MIYAKEJIMA CHURCH

8月1日の礼拝案内

【次週礼拝(8月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:13~17

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、22番、166番、352番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月25日の説教要旨

マルコ福音書12:1~12

「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。(12:10~11)

ユダヤの指導者たちは、神殿の境内をまるで自分の家にいるかのように振る舞っているナザレのイエスに腹を立てていました。彼らは、「何の権威であなたはこんなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と直接詰め寄ります。

指導者たちからの質問に対して、主イエスは「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と、逆に質問されました。「それに答えたら、私も答えよう」。ご自分には、洗礼者ヨハネと同じ権威がある、それは天からものだ、ということを暗に示されたのです。

ヨハネを支持していていた群衆が周りにいたので、指導者たちは、「ヨハネの洗礼が天からのものか人からのものかわからない」と答えました。主イエスは「それなら、私も答えないでおこう」とおっしゃいます。

ユダヤの指導者たちと主イエスとのやり取りは、それだけでは終わりませんでした。続けて主イエスは一つのたとえ話をお聞かせになります。

こういう内容です。

ある人が、農夫たちに、ブドウ園を作り、農夫たちに貸して旅に出ました。

「垣をめぐらし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」、これを農夫に貸した、とありますので、主人は、農夫たちが作業をするために必要なものを全て整え、ブドウ園の所有者としての責任を全て果たし、農夫たちを信頼して旅に出たのです。農夫たちは、毎年、その年の収穫の内一定の量をブドウ園の所有者、「主人」に納める契約だったようです。

収穫の時期になったので農園の主人は自分の僕を送りました。しかし、農夫たちは次々に送られてくる僕たちを殴ったり、殺したりして、農園の主人に収穫をよこそうとしません。主人は「自分の息子なら、農夫たちも敬ってくれるだろう」と思い、最後には大事な跡取り息子を遣わしました。しかし、農夫たちは、「主人から送られてくる跡取り息子殺せば、相続財産が自分たちのものになる」、と考え、結局殺してしまうのでした。

ひどい内容の話です。この話はたとえ話なので、現実に起こった話ではありません。これは一体何の話なのでしょうか。

エルサレムの指導者たちはこの話を聞いて、「イエスが自分たちに当てつけてこの喩を話した」と気づきました。「イエスは、自分たちのことを、この話に出てくる農夫に当てつけている。」

主イエスがこのたとえ話の中で示されている「農夫たち」が指導者たちであるとするなら、話に出てくる「主人」とは誰なのでしょう。「農園」とは何でしょうか。「主人の僕たち」「主人の息子」とは誰なのでしょうか。

律法や預言の言葉をよく知っているユダヤ人であれば、このたとえ話を聞いたらイザヤ書の5章にある、「ブドウ畑の歌」を思い出したでしょう。神が畑でブドウを育てて収穫を待たれたのに、その畑に実ったのは酸っぱい実だけだった、という悲しみの歌です。神は嘆かれます。「畑のために私がしなければならなかったことがまだあるというのか。」

イザヤの歌の中で言われているブドウ畑というのは、イスラエルのことです。その畑の主人は神です。

このイザヤ預言に照らし合わせて主イエスがお話しなさった「ブドウ園と農夫」のたとえを見ると、主イエスが何をお見せになろうとしたのかがよくわかります。「ブドウ園の主人」は、神であり、「主人の下から遣わされる僕たち」は預言者であり、「主人の愛する一人の息子」は、神の子・メシアです。

主イエスは、このブドウ園と農夫のたとえ話を通して、神とイスラエルの歴史そのものを指導者たちにお見せになっているのです。旧約聖書を読めばわかります。神は、不信仰のイスラエルに何度も預言者を送られました。預言者たちは、歴史の中で何度も「神に立ち返りなさい」という神の言葉をイスラエルに伝えました。しかし、イスラエルは預言者たちの言葉を聞かなかったのです。ある時は無視し、ある時は牢屋に入れ、ある時は殺しました。

