06月13日の説教要旨

マルコ福音書10:35~45

「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない』」(10:42)

主イエスが「私はこれから殺されることになっている」とおっしゃったすぐ後に、弟子であったヤコブとヨハネの兄弟が、的外れな願い事をしました。「あなたが栄光の座にお着きになる時は、私達の一人を右に、もう一人を左においてください。」つまり、自分たち兄弟を他の弟子達よりも優遇してください、という申し出です。

このことは他の10人の弟子達にすぐにばれてしまいました。

他の10人の弟子達は怒りました。ヤコブとヨハネが、主イエスがお伝えになってきた神の国の教えが全く分かっていなかったからではありません。自分たちが求めていたものを、この二人の兄弟が誰よりも早く抜け駆けして求めたからです。ヤコブとヨハネが願い出なかったら、他の誰かが同じことを願ったのではないでしょうか。ヤコブとヨハネだけではなく、12人の弟子達全員が、イエス・キリストがおっしゃる神の国の教えを全く理解できていなかったのです。

ご自分の十字架が待つエルサレムを前にして、まだこんなことで言い争う弟子達をご覧になって、主イエスはどのような気持ちでいらっしゃったでしょうか。

あらためて、12人の弟子達全員におっしゃいました。

「あなたがたも知っているよう縫い、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

弟子達と一緒に過ごす時間がほとんど残されていない中、主イエスはとても厳しい口調でこのことをおっしゃったのではないでしょうか。

キリストの弟子として求めるべきものは、この時弟子達が求めているものと反対のものでした。誰かよりも上に立って、支配しようとすることではなく、誰かのために自分をひくくして仕える、ということ。権威をもって人を支配するのではなく、隣人の奴隷となってお互いに仕えあう、ということ。

主イエスは「異邦人はそうしているが、あなたがたはそうあってはいけない」という言い方をなさっている。異邦人と同じではダメだ、という言い方です。異邦人というのは、聖書の神を知らない人たち、ということです。特に、ここで主イエスがおっしゃる「異邦人」というのは、この時代ユダヤを占領し、ユダヤ人を支配していた、ローマ人のことです。

この時代、ユダヤ人たちは屈辱の中を生きていました。ローマの兵士たちが自分たちの国に駐屯し、自分たちを見張り、支配し、ローマに税を納めるよう求めていたのです。

キリストの弟子達もユダヤ人です。異邦人によって支配され、屈辱を感じていた者の一人だったはずです。ローマの軍隊に支配されて屈辱を感じているはずなのに、結局自分たちもそのローマ人と同じものを求めてしまっている・・・弟子達はまだそのことに気づいていません。

ローマ人であっても、ユダヤ人であっても、人は支配されるよりも支配する側にいたいと願います。その方が安心できるからです。しかし人間が同じ人間を自分の下に置くと、下に置かれた人間は、屈辱に耐えるしかなくなります。それが「人間の支配(人間の国)です。

しかし、イエス・キリストがお伝えになる神の支配(神の国)はそうではありません。皆、同じ神の支配のもとに生きるのです。皆同じ神の元に、上も下もなく生き、優越感も屈辱もありません。羊飼いに守られる羊のように、そこにはただ平等に安心と平和があります。

主イエスはおっしゃいます。「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

そこから、神の国に生きる、ということが始まるのです。

全ての人が互いに、僕になって仕えあう・・・そう聞くと、確かに美しい世界のように思う。しかし、本当にそんな世界は実現可能なのか、と思ってしまうのではないでしょうか。言葉としては、理念としては美しいが、そんなことは理想論ではないか・・・。

だからこそ、イエス・キリストは、まずご自分が十字架を通して、誰よりも低くなって仕える、ということの模範を世に示されました。私達は今日読んだところのキリストの最後の言葉を特に心に留めたいと思います。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエス・キリストがこの世に来られた理由がはっきりと言われています。

主イエスはご自分のことを、「人の子」とおっしゃいます。ご自分が、旧約聖書のダニエル書に、この世界の全ての支配を神から任される「人の子」であることを示されています。

しかし、天と地を支配する王として世に来られた「人の子」であるイエス・キリストの支配は、ローマがユダヤを支配していたように、軍事力によるものではありませんでした。羊飼いが自分の羊を柵の中に入れ、守りの中に置く・・・愛の支配です。

このイエスという方がなぜ十字架にかけられて殺されなければならなかったのか、ということは、謎でした。何も悪いことをしていません。むしろ人々を癒し、悪霊から救い、神の国の教えを説いて来られた方です。だから弟子達も主イエスの受難予告を真剣に捉えることが出来ませんでした。

イエス・キリストの十字架の苦しみの意味を預言しているのが、イザヤ書です。イザヤ書には、「苦難の僕の歌」と呼ばれる、いくつかの歌があります。神が、一人の僕を世に遣わされ、その僕が、罪人の罪を全て身代わりとなって背負って死ぬ、ということが歌われています。

イザヤ書53章

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」

「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」

人々は、やがてキリストの十字架に、イザヤが預言していた苦難の僕の姿を見るようになりました。

私達は、キリストの十字架を見つめなければならないと思います。「ほかの人よりも偉くなりたい」というこの時の弟子達こそ、生身の人間の姿です。教会の中でさえ、私達は、この時の弟子達のように、「誰が一番偉いのだろうか」などということを気にしてしまいます。

使徒パウロは、フィリピ教会にこう書き送っている。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」

主イエスはご自分の十字架を前にして、弟子達に最も大事なことを、お伝えになりました。

弟子達が互いにどうあるべきか、そしてご自分の十字架の死の意味は何か。ということを。

イエス・キリストの救いの御業を歌い上げる「キリスト讃歌」と呼ばれる歌があらいます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に跪き、全ての舌が『イエス・キリストは主である』と公にのべて父である神をたたえるのです」(フィリピ2章)

人に仕える、という神の御心に命をかけて、最後まで従順になる、ということをキリストは見せてくださいました。そして、そのお姿が人々を神の元へと招いたのです。

この後、この世の偉さをも求めたヤコブとヨハネ、そしてほかの10人の弟子達も、キリストの十字架と復活を見ることになります。彼らは変わります。この世の偉さ以上に、「あの方こそ主である」と世に伝えることに価値を見出し、そのことに一生をささげました。

神の御心に従い人に仕えるキリストの「苦難の僕」としてのお姿が私達の信仰の模範です。私達は弟子達のように、十字架に至るまで従順であられたキリストのお姿を見据える中で、この世の偉さよりも尊いものを見出していきます。

この世の宝に勝る天の宝を求めて私達がイエス・キリストの前に低くなる時、それを見た世の人々は、イエス・キリストがもたらしてくださった、神の愛による支配を見るのです。