使徒言行禄19:1~10
「人々はこれを聞いて、主イエスの名によって洗礼を受けた」(19:5)
北アフリカのアレクサンドリアから、エフェソの町にアポロという雄弁なキリスト者が来て、大胆にキリストの福音を語りました。アポロは次に海を渡ってコリントの町へと向かっていきました。
それと入れ替わりで、パウロがエフェソの町に入って来ました。エルサレムとアンティオキアの教会への自分の福音宣教の報告を終えて、ガラテヤ、フリギアの地方にある諸教会のキリスト者たちを励ましながらエフェソにやって来たのです。
エフェソの町にも「12人ほど」の、小さなキリスト者の群がありました。パウロやアポロが来る前に、他のキリストの使徒が福音を既に伝えていたようです。そこに、コリントからパウロと行動を共にするようになったアキラとプリスキラが来て、またその後アポロが来たりして、イエス・キリストを信じる人が少しずつ与えられてきたのでしょう。
これまでパウロは、キリストの福音を知らない人たちに、イエス・キリストの十字架と復活を告げ、神が聖書を通して預言してこられた救いの実現を伝えて来ました。しかしこのエフェソでは、すでに福音を知っている人たちに、更に自分が神から示されたことを伝えることになりました。他の使徒たちがすでに伝えた福音を壊さずに、自分に示された福音の理解を加えていく、ということはこれまでにない難しさがあったでしょう。パウロにとって、新たな試練だったと思います。
パウロはキリストの福音を既に受け入れていたエフェソのキリスト者たちに何を伝えるべきかを探るために、一つの質問をしました。
「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」
パウロは「洗礼を受けた時、聖霊を受けたかどうか」、ということを、信仰の一番根本にあることとして、重要視したようです。
エフェソのキリスト者たちは、パウロの質問に対して「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えました。「それならどんな洗礼を受けたのですか」と尋ねると、「ヨハネの洗礼です」と言います。パウロは、エフェソの信仰者たちが知っているのは「ヨハネの洗礼」だけで、「聖霊が本当にあるかどうかも聞いたことがない」、と答えたことを問題視しました。
エフェソ教会で聖書を語ったアポロも、知っているのは「ヨハネの洗礼」でした。「ヨハネの洗礼しか知らない」、ということは、どうやらキリスト者として何かが不足している、ということだったようです。
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが来られる前に、エルサレムの町から少しはずれた荒れ野で人々に洗礼を授けていた人でした。エルサレムからはるか遠く離れた場所で暮らしていたエフェソのキリスト者たちは、「ヨハネの洗礼」だけは伝え聞いていました。しかし、「イエス・キリストの名による洗礼」はまだ知らなかったのです。
パウロはエフェソ教会の人たちに「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と説明しました。そして改めて、エフェソの信仰者たちに「主イエスの名による洗礼」を授けました。するとエフェソの信仰者たちの上に聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりしたのです。
さて、私たちは、ここで考えさせられる。「ヨハネの洗礼」と「キリストの名による洗礼」は、何が違うのでしょうか。「ヨハネの洗礼」には、一体何が不足していたのでしょうか。
洗礼者ヨハネ自身は荒れ野でこう言いました。
「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」
ヨハネは「水」で洗礼を授け、キリストは「聖霊と火」で洗礼を授けられる、と言っています。「水」による清めと、「聖霊と火」による清めの違いがある、ということがわかります。
ヨハネの洗礼は、「水」によって罪のけがれを洗うという儀式でした。神から離れて生きていた自分と決別し、神の元へと立ち返り、神と共に生きる、という「罪の自分」との決別でした。
イエス・キリストの名による洗礼はどうなのでしょうか。「聖霊と火」による洗礼とはどういうことなのでしょうか。聖書で「火」は「神の裁き」を象徴する言葉です。火で金属が精錬されていくように、信仰者も、聖霊と火によって清くされていくことになります。