この主イエスのたとえ話の中で主人に遣わされた僕たちは、農夫たちによってふくろ叩きにされたり、殴られたり、侮辱されたりしています。ある僕は殺されている。まさに、預言者たちが歴史の中で受けて来た扱いそのものです。

我々はこのたとえ話を読んで、不思議に思うのではないでしょうか。なぜ農夫はここまで主人に反抗したのでしょうか。いやそれ以上に、農夫たちの度重なる反抗にも関わらず、主人はなぜ僕を何人も遣わしたのでしょうか。自分の僕が一人でもこのような目にあわされたのであれば、農夫たちを罰するに十分な理由になるでしょう。

しかし、主人は、この話の中で、ブドウ園の収穫を諦めないのです。農夫たちが心を入れ替えて、自分に収穫をもたらしてくれる、という希望を捨てようとしないのです。

主人は、一人を送ります。すると、その僕は殴られ侮辱されました。主人はさらにもう一人を送りました。その僕は、今度は殺されてしまいます。主人は、それでもまた僕を何人も送り続けました。「ある者は殴られ、ある者は殺された」、とあります。

そして主人は最後に、自分の一人息子を送ることになります。ブドウ園の主人は、もう自分の息子しか残らないほどに、僕を農園に送り続けた、ということです。

なぜこの主人はそれほどまで、農夫たちが変わることに希望を持ったのでしょうか。はっきり言えば、私達にはわかりません。それが、神の愛の深さなのです。私達の理解を超えて、神は私達を愛してくださっているのです。

このたとえ話の「主人」の姿に、神のイスラエルへの愛が現わされています。神は、何人預言者が殺されようとも、イスラエルを取り戻されるのを諦めませんでした。最後には、ご自分の愛する独り子を世に送られたのです。

ユダヤの指導者たちは、ナザレのイエスを殺そうとしていました。それは、イスラエルが、自分たちが信じている神の独り子を殺す、ということなのです。

最後に送られて来た主人の息子は、農夫たちにとって、主人に許してもらう最後の機会でした。主人の息子を敬い、受け入れさえすれば、それまでのことを主人に許してもらえたかもしれません。しかし、農夫たちは、最後の最後まで「この息子さえ殺せば、農園が手に入る」、と考えてしまいました。

主イエスのこのたとえ話で大事な点は、主人の息子が殺されて終わりではない、ということです。実は、話はその後のことに焦点が置かれています。

ブドウ園の主人の息子を殺した農夫たちは、どうなるでしょうか。「ブドウ園の主人は戻って来て農夫たちを殺すにちがいない。そしてブドウ園を他の人たちに与えるに違いない」と主イエスはおっしゃる。

このたとえ話を通して示されたことは明らかでした。今、指導者たちが主イエスを殺そうとしていることは神への反逆だ、と言うことです。ブドウ園の主人が遣わした人を受け入れない、ということは、主人を受け入れない、ということです。そして主人の一人息子を殺した後には、主人自身が来て、農夫たちを裁くことになるのです。

「主人が来た時、農夫たちはどうなるだろうか」

この問いこそ、主イエスのたとえ話の意図です。これから神の子を十字架に上げる、ユダヤの宗教指導者たちが何を見ることになるのか・・・主人の息子が殺されたことによって、このブドウ園はこれまでの農夫とは別の人たちに与えられることになります。神の畑は、もう彼らのものではなくなるのです。

主イエスは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私達の目には不思議に見える」と締めくくられました。これは詩編118:23の引用です。

農夫たちに殺され、捨てられた主人の跡取り息子が元になって、何か新しいものが造られる、という謎めいたことが言われています。「不要だ」と思って捨てた石が、皮肉にも、やがて一番大事な家の土台となる石となるだろう、という主イエスの預言です。

