが取り去られ、視界が開け、神の救いの御業が見えてきます。

ヤコブもヨハネも、まだ主イエスの十字架を見ていません。まだ自分のことしか考えていません。しかし、もうすぐ二人は、主イエスの十字架と復活を見て、この時言われた「杯」とは何だったのかを悟ることになります。

ヤコブとヨハネは、それが「苦しみの杯」であるとわかっても、その杯を捨てませんでした。イエス・キリストが飲まれた杯を自ら飲むことを選んびます。使徒言行録12:2で、ヤコブの殉教が記録されています。ヨハネも、言い伝えによれば、パトモス島の牢獄で死んだ、と言われています。

キリストへの信仰を貫いて、二人は最後には殺されてしまったのです。それでは信仰というのは、結局は空しいだけのものなのでしょうか。そうではないでしょう。この世の栄達・繁栄以上に価値のあるものを、彼らはイエス・キリストに見出したのです。そして二人は自分の一生・自分の命をキリストのために使うことを、自分で決めたのです。

彼らの人生は空しいものではありませんでした。命をかけるだけの価値があるものを見出した人生でした。弟子達はイエス・キリストを通して、死に勝るものを見たのです。

私達が何よりも見なければならないのは、キリストの十字架と復活です。

ヤコブとヨハネを変えたものが、私達をも変えました。

「子供のようにならなければ神の国には入れない」

「小さい者が大きい者になる」

「先の者が後になり、最後の者が先になる」

キリストの言葉が響きます。