私たちは、イエス・キリストの名による洗礼を通して、「罪の自分」との決別に加えて、世の終わりにある「神の裁き」へと向かいながら「聖くされていく」ということでしょう。
エフェソのキリスト者たちは、「ヨハネの洗礼」を通して、「罪の自分に死ぬ」、ということは体験していました。しかし、過去に決別した後、これからどこへと向かって行くのか、ということはまだはっきりわかっていなかったようです。
彼らは、主イエスの名による洗礼を通して、「自分たちは世の終わり向かっており、そこに続く道をイエス・キリストと共に、聖霊に導かれて清められながら歩んでいる」ということを知ったのです。その道の上で、日々新たにされていく歩みへと踏み出しました。このことが、「キリストの名による洗礼によって新しく生まれる」、ということだったのです。キリストの名による洗礼を通して、人は新しい道を歩み始めます。これまでの道との決別に加えて、私たちには次の一歩が与えられるのです。
エフェソの12人の信仰者たちは、新しく、どこに向かっているのかをはっきりと知って道を歩み始めました。12は、イスラエルを象徴する数字です。この12人は、エフェソの町によける新しいイスラエル・新しい神の民として聖霊と共に歩み始めたのです。
私たちは改めて洗礼というものを考えたいと思います。自分の洗礼を振り返ってどうでしょうか。何を考えて、何を求めて洗礼を受けたでしょうか。「もう忘れた」こともあるでしょうが、確かなのは、「新しい自分」を求めた、ということでしょう。それまでの自分との決別を求めて、次に新しくなる自分に期待をして受洗したのではないでしょうか。「神を知らず、神から離れて生きる自分」と決別して、「神と共に生きる自分」になりたかったでしょう。キリストなしの人生を考えられなくなったのではないでしょうか。
パウロは後に、コリント教会への手紙にこう書いています。
「世の終わりに、おのおの「火によって吟味される」 そして「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と言っています。キリストの名によって洗礼を受け、聖霊と火で罪を洗っていただいた私たち自身、聖霊の住まいなのです。私たちは聖い神殿であり、聖い霊の住まいとされたのです。
私たちは、洗礼によって過去と決別しただけではありません。キリストは、十字架へと上げられる直前に、弟子達におっしゃいました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」
キリストがおっしゃった通り、私たちは、洗礼を受け、聖霊に導かれて、いずれどこにたどり着くのかを知っています。キリストが用意してくださった場所へと今も進んでいるのです。肉体の死を超えてキリストは共にいてくださいます。死を超えたインマヌエルという恵みを私たちはいただきました。
世の終わりには神の裁きがあります。神の前に立って裁かれるその場所へと、私たちは今どう生きるべきでしょうか。キリスト者はそれを考えて日々を生きるのです。
パウロは、「聖霊を受けたかどうか」ということにこだわりました。私たちは、ここでも更に考えさせられるでしょう。
「自分は聖霊を受けているのか。どうやったらそれがわかるのか」
「聖霊」という言葉は聖書の中にたくさん出てきますが、それが一体何なのか、自分にどういう働きを及ぼしているのか、よくわからないのではないでしょうか。
ある人は、「聖霊は私たちに神への恐れを生じさせるものだ」、と言っています。聖霊は、神への恐れを、本当に恐れるべき方を教える力だ、と言うのです。確かにそうでしょう。
聖書で「霊」は、「息」「風」と同じ言葉です。聖霊というのは、聖い息であり、聖い風でもあるのです。創世記にあるように、人は、鼻に神の息を吹き込まれて生きるものとされました。そして人は聖い風に吹かれて、行くべき場所へと導かれていきます。
聖霊は私たちを生かすものなのです。そのことを思うと、この息・風を吹かせてくださる方への恐れへと私たちは導かれるのではないでしょうか。
使徒言行禄の5章に、アナニアとサフィラの夫婦が、土地の代金をごまかしてキリストの使徒たちに献金をしたことが、書かれています。人を騙して得た金を夫婦で神に捧げました。そのことで二人は、主の「霊」に打たれて死んでしまいます。
アナニアが倒れて息が絶えたのを見た「人々は非常に『恐れた』」とあります。妻のサフィラも倒れて息が絶え、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に『恐れた』」とあります。 Continue reading →