主イエスはご自分を待つ十字架の死を見ていらっしゃいます。主イエスの死によって、何かが生まれるのです。ヨハネ福音書で、主イエスがおっしゃったこういう言葉があります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

人々から捨てられたキリストの上に、教会が造られていくことになります。罪の許しをキリストに求めて祈る人たちが、聖霊に導かれ捨てられた隅の親石へと招き入れられるのです。

神は、長い長いイスラエルの歴史の中で、預言者たちを通してどれだけ種を蒔いてこられたでしょうか。今、ご自分の独り子、神の子キリスト・イエスを世に遣わして、人間を取り戻そうとなさいます。

これから、神の子は、ご自分の命を使って、神の招きの言葉を世界に聞かせようとなさいます。十字架の上で、ご自身の死を通して神の愛を示されることになるのです。

指導者たちは、自分たちは神のために正しいことをしている、と考えていたでしょう。しかし、主イエスのたとえ話を通して、人間の心の目・霊の目がどれほど曇っているか、ということを思い知らされるのではないでしょうか。

彼らは、「神殿の秩序を守るために、神への信仰を守るために」という思いをもって、神の子を殺そうとしています。 Continue reading

7月25日の礼拝案内

【次週礼拝(7月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:1~12

 交読文:詩編3編

 讃美歌:讃詠546番、21番、240番、521番、頌栄541番

【報告等】

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月18日の説教要旨

マルコ福音書11:27~33

「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。」(11:29)

エルサレムに入られて三日目の火曜日の朝、主イエスはまた神殿の境内に入られました。過越祭に巡礼に来ているのだから、主イエスが神殿の境内に入られるということは、当然のように思えるかもしれません。しかし、よく考えるとこのことは当たり前のことではないと思います。

この前の日、神殿の境内、つまり「異邦人の中庭」と呼ばれるこの場所で、主イエスは激しく暴れ、そこで売り買いをしていた人たちを追い出されました。両替人の台やハトを売る者の腰掛をひっくり返し、境内を通って物を運ぶこともお許しになりませんでした。そしてそのままその場所で、主イエスは夕方になるまで神殿の境内で群衆に神の国の教えを説かれたのです。

いい目立ち方ではありません。これを見たユダヤの指導者たちは、主イエスを殺す相談を始めました。この月曜日の事件は、当然たくさんの人が見ていたでしょうし、噂になったでしょう。普通なら、捕らえられてしまう危険性を考えて、もう二度と同じ場所に戻ってくることはしないのではないでしょうか。しかし、主イエスはまるで何事もなかったかのように、月曜日と同じように、火曜日にも神殿の境内に入って来て歩いていらっしゃったのです。

ユダヤの指導者たちも驚いたでしょう。ナザレのイエスが昨日あんなことをしておいて、まさかまた同じ場所にやってくるとは思ってもみなかったのではないでしょうか。この機会を逃さず、詰め寄りました。

「あなたは何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」

この人たちは、ユダヤで一番権威のある宗教指導者たちです。最高法院の構成員であり、ユダヤの宗教的な教えの秩序を保つ責任を負っていました。当然、神殿の境内から人々を追い出し、その場所で勝手に群衆に教えを説いたナザレのイエスを調査する責任がありました。神殿の境内で暴れたり、群衆に教えを説いたりすることは、危険極まりないことだったのです。過越祭の時期にそんなことをされると、ローマへの暴動が起こるかもしれません。

主イエスは、彼らの質問に対して、悪びれた様子をお見せになっていません。主はエルサレムに入られてから、一つの姿勢を貫かれています。それは「エルサレム神殿は、私の家だ」、という姿勢です。

「ここは私の家なのだから、ここに来る人は誰でも、私が望むように振る舞いなさい。ここで両替や生贄の売買を行ってはいけない。それは、私の家でするべきことではない。私の家は祈りの家でなければならない」主イエスの神殿での振る舞いは、そのような姿勢に基づいています。

主イエスは昨日暴れた神殿の境内に、また今日もごく自然に入って、歩かれたのは、そこがご自分の家だったからです。神殿は、神の家です。そしてそこをご自分の家として歩いていらっしゃるイエス・キリストは、正に、神殿に来られた神のお姿なのです。

私達は、まず、このことをきちんとここで踏まえておかなければならないと思います。

主イエスは彼らの質問に対して、質問で返されました。

「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」

なぜ、質問に対して、質問で返されたのでしょうか。

なぜ突然、洗礼者ヨハネの名前を出されたのでしょうか。

この言い方はつまり、主イエスの権威は洗礼者ヨハネと同じところから来ている、ということでしょう。「私の権威は洗礼者ヨハネと同じところから来ている。あなた方は、それを天からだと思うか、それとも人からだと思うか。」そう問われたのです。

主イエスはあえて質問なさいました。なぜでしょうか。彼の信仰の姿勢を確かめるためです。もし彼らが、「洗礼者ヨハネの権威が人からのものだ」と考えているのであれば、主イエスがいくら「私の権威は天からのものだ。私はキリストだ」とおっしゃっても彼らは受け入れることが出来ません。

もしも彼らが「ヨハネの洗礼は天からのものです」と心から信じ答えれば、主イエスは「あなた方の考えは正しい。私の権威も天からのものだ。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるでしょう。

しかし、指導者たちの答えは「わからない」でした。この質問は、指導者たちにとって大きな声ではっきりと答えたくないものでした。

指導者たちは、洗礼者ヨハネのことをもちろん知っていました。ヘロデに向かって、「あなたは律法に反する結婚をしている」と非難して、最後には首を切られてしまった人です。人々は、洗礼者ヨハネのことを、「天から権威を与えられた預言者である」と信じていましたし、多くの人がヨハネから洗礼を受けていました。

指導者たちも、洗礼者ヨハネがヘロデに向かって行った抗議は聖書の教えに基づく正しいものだったことがわかっていたでしょう。洗礼者ヨハネには、人間を超えた権威が天から与えられている、ということもうすうすは感じていたはずです。

しかし彼らは、この場では、はっきりと答えたくなかったのです。ヨハネのことを預言者だと信じていた人たちが周りに多くいたからです。

もし指導者たちがヨハネの権威は天からのものだと言えば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか、なぜヨハネの味方をしなかったのか」、と言われてしまいます。ヨハネの権威が人からのものだと言えば、ヨハネを天からの預言者だと信じている群衆から非難されてしまいます。彼らが気にしたのは、人々からの評価、自分たちの保身でした。答えに困った彼らは、その場をしのぐために、「わからない」と言いました。

主イエスは、「それでは、私も答えるのをやめよう」とおっしゃいました。少し意地悪な言い方にも思えます。しかし、洗礼者ヨハネの権威について、それが天からか人からかわからない、と言うのであれば、主イエスが何とおっしゃっても、彼らにはわからないのです。

指導者たちの質問は、ナザレのイエスが本当に天から来られたキリストかどうか、ということを知るためではありませんでした。「どうすれば、この男を殺すことが出来るか、言葉尻をとらえてやろう」という思いからです。

そのような人たちには、主イエスが何をおっしゃっても正しくは伝わりません。「わからない」と言う指導者たちに、主イエスは「何も言うまい」とおっしゃいました。

この時、指導者たちが経験したことは、主イエスを求める人が誰でも経験することではないでしょうか。

「イエスとは何者だろう」と問いながら聖書を読んでも、よくわからないでしょう。「イエスとはあなたは何者なのか。本当に救い主なのか」と問いながら聖書を読んでも、私達は逆に聖書の中からキリストに問い返されるのです。

「あなたは、私を何者だと言うのか」

これまで、ファリサイ派の人たちは、主イエスに向かって「しるしを見せてほしい」と言ってきました。あなたは預言者なのか、メシアなのか、一体何者なのか、それがわかる徴、証拠を見せてほしい、と言ってきました。しかし、主イエスは、徴をお見せになることを拒まれました。信じていない人、信じようとしない人に徴を見せても、通じないからです。

主イエスがキリストである、ということは、説明されてわかるものではありません。上手に説明ができたら、皆この方をメシアと信じるようになるか、というとそうではありません。

逆なのです。説明されて理解するのではなく、信じた先でイエス・キリストに出会う、というのが信仰なのです。

主イエスは以前、ご自分の弟子達に対して「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われました。「私はメシアだから、そのように信じなさい」と説明したりなさいませんでした。主イエスはいつでも、ご自分を求める人に対して問われるのです。

「私に何をしてほしいのか」

「私にできると信じるのか」

「あなたは私を何者だと信じているのか」

私達は、信仰を通して答えをいただきます。この方をメシアであると信じたその先に、信仰の答えがあります。逆に、信仰もなくこの方を見ても、何もわかりません。結局、頭の中でキリストをこねくり回して終わるだけです。

主イエスは、ヨハネと同じ、天からの権威をお持ちでした。ヨハネと同じ天の権威を託されている、ということは、ヨハネと同じ運命を天から課されている、ということでもありました。それは、人々を神へと立ち返らせるため・導くために自分の命を使うということでした。

ヨハネは荒野で神への立ち返りを叫んでキリストの到来の前触れとなりましたが、同じように、ヨハネの死はキリストの死の前触れとなりました。

聖書が私達に示す一番の謎は、これだと思います。なぜ、洗礼者ヨハネは神の救いのご計画のために死ななければならなかったのか。なぜ、イエス・キリストは、神の子でありながら、十字架で死ななければならなかったのか。

この時の指導者たちの姿を通して、私達は考えたいと思います。彼らは、ナザレのイエスを殺す、という「自分たちの計画」だけを見て、自分たちを救おうとしてくださっている「神の計画」が見えなくなっていました。

私達が、人々の目や評価や、自分の立場といったものを超えて、真剣に、「なぜ天からの権威をもったキリストが殺されなければならなかったのか」、ということを考えた時、必ずそこに自分の罪の問題を見出すことになります。

悔い改めの中、救いへの渇望をもってキリストの十字架を見上げてはじめて、私達は、このイエスという方が何者であったのか、そしてその死の本当の意味を見出していくことになるのです。

7月18日の礼拝案内

【次週礼拝(7月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:27~33

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、20番、355番、515番、頌栄541番

【報告等】

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火)に予定されていた東支区教師会、伊豆伝道委員会は、緊急事態宣言が出されたため中止になりました。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月11日の説教要旨

マルコ福音書11:18~26

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(11:24)

主イエスが神殿の境内から商人たちを追い出されたのを見て、祭司長・律法学者。長老たちといったユダヤの指導者たちは、「あのイエスをどのようにして殺そうか」と相談を始めました。

過越祭の時期は、ユダヤ人指導者が神経をとがらせていました。エルサレムに世界中からユダヤ人が巡礼に集って来て、イスラエルが外国の支配からの解放を記念するのです。ユダヤ人の愛国精神が高まる時期でした。些細なきっかけで過越祭のエルサレムからローマへの暴動が起きかねません。

そんな中で、ナザレからイエスという人がやって来てエルサレムの都の中で人々から注目を浴びるようになっていました。ナザレのイエスは、日曜日にエルサレムに到着し、ガリラヤからの巡礼者たちから「ホサナ」と讃えられながら入場してきました。翌日の月曜日にはエルサレム神殿の境内で両替や生贄を売っていた商人たちを追い出しました。そして今やエルサレムの人たちは、このイエスという人が語る言葉に熱心に耳を傾けるようになっていました。

ユダヤ人の指導者であった祭司や律法学者たちは、誰にもエルサレムで目立つことをしてほしくありませんでした。巡礼者たちには、静かに過ごしてほしかったのです。ナザレのイエスの振る舞いは、目に余るものがありました。何とか、ナザレのイエスがこれ以上目立つことのないように、暴動の芽を早いうちに摘んでおく必要を感じました。

指導者たちは、群衆の知らないところでナザレのイエスを殺すしかない、と計画を立て始めます。いよいよ、イエス・キリストの十字架に向かって事態が動き始めることになります。

さて、今日私達は、キリストが呪われたイチジクの木が枯れ、それを見た弟子達が驚いた、というところを読みました。

聖書は一本のイチジクの木のことを何度も書いています。大人気ない八つ当たりのようにも見える、主イエスのイチジクの木に対する呪いの言葉、そしてその言葉によって木がどうなったのか、そしてそれを見た弟子達の反応と、聖書はイチジクの木を巡って起こったことをとても丁寧に描いています。たかが一本のイチジクの木がそれほど大事なのでしょうか。

旧約聖書を見ると、イスラエルの不信仰を神が嘆かれている言葉がたくさんあります。神は不信仰のイスラエルを、実をつけないイチジクや、実を結ばないブドウに例えていらっしゃいます。

紀元前8世紀、イスラエル南王国の預言者であったミカが、このような神の言葉を伝えています。

「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのイチジクもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。」

神が、信仰者を探そうとなさっても、見つからなかった、と言うのです。イスラエルの中に正しい信仰者を探すのは、季節外れの時期にイチジクの木に果実を探すようなものだ、とおっしゃいます。

預言者ミカと同じ時期にエルサレムで預言をしていたイザヤも、イザヤ書の5章に「ぶどう畑の歌」と呼ばれている神の言葉を残しています。神が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、良いブドウを植えられたのに、そのブドウ畑に実ったのは酸っぱいブドウの実だった、という内容の歌です。その歌の中で神はおっしゃいます。「私がブドウ畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあると言うのか。」

イザヤが伝えるこの「ブドウ畑」というのは、紀元前8世紀にエルサレムに住む人たちのことでした。神が愛情を注ぎ、イスラエルの人々を、そしてエルサレムの都にご自分の愛を注がれたのに、イスラエルはそれに答えなかった、神は、そのようなエルサレムの不信仰を「農夫に収穫の実をつけないぶどう畑」とおっしゃいます。

これらの旧約の預言を踏まえて、キリストによって枯らされてしまったイチジクの木を見ると、その象徴的な意味がよくわかると思います。このイチジクの木は祈りを無くしてしまったキリストの時代のエルサレム神殿でした。キリストは、このイチジクを枯らすことによって、弟子達に不信仰の末路をお示しになったのです。

これは、主イエスから弟子達は強烈なメッセージでした。しかし、弟子達は、主イエスがこのイチジクの木を通してお伝えになろうとしたことを、きちんと受け止めることができたでしょうか。

弟子達は確かにイチジクの木が枯れていることに驚きました。しかし、彼らが驚いたのは、祈りの家であるはずのエルサレム神殿の不信仰ではなく、単に、主イエスの言葉によって「イチジクの木が枯れた」、という事実でした。

弟子達はこれまでに何度も、主イエスが奇跡を行われるのを見て来ました。主イエスは病の人を癒したり、悪霊を追い出したりしてこられました。彼らが見て来た奇跡は全て、病や悪霊から誰かを救いだすための、救いの御業でした。

しかし、このイチジクの木を枯らしてしまう、という奇跡は、今までの主イエスが行われてきたこととは全く種類が違います。人間相手ではなく、木が相手です。救い業ではなく呪いの業です。弟子達は、なぜ主イエスがこのようなことをなさったのか、この時は理解できなかったでしょう。

驚く弟子達に、主イエスはおっしゃった。

「神を信じなさい。はっきり言っておく。誰でも、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。」

主イエスはただ、祈りが持っている力、信仰が持っている力を弟子達にお伝えになりました。

「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。」

私達はこの言葉を聞いてどう思うでしょうか。

「本当だろうか」と思うのではないでしょうか。信仰者であれば、誰だって神に祈ります。そして信仰者であるなら、「祈ったら何でも叶うなんていうことはない」、ということもよくわかてっているでしょう。たくさん祈る人ほど、そのことをよく知っているのではないでしょうか。

私達には、どんなに真剣に祈っても、実現しない願い事はたくさんあるのです。私達にとって祈り・信仰とは、都合のいいことを起こしてくれる魔術のようなものではありません。

ここを読む際に大事なことは、主イエスがここでおっしゃっている「この山」とは何か、と言うことです。主イエスがここでおっしゃっている「この山」というのは、エルサレムのある山のことです。もっと言えば、神殿のことです。

そのことを踏まえて主イエスの言葉を読むと、「心からの祈りは、強盗の巣になっている神殿に勝っている」、ということであることがわかります。神殿の建物に力があるのではない。祈りに、信仰に力がある、と言うことです。単純なことですが、これは見た目にすぐに影響されてしまう私達にとって大事なことだと思います。

主イエスが弟子達におっしゃったことは、とても単純でした。

「神を信じなさい」

この単純なイエス・キリストの一言が、後の弟子達にとってどれだけ大きな支えになったかわかりません。

十字架の死から復活なさった主イエスが天に昇られる際、弟子達は地の果てまでイエス・キリストの復活を証しするよう命じられました。「自分たちにそんな大それたことが出来るだろうか、この人数でできるだろうか」、と恐れたでしょう。

しかし、弟子達は神を信じました。自分たちではなく、神を信じました。そして祈り続け、聖霊を受け、世界へとキリストの復活を一生かけて伝え続けました。弟子達は主イエスがおっしゃった言葉の意味を、後々まで何度も思い出して考えたのではないでしょうか。「神を信じなさい」「祈り求める者は全て既に得られたと信じなさい」というキリストの言葉が、彼らの心に残り、彼らを支えていったのです。

主イエスは、最後に弟子達にこうおっしゃいました。

「立って祈る時、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、許してあげなさい。そうすれば、あなた方の天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」

我々キリストを信じる者の祈りとは何なのか、ということがこの一言に現れています。私達が祈りを通して神の求める究極のもの、それは「許し」です。人を許すこと、人に許してもらうこと、そして神に許していただくことです。

ルカ福音書に、放蕩息子のたとえと呼ばれるキリストのたとえ話があります。家を捨てて放蕩の限りを尽くした息子は、放蕩の果てに全てを無くし、最後に求めたのは、父の家に帰ることでした。彼が最後の最後で求めたのは、財産ではなく、放蕩でもなく、父の許しだったのです。

「お父さん、私を許してください」と言って父の下に帰る息子の姿こそ、信仰者の祈りの姿です。 Continue reading

07月11日の礼拝案内

【次週礼拝(7月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:18~26

 交読文:詩編3編

 讃美歌:讃詠546番、19番、239番、313番、頌栄541番

【報告等】

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火) 富士見町教会にて 東支区教師会、伊豆伝道委員会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

07月04日の説教要旨

マルコによる福音書11:11~18

「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉の他は何もなかった。」(11:13)

 過越祭への巡礼のため、主イエスと弟子達は、エルサレムの近くにあるベタニアという村に宿を取られました。

主イエスは日曜日に子ロバに乗って、武器も持たず、柔和で謙遜な姿でエルサレムに入場されました。それは、預言者ゼカリヤが預言したエルサレムの王の入場の姿そのものでした。

 エルサレムに入られる直前に主イエスはご自分の使命について弟子達におっしゃいました。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

罪にとらわれている人たちを取り戻すために、身代金としてご自分の血を流されるキリストの十字架への秒読みが始ました。その秒読みの中で、主イエスが何をなさったのか、ということを見ていきたいと思います。

私達が今日読んだのは、エルサレム入場の翌日のこと、月曜日の出来事です。

エルサレムに向かうためにベタニアの村から出ようとされた時、主イエスは葉っぱが茂っているイチジクの木をご覧になりました。それは遠くから見たらたくさん実をつけているように見える木でした。しかし、近づいてみると、その木にはイチジクの実が一つもなっていませんでした。主イエスは、その木を呪われます。

 そしてそのままエルサレムの町に入り、神殿の境内に入って行かれました。そこで商人たちが台を置いて、巡礼者たちを相手に、両替をしたり、生贄を売ったりしていたのをご覧になって、お怒りになって台や腰掛をひっくり返されました。

 ここを読んで、どう思うでしょうか。

月曜日に主イエスがなさったことは、私達にとっては首をかしげるようなことではないでしょうか。イチジクの木を、実がなっていないからと言って呪ったり、神殿で大暴れしたり・・・これまで私達が見て来た穏やかなイエス・キリストのお姿からは考えられないような振る舞いではないでしょうか。

イエス・キリストのこれらの振る舞いは、一体何だったのでしょうか。マルコ福音書は、この11章全体を通して、イチジクと神殿を交互に描いています。聖書は、イチジクの木に、その時代のエルサレム神殿を重ね合わせて私達に見せようとしているのです。

イチジクの木は、少し離れたところからだと、葉が茂っていたのでたくさんの実がついているように見えました。しかし、近くで見ると一つも実がなっていませんでした。

エルサレム神殿もそうだったのです。確かに遠くから見れば、立派な建築物でした。しかし、神殿の中では両替が行われ、生贄の売買が行われていたのです。

主イエスにとって、そのようなエルサレム神殿はもはや「祈りの家」ではありませんでした。離れたところから見てどんなに立派に見えたとしても、主イエスに言わせれば、その中身は「強盗の巣」だったのです。

イチジクの木はキリストご自身によって呪われ、枯らされてしまいます。それはエルサレム神殿の運命を暗示しています。実際にエルサレム神殿は、この出来事の約40年後、紀元70年にローマ軍によって破壊されることになるのです。

私達は、この月曜日のイエス・キリストの振る舞いを、「子供じみみた振る舞いだ」と言って、軽んじてはいけないと思います。

イエス・キリストが実を結ばないイチジクの木を呪われた、ということ、そして祈りがなかったエルサレム神殿から商人たちを追い出されたということ・・・これらのことを通して、信仰者は、自分の信仰を吟味しなければならないのではないでしょうか。

神殿は、ダビデ王の後のソロモン王の時代に建てられました。神殿の建築が完成した時、ソロモンはこのように祈りました。

「あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることを全てかなえてください。こうして、地上の全ての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、私の建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう」

それに対して、神はこうお答えになりました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々の元に行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えられた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。」

神はエルサレム神殿を無条件に守られる、などと言うことはおっしゃいません。

「あなたがたが私を捨てるのであれば、私は神殿を捨てる」とおっしゃるのです。

キリストが呪われたイチジクの木が枯れた、ということには深刻な信仰の問題が隠されています。神殿がもし、「祈り」という実を結ばないのであれば、神ご自身によって呪われ、倒されてしまう、ということです。

主イエスにとって、神殿の境内に両替のための台を置いたり、ここで生贄を売ったりすることは冒涜でした。主イエスは、境内にいた人たちに向かって叫ばれます。

「こう書いてあるではないか「『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」

『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とは、イザヤ書56章に書かれている言葉です。預言者イザヤは、ユダヤ人だけでなく、異邦人たち、全世界の人たちが真の神にもとに集められる日が来ることを預言しました。 Continue reading